第3話 猫の宿屋 後編
そろそろミツキの膳を下げに行かなくてはならない時間になって、サクマはぶらぶらと庭を散歩して時間をつぶしていた。なんとなく、ミツキの部屋に行きたくない。
とはいえ膳を下げないわけにもいかず、何度目ともわからないため息を漏らしていた。
憂鬱に染まったサクマの瞳に、夜を纏った人影が見えた。よくよく目を凝らすと、それが藍染の着物であることがわかる。
「み、ミツキ殿?」
声をかけると、人影がくるりとこちらに振り向いた。白い顔が夜の黒に浮かんで見える。
「やあ、ご主人。こんな刻限にどうなさいました」
「そ、それはこちらのセリフです! 何をしているのです?」
「いえね、古井戸を見つけまして。なんとも珍しかったので、つい」
悪びれた様子のないミツキに、サクマは目を吊り上げた。
「古井戸なんて、どこにだってあるでしょう。
こんな時間に外をうろつくなんて、どこぞの夜盗と行きあっても知りませんよ。これだけ広い敷地だ。誰かが忍び込んでも、わかるものじゃない。鍵のかかる建物にいてもらわないと、困ります」
「そうでしたか。それは、すみません」
そう言いながらも、ミツキはその場を動こうとしない。
「ミツキ殿!」
「もう少しだけ」
古井戸から動こうとしないミツキを、なかば引きずるようにして、部屋へ連れて行く。上客だとばかり思っていたが、なんとも面倒な客である。
目をつむって、やれやれとばかりに首を振るサクマ。その横顔に、ぎらぎら光るミツキの目が注がれていた。
今日は厄日だ。
こんな深夜に起き出すのなんて、随分久しぶりだった。それもこれも、あのミツキという客のせいだ。
ミツキがサクマに直接何かしたわけではないが、この不快な何かは、ミツキとともにやってきた。今はもう、あの男が疫病神に見えて仕方なかった。彼本人は人が良さそうに笑うだけに、始末が悪い。いっそ悪人面でもしていれば、簡単に恨めたものを。
尿意を感じ、いそいそと布団から這い出すと、今度はただの寒さにぶるっと震えた。暖かな綿入れを着込むと、両の腕で我が身を抱いて、厠へと急ぐ。
その帰り道。
ぞくりと、またしても嫌な寒気が襲ってきた。慌てて辺りを見回すが、ミツキの姿はどこにもない。やはり、さすがにあの男が直接の原因というわけではないのか。
ほっとした気持ちになると同時に、不安がもくもくと頭に積もる。あの男のせいでないのなら、一体何が原因なのだろう。
真っ先に一つの可能性が浮かぶが、それは……それだけはごめんだった。
早く、部屋に戻ろう。きっと寒いからだ。この背筋の凍る何かは、ただ寒いだけだ。
しかし、行けども行けども部屋は見えない。それどころか、自分の足元以外が全く見えなくなっていくではないか。
「ひ、ひええっ」
なんだこれは!
自分は頭がおかしくなってしまったのか。それともこれは夢なのか。どちらも嫌だが、せめて夢であってくれ。
すると今度は明かりが見えた。しかしそれは陽の光のように暖かなものでは決してなく、冷たくて鋭い、獣の瞳のようなそれだった。何対もの裂けた瞳孔は、サクマに明らかな敵意を持って追いかけてくる。
「うひゃあああっ」
悲鳴をあげて、サクマは転げるように逃げ始めた。
「はっ、はあっ。ひいっ」
どれほど走っただろうか。日頃の運動不足が祟って、もうまともに走れているのかさえ分からない。足はもつれ、お世辞にも速いとは言えない速度で逃げるサクマ。彼を追ってくる化け物どもは、きっと彼をなぶっているに違いない。逃げ惑う彼を見て、面白がっているのだ。
絶望的な状況の中、サクマの目の前に一筋の光が差し込んだ。果てしなく思えた暗い宿にも終わりが見えたのか、廊下の先に明かりが見える。そしてそこには、人がいるではないか。
後ろを向いているからその顔は見えないのだが、あの綺麗な藍染の着物と上等な帯に高価な根付。間違いようもなかった。
「ミ、ミツキ殿っ! たすけてくれっ」
息も絶え絶えに叫ぶ。ミツキは縋りつくようなその声を聞いて、初めてサクマに気づいたようだ。ゆっくりとこちらを振り向く。
安堵して駆け寄ろうとして、しかしその光景の異常さに気づいて、立ちすくんだ。
ミツキの瞳孔が、縦に細く裂けている。
前も、後ろも。気がつけば右も左も。縦に裂けた、たくさんの瞳がサクマを取り囲んでいた。
サクマは、へたっとその場に座り込んだ。恐怖に顔を引きつらせ、悲鳴をあげる。そしてそのままゆっくりと、気を失った。
くすくす。ふふふ。
暗がりの中に、笑い声がこだまする。それは少しずつ増えていって、やがて堪え切れなくなったように大きくなった。
「やあ、みんな。お疲れ様」
そこに響いたのは、場違いなほどにのんびりとしたミツキの声だった。にこりと笑って、ひらひらと手を振る。ミツキは先ほど己に与えられた部屋へと戻ると、くるりと後ろを振り向いた。するとそこには、手ぬぐいを頭にかけ、二本足で立つ化け猫が、何十匹も、ひょこひょこと尾を振っていた。
「じゃあ、酒宴にしようかね。夕餉はいただいた後だが……皆、まだ食べられるだろう? なに、料金は十分に払っているさ」
ミツキのその言葉を聞いて、化け猫たちは歓声をあげた。
「見たか、サクマのあの顔!」
「ああ、見たとも。いい気味だ」
「あいつ、我の目を見て怖がっていたぞ」
「何を言っておる。ワシの目を見て怖がっていたのだ」
「ミツキ様は、どう思われました? 誰が一番、怖かったですか?」
猫又の一匹が、前足をミツキの膝に乗せ、上目遣いに聞いてきた。あぐらをかいて酒を飲み、傍観者として可愛らしい言い争いを聞いていたミツキは、突然己が話題の中心に持ってこられて、大いに驚いた。いつの間にやらたくさんの裂けた瞳が、己の顔に向けられていた。
ミツキはぱちぱちと目を瞬かせて、期待のこもった眼差しを、唖然として受け止める。しかしすぐに気を取り直すと、にこりと笑った。
「みんな怖かったよ。特に、たくさんの目が光っていたところが、良かった」
「違いますよう。誰が一番か決めて欲しいのに」
不満げに口を尖らせながらも、ミツキに褒められて猫又は嬉しそうに身をくねらせた。
「さて。それにしても、サクマさんはこの後どうするのかね」
強い酒をちろりと舐めて、ミツキは独り言のようにぽつりと呟いた。しかしその言葉には、周りの化け猫たちが我先にと言葉を返す。
「私たちの寺を置いて、逃げてくれないかしら」
「けどそれで、住む人がいなくなったら、また荒れてしまうぞ」
「ああ、またあのおばあさんのような、いい人が住んでくれないかしら」
「おばあさんも、その父御も、あんなに良い人間だったのに。どうして孫はああも駄目な大人に育っちまったのかねえ」
「おばあさんは、それは良い人間だったさ。でも、人間である限り完璧はありえなかったということさね」
「どういうことだ?」
「つまりだね、おばあさんは子育てに失敗したのさ」
周囲の注目を浴びた、斑の柄の化け猫が、誇らしげに胸を張った。
「なにせ孫息子を、己を殺すような輩に、育てあげちまったんだから」
斑猫の言葉に、化け猫たちは得心がいったと言って頷く。
「ああそうだ。あれはいただけない」
「かわいそうなおばあさん。あんなに孫を可愛がっていたのに」
「返す返すも、サクマの馬鹿野郎め」
「ミツキ様が助けて下さらなかったら、今もおばあさんは、冷たい井戸の底にいたのでしょうね」
「最後の最後まで、おばあさんは孫を愛して、信じていたのに」
「おばあさんが古井戸から孫を呼ぶ声が、今も聞こえてくるようだよ。凍え死ぬまでの間、ずっと孫が己を突き落としたのが、事故だと信じて疑わなかった」
「しかもあいつは、おばあさんを殺して、神聖な祠の土地を売り払った!」
「その金の使い道だって? ああ、知っているとも。花街へ出かけていたんだろう? 郭の主人夫婦に飼われている猫が、サクマを見たと言っていた」
「やはり、だめだ。おばあさんの無念を、我らが晴らさなければ」
おばあさんを失った猫たちの嘆きは、気付けばどんどん物騒な方向へと進んでいく。おばあさん自身がそれを望んでいるかどうかなど、妖である化け猫たちは気にもしない。
「我にいい考えがある。サクマに取り憑いてやろう」
やがて一匹がそう言った。
「そうだ、化け猫の恐ろしさを思い知らせてやろう」
「化け猫憑きの人間の男か。いいね。これからの人生、きっと碌なことになりはしないよ」
不気味な笑い声が場に満ちる。これこそが妖の本質とでも言うべきか、並の人間であれば裸足で逃げ出すような、おどろおどろしい空気だ。
「これ、お前たち」
唯一、その場にいながら暗い雰囲気を持たぬ声が響いた。不気味な笑い声が一時途切れる。
「取り憑くのは構わないけれど、無理をしてはいけないよ。それから、あまり度を超えないようにね」
ミツキはそれだけ言うと、また酒をちろりと嘗めた。化け猫たちはなんとも気軽に諾との返事をすると、明日になったらサクマに取り憑くと決め込んで、膳に並んだ酒と菓子、卵焼きや漬物に夢中になった。手ぬぐいをかぶった猫たちが、思い思いに飲み、食い、踊る。
サクマの明日は、朔の宵闇よりも暗いものになるのだろう。
膝の上で丸くなった化け猫の喉をごろごろと撫で、柔らかい肉球をいじりながら、ミツキは手にした杯を、くいっと乾かした。
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