第4話 湖の主 前編
悪夢のような毎日だった。
神とはなんと自分勝手なのだろう。そこに住む人の気持ちなどあっさりと踏みにじり、花を摘むように人命を刈り取る。理不尽に憤るも、神に己の声など届くはずもない。
オビトは夜空に輝く月を見上げた。うっすらと雲がかかった月は、怪しくも美しい。もうすぐ満月になる。恐ろしい、満月の夜がまた来てしまう。
村人全員が息を殺して、神の啓示を待った。無限にも思えるほどの時間が過ぎるが、誰一人として身動ぎさえしない。
突然、天高くから、風を切る音が聞こえた。
空から降り注ぐ一条の矢は、皮葺屋根の小さな家の前に突き刺さる。その家の主人と妻が、娘を抱きしめて泣き崩れた。当の娘は恐怖に青ざめながら、両手で口をおさえている。
オビトは目の前が真っ暗になった。娘と目が合う。娘は唇を震わせて、小さくオビトの名を呼ぶ。
オビトには、娘の言いたいことがはっきりとわかった。だのに、それに頷いてやることができない。棒立ちのオビトを見て、娘の瞳に少なからず絶望の色が映った。
ある者は、娘に不憫そうな視線を送りながら。またある者は自身が選ばれなかったことに安堵しながら、各々自分の家に入っていく。
娘の家族が家に入ってもまだ、オビトはその場に立ち尽くしたままだった。
満月の夜に、生贄を差し出せ。
水神様からそのような達示がおくられたのは、もう半年も前のことだ。それから毎月、近くの湖に棲む龍の姿をした水神は生贄の娘を食らった。
今宵は満月。生贄の日だ。
オビトは薄っぺらい煎餅布団のなかで、怒りと悲しみに震えていた。今度の生贄には、隣に住むコウが生贄に選ばれてしまった。今夜、コウは死ぬ。
じんわりと視界がにじむ。己が生贄に選ばれた方が、まだ平常心でいられただろうに。コウはオビトの全てだった。コウのいない生活など、考えたくもない。
コウが生贄になるのが怖い。でも生贄を出すことをためらって、村が水害に遭うのも怖い。そんなことをしたら、これまで犠牲になった娘たちが浮かばれないではないか。
(なんて情けないんだ)
何度か、コウがオビトの家を訪れた。でもオビトは何かと理由をつけて、コウを避けた。オビトはコウに会うことさえ怖かった。
恐怖で体が動かない。一番怖いのは、コウのはずなのに。
太陽が昇りきった頃、オビトはようやく布団から這い出し、着崩れた着物を直すと外に出た。春だというのに、妙に寒気がする。
オビトは家の前に立てかけてあった鉈を手に取ると、薪割りを始めた。重労働ではあるが、単純作業の繰り返しだ。無心で蒔を割ることで、オビトは余計な考えを頭から追い出した。
こんな湿気の多い季節に薪割りなぞしたら、普段であれば大目玉を喰らうところだが、この時ばかりは村人も、気の毒そうにオビトを見るだけで、文句をぶつけるようなことはない。
ところがしばらくすると、家で確保しておいた木がなくなってしまった。玉切りされた木は村で保管していて、一年間で使う分だけを、各自で家に持って行く。気付けば一年分の薪を、早々に割ってしまったのだ。
オビトは表情のすっかり抜け落ちた顔をひっさげて、村の外に出た。無駄になってしまうかもしれない薪を、これ以上村の保管庫から作るのは憚られた。
意味などないかもしれないが、一応木を切っておこうと思う。玉切りのまま己の家に置いておけば、もしかしたらこの冬役立つかもしれない。
着の身着のまま、鉈と竹かごだけを持つ。あまり遠くに行くつもりなどないから、獣が出る心配はないだろう。
村を出てしばらくすると、薪にするのにちょうどいい木を見つけた。背負った竹かごを下ろすと、中に入れておいた鉈を取り出し、えいやと振りかぶると木を切り倒した。
何度かそれを繰り返し、額にじんわりと汗をかいた頃「ちょいと、いいかい」と声をかけられた。
驚いて振り返ると、若い男が立っていた。役者と見紛うばかりの端正な顔立ちに、一目見てわかるほどの上等な藍染の着物。どこかの貴族の家の若だろうか。しかし護身用の脇差の見事な細工や、帯を賑やかすトンボ玉の根付を見ると、裕福な商人のようにも見える。だが、どちらにしろお付きの者が一人もいないのはおかしい。
「お前さん、この辺りのお人かい? 近くに村はあるのかな」
戸惑いながらも、オビトは答える。
「ああ」
「悪いんだけれど、案内してくれないかな。迷ってしまって」
仕方なく承知すると、男は、それはありがたいと屈託なく笑った。
「私の名はミツキという。気軽に呼んでおくれ」
オビトはミツキを連れて、村への道をたどった。暗い顔をしたオビトは、楽しそうになにやら喋り続けるミツキに目をやった。さっきから「ああ」とか「そうか」とか相槌を打つだけで、オビトはほとんど口を開いていない。さすがに申し訳なくなってきて、オビトは初めて自ら問うた。
「あんた、旅の人か?」
「そうだよ。もう随分と長く、旅をしている」
「どこから来たんだ」
何とは無しにオビトが問うと、これ以上ないほどあっさりとした答えが返ってきた。
「西」
「ってことは、京の方から来たのか」
ミツキは笑って否定する。京ではなくて、もっと、うんと西の方から来たのだという。
オビトは驚いた。京の都だって、ここからかなり遠いのだ。そんな長い距離を、ミツキはたった一人で旅しているというのだろうか。
「あんたみたいな身なりのいいやつ、すぐに雲助にでも身ぐるみはがされそうだがな」
独り言のように、ぶっきらぼうに言い放つ。
雲助とは、荷運びの仕事をする者の総称である。しかし、野盗まがいの者も多く、どちらかというと悪し様に言われることの方が多かった。
ミツキはオビトの言葉に気を悪くした様子もなく、右腕に力を込めて、力こぶを作ってみせた。
「私はこう見えて、腕っぷしにはちょいと自信があるんだよ。ほら、力こぶ」
「いや、ねぇよ。一寸たりとも動いてねえよ、お前の筋肉」
「おや、そうかい?」
心底意外そうにミツキは惚けた声を出した。
ミツキよりも、毎日力仕事に勤しんでいるオビトの方が、まだ腕力があるだろう。オビトはますますミツキの旅路が不安になった。
「ところで、村に宿はあるかい?」
「宿? いや、そんな大層なもんねえよ。小さい村だからな」
そこまで言って、オビトは青ざめた。
「いや、待て。今日、うちに泊まる気なのか!?」
「え? そうだよ。野宿は好きになれないからねえ」
「やめとけ! 悪いことは言わねえから!」
オビトはミツキの肩を掴み、力ずくで揺すった。
考えないようにしていたが、今夜は生贄の儀式の日だ。部外者であるミツキには、あまりに痛ましいあの光景を見せたくはなかった。
生贄、というところに考えが至った途端、オビトはうずくまった。胃の中の物を吐き出そうとするが、空っぽの胃からは胃液しか出てこない。
ミツキはおろおろとオビトの背をさすり、大丈夫かと声をかけてくれた。現実を見ようとするだけでこのざまとは、なんとも情けなかった。
(コウ、コウ……)
体が震える。避けられない死が、どんどん迫ってくる。ゆるりと首に薄布が被せられたようだ。これから締まっていくことがわかっているのに、外すことができない。
それから長い時間をかけて、ようやくオビトは少しだけ落ち着いた。ミツキは心配そうな顔をして、まだそばにいる。さっさと村に行けばいいのに。
オビトは絞り出すようにして、ミツキに告げる。
「泊まるつもりなら、村に寄るのはやめろ。……今日は、生贄の日なんだ」
生贄、という言葉を口にした途端、また胃がきゅうと痛んだ。無理矢理に吐き気を抑えこみ、きちんと全てを説明する。これを聞けば、ミツキも村に寄りたいとは思うまい。
「そんなことが……」
オビトの話を聞きおえると、あっけにとられたようにミツキがつぶやいた。
「もしかして……、生贄のお嬢さんというのは、お前さんの大切な人かい?」
オビトはうつむいて答えない。沈黙を答えと受け取ったのか、ミツキはさらに言い募る。
「それなら今、お前さんはお嬢さんのそばにいてあげるべきじゃないのかい? こんなところで薪を集めている場合じゃあ、ないだろう。私のことは放っておいていいから、早くお行き」
ミツキの声に、オビトの理性はぷっつりと切れた。
「お前になにがわかるんだよ!」
気づけばオビトはミツキに掴みかかっていた。力任せに揺すっても、ミツキは動揺した様子もなく、涼しい顔でこちらを眺めている。それがどうにも腹が立って仕方なかった。
「どのツラ下げて、コウのそばにいろってんだ。俺は、あいつを見捨てたのに!!」
生贄に選ばれた夜、コウは確かにオビトを見た。そして救いを求めたのだ。オビトにはコウの声がはっきりと届いた。助けてくれ、と。
「なのに俺は目を逸らした! 俺にはその決心がつかなかった……!」
それだけじゃない。もしも、もう一度コウに、今度こそ直接、助けてくれと言われたら? 村を見捨てて、二人で逃げるだけの決意が、オビトにはどうしてもつかない。それを思うと怖くて怖くて、コウに会いに行くことさえできない。
「お前さんは、優しいんだね。生贄を出してでも、村を救いたかったんだろう? 確実に犠牲は出るが、それ自体は間違ったことじゃない」
ミツキはそっとオビトの手を外した。
「でもね。お前さんはまだ、納得していないんだろう。だったら、納得のいくまで考えてみるといい。きっと、納得できる答えが見つかるはずだよ」
オビトはミツキをにらんだ。
「そんな方法、あるはずない」
「お前さんがそう思う限り、そうだろうね。でも私は、そうは思わない」
ミツキは踵を返し、村の方へ歩き始めた。
「案内してくれて、ありがとう。村の方向はわかったし、私はこれで失礼するよ。お前さんには他にやらなきゃいけないことが、あるみたいだからね」
ミツキは立ち尽くしたままのオビトを見た。
「それじゃあね」
一言だけ言い残し、それから振り返ることなく、ミツキは村へと歩き始めた。
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