第5話 二人――名無しの君へ

 マリーがやってきたここは、この地方の魔術師達を管理する役所にあたる建物である。とはいっても、世間的には魔術という存在が認知されていないこの現代において、もちろん表向きにそう口外しているわけではない。基本的に魔術協会の関連施設は協会と密接なつながりのあるコルシズ教の名を表向きには借りており、例えばここは一階は小さな礼拝堂、二階が信者たちの簡易宿泊施設などとして用いられているらしい。

 こんなにボロボロでその威厳が保てるのかははなはだ疑問だが、教会の威厳の強いメディトリアン地方の方ではそれはそれは立派な礼拝堂が建っているのを考えると、この地域では教会の地位もこの地域での魔術師同様それほど高くないのだろう。先ほどのルアも表向きには礼拝堂の司祭ということになっており、実際にちゃんとした資格も持っているそうだ。

 

 そして、マリーの今回のお仕事というのが、この支部にヴェネトにある本部から親書を届けることだった、というわけだ。

 そんなわけで宿泊できる部屋の一つに入り、マリーはドカッとベッドに仰向けに倒れ込む。


「あーーーーーーーーーーーーー」


 何かが言いたいわけでもなく、ただ何とはなしに、叫ぶ。

 一仕事終わったという達成感と、それからくる虚脱感、さらには炎天下で一日歩き回った疲労感。ここに来てからのすべてがマリーにそうさせていた。


気のすむまで声をあげ、休みながら、天井のシミを数える。建物の外観に似合わず思ったよりも清潔な部屋だが、あくまで思ったよりも。数えるシミには事欠かない。そうやってしばらく経ったところで、ぎゅっと一度目を瞑ってから、上半身を起こす。


「ねぇ」


 視線の先には、彼女がこの部屋に入ってからずっとそうしていたのだろう。扉の前で気を付けの姿勢で佇む少年がいた。


「キミ、いつまでそうしてるの」

「……」


 少し待つが、返答がないとわかり、また、彼女はベッドに倒れこむ。

 カチ、コチ、と部屋に置かれた置時計が時を刻む音だけが部屋に響く。

 時計の針がどれだけ動いただろう。寝ているのにも飽きた、とでもいうかのように、少女が再び上半身を起き上がらせる。


「ねぇ」


 じっとしていることは、彼女は余り得意ではなかった。


「あんた、名前はなんて言うの」

「……」

「いつまでもキミとかあんたじゃ不便でしょう! 名前ぐらい教えなさいよ!」


 しかし、その質問への返答は、彼女が予期していたものではなかった。


「…………ない」


「え、なんて」


「ない。……名前は、ない」


「え……」


 それは、少女にとって、少なからず衝撃的なセリフだった。


「……じゃ、じゃあ、キミ、今までなんて呼ばれてたの?」

「…………ナンバー2」

「今まで、ずっと?」

「…………ナンバー3とか、も、あった」

「……」


 今度は、彼女が押し黙る番だった。

 悪いことを聞いてしまったかな、と少しそう思ったが、少年の顔は、相変わらずの無表情で。

 だから、彼女はどうしたらいいかわからなかった。

 あてもなく、視線を部屋のあちこちに向ける。

 少し埃をかぶったボトルシップ。カチコチとやたら音の大きな時計。無骨に部屋の隅に置かれた木の机。薄くてすぐに背中の痛くなるベッド。立て付けの悪い扉。


……扉の前に佇む少年。


「あーーーーーーーーーーーーー!」


 叫び、また、倒れこむ。

 何かが言いたかった。

 

 でも、何を言ったらいいのかわからなかった。

 彼女の短い人生では、それを言葉に表すことはできなかった。

 

 そのまま、秒針が時を刻む音だけを聞く。

 ……一つ、思いついた。今、私がしてあげられること。

 でも、それは本当に私がするべきことなの? 私がしても、いいことなの……?

 わからない。わからない、けど…………。

 ギュッと、目を瞑る。

 そして、ゆっくりとまた、上半身を起こす。

「……私が、名前、付けてあげる」

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