第3話 猫の宿屋 前編
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
何度心の中でつぶやいても、文句はおさまることなく次から次へと湧いてくる。一体どうして、こんなことになった。
サクマは必死に走りながら後ろを振り返る。真っ暗な廊下は一瞬何もないように思えるが、よくよく目を凝らすと、何対もの光がサクマを追ってくるのが見えた。光は縦に裂け、不気味にサクマを見てくるのだ。
「はっ、はあっ。ひいっ」
日頃の運動不足が祟って、もうまともに走れているのかさえ分からない。足はもつれ、お世辞にも速いとは言えない速度で逃げるサクマ。彼を追ってくる化け物どもは、きっと彼をなぶっているに違いない。逃げ惑う彼を見て、面白がっているのだ。
絶望的な状況の中、サクマの目の前に一筋の光が差し込んだ。果てしなく思えた暗い宿にも終わりが見えたのか、廊下の先に明かりが見える。そしてそこには、人がいるではないか。
その男は役者と見紛うばかりの綺麗な顔立ちをしていて、名をミツキといった。つい先日出会ったばかりの男であったが、その短い間にも、とても人が良い男であることがわかった。
後ろを向いているからその顔は見えないのだが、あの綺麗な藍染の着物と上等な帯に高価な根付。間違いようもなかった。
「ミ、ミツキ殿っ! たすけてくれっ」
息も絶え絶えに叫ぶ。ミツキは縋りつくようなその声を聞いて、初めてサクマに気づいたようだ。ゆっくりとこちらを振り向く。
安堵して駆け寄ろうとして、しかしその光景の異常さに気づいて、立ちすくんだ。
ミツキの瞳孔が、縦に細く裂けている。
前も、後ろも。気がつけば右も左も。縦に裂けた、たくさんの瞳がサクマを取り囲んでいた。
サクマは、へたっとその場に座り込んだ。恐怖に顔を引きつらせ、悲鳴をあげる。
助けてくれる者は、誰もいない。
時間は遡り、その前日のこと。
「やあ、いらっしゃい。お泊まりですかい? 食事ですかい?」
サクマはにっこりと笑みを浮かべて、戸を開けて中に入ってきた旅人を迎え入れた。
「泊まりで」
旅人は役者と見紛うばかりの端正な顔立ちの若い男であった。きりりとした男前な様相ではなかったが、愛嬌のある顔立ちで、若い娘はもちろん、年頃を過ぎた女衆からも人気が出そうだ。その男が身につけている藍染の着物が、やけに高価そうなのを見て、上客であることを確信する。愛想笑いにも気合が入るというものだ。
サクマは揉み手をしながら客に近づくと、荷物を受け取ろうと手を伸ばした。しかし客は小さく笑って「荷はないんだよ」と言う。
「あれま、お近くにお住まいでしたか」
頭を掻きながら、気づかなくてすみませんと頭を下げる。この辺りには小さな村がたくさん集まっているから、そのどれかに住んでいるのだろうか。
「いや、近くはないんですけどねぇ」
なんだか頼りなげに笑うこの若者が、たった一人で長旅をしてきた剛の者にも見えない。よくわからなかったが、客の事情には立ち入らないのが、良い店主だろう。
「じゃあ、こちらにお名前を」
宿帳を渡すと、若者は年頃に似合わぬ達筆で、ミツキと書いた。
「ミツキ殿、ですね。
ささ、お部屋へ案内いたしますんで、ついてきてくだせぇ」
サクマはミツキを連れて宿の奥へと入り込んだ。
自慢ではないが、この宿は広い。もともとは荒れ寺であったものを先先代が改装して作り上げたからだ。
だが残念なことに、それに見合うだけの客足はなかった。ここは観光地でもないし、近隣には村も多い。わざわざこの大きな宿に泊まろうという者は実はあまりいない。
「これは、驚いた。随分と大きなお宿ですね」
「ありがとうございます」
機嫌よく返事をした矢先、サクマの足元で床板がきい、と軋んだ音を立てた。サクマとミツキは束の間、顔を見合わせると、どちらからともなく吹き出した。恥ずかしそうに笑いながら、サクマは頭を掻く。
「広いのですが……まあ、昨今はなかなか厳しいもんで、ちょいと古くなっちまっているんですよ」
「床板が鳴るのは普通のことですよ。ちっとも気になりません」
「おや、本当ですか」
「それに、古い器物には魂が宿るものです」
真面目くさった顔でそんなことを言うミツキに、サクマは目をパチパチとさせた。
「魂……ですか?」
「ええ、魂です」
ミツキはそれを信じて疑わないらしく、大仰に頷いてみせた。
「建物そのものに宿ることもあります。神使が住み着くこともあります。だから私は、古い建物が好きです。
とくにここには、何かしら神々しさを感じます」
「そこまで褒めていただいて……」
サクマはばつが悪そうに押し黙ると、剥がれかけた塗装を指でなぞりながら肩を落とす。
「お値段のほうは、他の宿とそう変わりがあるわけじゃぁないんですがね。どうも大きいってだけで、高価だと勘違いされてしまうみたいでして。どうにも敬遠されてしまうんですよ」
「確かに、とても立派なお宿ですからね。無理もない話です。これで値段も安いなら、なんともお得だ。
ああ、そうだ。旅先で何か聞かれることがあったら、この宿のことをお話ししておきましょう」
「おお、そりゃあ有難い。
さあ、つきましたよ。こちらがお部屋です」
サクマは襖を開けて、中に客を通す。
「おや……これは」
中を見て、ミツキは言葉を失った。その反応を見て、サクマは内心で泡を食っていた。
その部屋は、この宿の中では最も立派で、高価な部屋だった。サクマはミツキの身なりを見て、このくらいの金は持っているだろうと踏んだのだが、意外とこのお坊ちゃんは金銭感覚がしっかりしているのだろうか。
「しょ、少々広すぎましたかね」
焦りを必死に押し隠しながら、へこへこと手を揉む。しかしミツキは険しい顔で部屋を眺めた後、くるりとこちらを振り返って、にっこりと笑った。その表情の変わりように、一瞬薄ら寒い気配を感じたものの、今の穏やかなミツキの表情に、後ろめたい何かは感じ取れない。
「いえ、こちらのお部屋でお願いします」
「あ、ありがとうございます。こちらのお部屋ですと、お値段は……」
ほっと胸をなで下ろして、ミツキに価格を提示する。決して安い金額ではないはずだが、ミツキは迷う素振りもなく、すんなりと承諾した。
「ひとつ、お願いが」
「はい、何でございましょう」
「食事はこの部屋で取りたいので、運んでいただけますか。それから、私はこう見えて大食らいなので、普通の人の三倍、食事をお願いします。もちろん料金は払いますから」
サクマは大いに驚いたが、こちらとしては儲かるので、有難い話だ。断る理由などどこにもない。
「人は見かけによりませんなぁ。でも、はい。かしこまりました」
「あと、それからもう一つ」
「はいはい」
次はどんな儲け話が飛び込むのかと、相好を崩す。しかしミツキの次の言葉は、一体全体どういう意図があるのか、全く理解できなかった。
「手ぬぐいを、なるべくたくさん、お借りできますか?」
「……はい?」
狐につままれたようなサクマに、しかしミツキは、ただ笑みを深くするだけであった。
「いやあ、夕飯も豪華ですね」
「へへっ。私の唯一の特技でして」
普段の三倍のご馳走を並べてみると、それはなんとも贅沢な様相になった。もともと一人で泊まるような部屋ではないから、部屋が狭く感じるようなことはなかったが、これを目の前の華奢な男が一人で食い切るのかと思うと、気が遠くなる思いだ。
しかし肝心のミツキはというと、温かな湯気が立ち上る膳には見向きもせず、せっせと食事を運び込むサクマに、じっと視線を注いでいる。
「冷めないうちに、召し上がってくださいな」
そう声をかけるのだが、ミツキは「ありがとう」とだけ言って、やはり膳には手をつけない。黙ってこちらを見ているのがわかって、どうにもくすぐったくて仕方ない。
ようやく食事の全てを運び込み、一息ついて椀にご飯をよそっていると、ミツキが「そういえば」と口を開いた。
「こちらは、もとは神社か何かですか?」
「いいえ、違いますよ。どうしてそう思われたのかわかりませんが、ここは、ずいぶん前は荒れ寺でした」
「お寺様でしたか」
整ったミツキの顔が驚きに染まるのを見て、少し得意げな気持ちになる。
「ええ、そうです。先先代が、荒れ果てた寺を哀れに思い、改築したのが始まりだと聞いています。私は三代目です」
「初代は、あなたのお爺様ですか?」
「いえ、ひい爺です。私の両親は早死にでしてね、先代は祖母です」
「それは……すみません」
「気にしないでください。もうずっと昔のことですから」
それからミツキは、庭先のずっと向こうを見つめた。何かあるのだろうかとそちらに視線を送ってみるも、夜の闇に閉ざされて、眼に映るものは何もない。
「今夜は朔ですね。おまけに薄雲がかかってるから、真っ暗だ」
しかしミツキはそれには答えずに、闇の向こうを見透かしている。
「ねえ、ご主人」
「はい、なんでしょう」
「このお宿、改築しましたか? それも、最近」
またしても一瞬、ぞくりとした何かを感じ取る。ぶるっと身震いして、どこから沸いたのか分からない恐怖を振り落とす。目の前の、この人の良さそうな若者に恐怖するなど、馬鹿げている。
「改築……と言えるのでしょうか、わかりませんけど、一部を取り壊して、土地を売りましたよ」
その時、がたりと襖が揺れた。これには少々驚かされた。いくら建物が古くなっているとはいえ、こんなにも大きな音を立てるほど、がたがきていたとは。
「あれま。すみません、古い建物で」
ミツキは気にするなというように、首を振った。
「ところで、先代……つまり、あなたのおばあさまは、それに反対なさりませんでしたか?」
「していましたよ。神聖な土地だからと。
しかし、祖母は先日、療養のために親戚の家に引っ越しましてね。ここにはいないのですよ。だから私の裁量で、やらせてもらっています。申し訳ないとは思いますけどね。神様に遠慮していたら、食べていけなくなってしまう」
「おや、そうでしたか」
特に変わった会話をしているわけでもないのに、だんだんミツキが気味悪く思えてきた。ここにいると、背筋がどんどん寒くなる。
「さて、では私はそろそろ失礼しますね。他の仕事が残っているもので。
食べ終わった頃に片付けに参りますから」
サクマは早口に言うと、そそくさとミツキの前から逃げ出した。
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