古歌 ~翠浪の白馬、蒼穹の真珠 外伝3~
結城かおる
第1話 月下の酒宴
「……妹はもう寝たようだ」
「それはそうだろう、レツィンは今日都に来たばかりなのに、王宮で
「ふふ。精一杯大人っぽく背伸びをしているが、まだまだ子どもだな、あいつも」
ひそひそと、邸宅の片隅で言葉を交わすのは二人の若い男。灯りのともった書房の窓際、酒肴を並べた卓の上に差し向かいになり、それぞれ盃を手にしている。
精悍な顔つきで浅黒い肌をした青年はサウレリといい、
二年前、烏翠とラゴ族がある理由で小競り合いを繰り広げるなか、若者二人はそれぞれを代表する立場として出会い、紆余曲折を経て和解の道筋をつけることに成功した。
だがその和約は少なからず苦いものを含み、サウレリは盟約の証しとして、断腸の思いで最愛の妹を人質として烏翠に送らねばならなくなった。また、彼と弦朗君の間にも敵味方を越えた友情が育まれたが、互いに譲れぬものをも抱え、葛藤のうちに別れたのだった。
「それにしても、レツィンはそなたに似ているな。顔だけではない、あのきっぱりした物言いも、快活なところも。それに、剣舞を舞ったときに見せた、
「だろう?俺の自慢の妹だ。剣術も馬術も得意で、利発な子だ。しかも、美人と来ている」
サウレリが小鼻をうごめかせると、弦朗君はこらえきれぬように笑いをこぼした。
「おやおや、あの時とまた同じことを私に聞かせるのか、
「ははは、親馬鹿ならぬ兄馬鹿とでも言いたいのだろう」
声を立てたサウレリも、一瞬後には切なげな表情となって盃を置いた。
「だが、俺はついにあの妹の翼を折って、籠の鳥にしてしまうのだ。お前の言葉の通りにな」
「サウレリ……」
「いや、わかっている。我等ラゴ族が烏翠と共存し、生き延びるにはそうせねばならない。あいつも曲りなりにも『姫』と呼ばれる身なのだから、一族のためにはどのようなことも受ける覚悟はできている筈だ」
サウレリは人質となる妹を烏翠の都まで送ってきて、まずは弦朗君に預けて女官見習いの修業をさせ、一年後の入宮を待つ段取りになっている。
野山を馬で駆け回り、伸び伸びと暮らしていた少女を異国の後宮に、しかもおそらくは一生涯閉じ込めてしまう――サウレリは何度も自分自身に、そして妹に族長一族としての責務を言い聞かせたが、運命を甘受したかのように自分に恨み言ひとつ漏らさぬレツィンを見ていると、胸が痛んでならなかった。
「だがせめてもの救いは、お前の手にレツィンを委ねられたことだ。いずれ彼女が仕えることになるそなたの祖母君――太妃様もお優しく道理をわきまえたお方のようだし。礼儀もろくに知らぬ跳ねっ返りだが、よろしく面倒を見てやって欲しい。厚かましい願いだが――」
「わかっている。私の命に代えても、必ず」
弦朗君の優しげな笑顔はそのままに、だがきっぱりとした口調で言いきる。
「さあ、酒もまだまだある、肴も烏翠の酒に合うものを用意した。またあの時のように、飲み比べの果し合いをしよう」
「望むところだ、今のところ一勝一敗だからな。今宵こそ決着をつけよう」
弦朗君は頷くと、立ちあがって窓を開けた。さあっと晩秋の冷気が室内に流れ込んでくる。二人が見上げた先には冴え冴えと明るい十四日の月がかかっていた。
「和約を結んだときの約束を覚えているか?族長代理。次に見えるときは戦場ではなく、月下で会いたいと。そして、互いに歌を詠もう、詩を吟じようと」
「もちろんだとも」
「天は願いを聞き届けてくださったのだな、これほど詩歌にふさわしい月をご用意くださるとは。しかも我等が戦場で遭わずに済んで――今のところは」
その「保留つき」の感慨を、サウレリも万感の思いで聞いていた。烏翠とラゴの和約が破れ、再び弦朗君と戦場で
サウレリの沈鬱な表情に気づいたのか、弦朗君はことさらに励ますかのような声を出した。
「そんなに浮かぬ顔をしていると酒でも歌でも私に勝てぬが、それでいいのか?そなたが詠まないならば、私から初手で詠もう。といっても、最初は烏翠に伝わる古歌で小手調べをするかな」
そしてひと呼吸おき、月を眺めながら詩句を紡ぎ出す。
月下、
侍童、
雲上、
仙女、機を織り
「いかにも古き良き歌だな、お前が好むのもわかるような」
サウレリが素直に賛意を表すと、弦朗君は心の底から嬉しそうな表情になった。
「となると、次は俺の番か。では……」
若草色の蝶は谷を渡りて故郷に帰り
孤月の影を抱きて
ひらひら舞い戯れる相手はありやなしや
「なっ……」
耳を傾けていた独身の弦朗君の頬に、ぱあっと赤いものが散った。
「人をからかって済むと思って……にやけるそなたとて、未だ独り身であろう?」
いつも冷静な彼に似合わず、憤然として盃をサウレリに突き付ける。
「もう容赦しない、酔い潰して恥をかかせてくれる」
サウレリは挑むように、盃の
「だったら返り討ちにするまでのことだ。お上品な烏翠の酒などで、この蛮族が潰されるとでも?」
鯉の甘露煮を次々と口のなかに放り込んで相手を見据える。受ける弦朗君はくすりと笑った。
「でも、良かった。妹御を手放す辛さをこのひと時でも癒すことができれば……」
「いや、こちらこそ礼を申す。弦朗君、兄になったつもりであいつを教導してくれれば。確か妹はおらぬのだろう?」
サウレリの言葉に、相手はふっと寂しげな表情になる。
「ああ……そなたはやはりそうだ。私を
「それは、お前が言った通りにしているだけだぞ」
――二度と私を諱で呼ぶな。
――もう、あなたを諱で呼ぶことはしない。
「わかっている。そうだな、そなたは律儀で誠実だから私の言葉を守ってくれている」
友ではあるが、味方でもない。敵でもあるが、肝胆相照らす仲でもある。二人は魅かれ合い友情を育みつつも、結局はそのような関係を選択した。いや、他に選ぶ余地はなかった。片や一族を統べる者として、片や使者に立った王族として、互いの立場を理解し共感しつつもなお譲れぬものがあったからだ。
二人の間の空気を変えるかのように、弦朗君は身体をぶるっと震わせる。
「それにしても、私達はあまり賢くはないな。いくら月が美しいとはいえ、窓を全開にして酒を飲むなどと……」
両人とも毛織物を羽織っていたとはいえ、かなり冷え込んでいた。窓を閉めようとする相手の手首を、思わずサウレリは掴んで押さえる。
「まあ、良いではないか。俺は明朝にはここを発ってラゴに帰る。まだ酒も飲み終わっていないのだから、そのままで。酔った我等がよしなしごとを言った言わないで喧嘩にならぬとも限らぬ、この月に証人になってもらうのだ。いいだろう?」
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