第4話 青年の話(3)

 ……十六歳になった春のことです。僕は例年通り、祖父の家に行きました。

 憶えてますか? 僕にとって、十六歳というのは、何であるか。

 その年、いつものように、僕は祖父の家に着けば、屋根裏部屋に行きました。サリィに今年も来たよ、と、知らせるために。約束を守ったと伝えるために。

 けれども、屋根裏部屋に続く細い階段を上って、扉を開けたら、その向こうに屋根裏部屋はなかったんです。

 かわりにあったのは――そうですね、別世界というのが正しいでしょう。これは例えでもなんでもありませんよ、実際に別世界だったんですから。

 いったい何があったかというと、草原が広がっていたんです。ぼんやりと七色に色づいた霞が漂う、草原です。その草原の緑色も奇妙なほどにまぶしくて、白くて丸い花は、霞と同じくぼんやりと色を変化させていました。奥を見れば、奇妙な形の木があって、鳥か獣か、けれども楽器で鳴らしたかのような鳴き声が聞こえてきました。空を見れば、バネのような木が天高く伸びていて、その空も青色ではないんです。薄い紫色のような、赤色のような、なんというか、薄い色の絵の具をぐちゃっと混ぜたような空です。そこに、星だといわんばかりに、真珠のような玉がいくも浮いているんです。そんな世界が広がっていましたから、僕は部屋の前、いえ、その世界の前で驚愕して立ち止まったんです。

 そして、霞の向こうに、サリィの姿が見えたような気がしました。

 それで僕はわかったんです。ここから先は、妖精の世界だって。きっと彼女が何かしたんだって。それからその理由も、わかりました。だって彼女は、霞の向こうで、本当に嬉しそうに笑っていましたから。まるでこれからずっと一緒、みたいに。

 サリィは多分、僕と結婚したかったんです。

 だから僕が十六歳になって、妖精の世界に連れて行こうと考えたのだと思います。彼女なりに、必死に考えたのでしょう。僕が十六歳になっても、人間の世界で僕は彼女を認識できない。それならば、妖精の世界ではどうか、と。これは後で調べた話ですが、妖精が人間をさらうことは、あるみたいですね。そのほとんどが、子供のようですが……でも、これが彼女なりに導き出した方法だったんでしょう。僕と結婚するために。思えば、昔はぶかぶかだったあの花冠も、その時では、ちょうどいいサイズになっていたんです。もしかすると、彼女は以前からこうしようと、考えていたのかもしれませんね。

 でも、僕は彼女を振ったんです。

 ――怖くなってしまったんです。

 だって考えてみてください、扉を開けたら、あるはずの部屋がなくて、かわりに……奇妙な世界が広がっているんですよ。それも現実ではないと思えるほど、美しい世界が。でも現実で、そこにあるんです。それは怖いと思っても、仕方ないでしょう?

 もし、僕がその時まだ子供なら、その世界に入っていったかもしれませんね。きっと、怖いとは思わなかったでしょう。だって子供って……現実と幻想の区別が、はっきりとありませんから。

 けれどもその時の僕は、もう子供ではなく、大人でした。

 だから僕は、その世界に入らず、怖くて扉を閉めたんです。拒絶したんです。こんなのは、おかしいって。

 それからその年は、もう屋根裏部屋に近づきませんでしたよ。怖くて仕方なかったんです。あんな、理解できないものは。それから僕は、わかったんです。僕は人間で、彼女は妖精。彼女は……別の生き物です。だから、結婚はできないと。

 それでも、よい友達でいたくて、実家に帰る日の前日、再び屋根裏部屋を訪れました。

 恐る恐る扉を開けると、いつもの屋根裏部屋でした。けど、中に入るのには、時間がかかりましたよ。もしこれが幻想で、足を踏み入れたとたん、あの世界だったらって、考えずにはいられませんでしたから。それでも中に入れば、特に様子は変わらず、だから僕は、いつもの場所に、いつものように、指にはめていた花冠を置いたんです。約束と、友情の証に。愛の証では、ありません。

 結婚はできないけれども、友達でいたい。それを伝えるために。

 けれども、次の日、花冠は交換されることなく、そこに置いてありました。

 サリィが拒絶したのか、それとも僕に嫌われたと思って去ってしまったのか、何故なのかは、わかりません。僕も、あんなことがありましたから、その年は、仕方なく、交換されないままの花冠を持って、実家に帰ったのです。また会えたときに、交換してもらおうと思って。

 でも、あの後、サリィがどうなったのか、僕は知りません。

 あれ以来、彼女は完全に姿を消してしまったのです。

 というのも、僕が実家に帰ってしばらくして、高齢だった祖父がついに亡くなりました。そしてあの家は、壊されてしまったんです。だから、僕と彼女が使っていた屋根裏部屋はなくなってしまいました。サリィを振ったあの年が、祖父の家に行った、最後の年になったんです。

 それでも、もしかしたらと思って、その次の年、何もなくなった祖父の家の跡地へ行きましたよ。本当に、何もなくなっていました。そこで僕は、平たい石を見つけて、そこに花冠を置いて、近くの宿で一晩待ってみたんです。もし彼女がまだそこにいるのなら、僕が来たことに気付いてくれるだろうと思って。

 でも、花冠は交換されていませんでした。

 サリィは、本当にいなくなってしまったんだと、わかりました。

 そうわかって、僕はもう、その土地には行かなくなりました。けれども、花冠はずっと持っていました。いつかサリィに会えることを期待して。

 でも、会えなくて。

 二年経っても枯れなかった花冠ですが、三年目で少し萎れてきました。四年目で、完全に萎れて、それから何年も経った今では……この状態になってしまいました。ええ。これが、その花冠だったんです。ただの糸くずが巻き付いているように見えるでしょう? でも確かに、花冠だったんです。僕とサリィの、約束の証だった、あの指輪だったんです。

 ――これが、この指輪にまつわるお話です。

 ……嘘だと思いますか? 以前、このお話をした人の中には、きっと妄想だ、妖精なんて想像の友達で、その糸くずも自分で巻いている、って言う人もいましたよ。まあ、他人に何を言われても、僕は構いません。それでも僕は、確かにサリィと過ごしたのですから。そして、僕は再び彼女に会えた日に、この花冠の指輪を交換してもらうために、いまも身につけているんです。それに、身につけていることで、再び会える気がするんです。

 そこで、この話を聞いてくれたあなたに、頼みたいことがあるのです。

 最初に言いましたよね? この指輪について話すかわりに、頼み事を聞いて欲しいと。

 大丈夫、難しいことではありませんって。それに――なんとなく、何を頼まれるか、気付きましたでしょう?

 ……ええ。そうです。

 もし、あなたがサリィに会えたのなら――僕がまだ、彼女を愛しているということを、伝えて欲しいんです。

 けれども、その愛は友達としての愛であること。そして人間の僕と、妖精の君では、一緒にはなれないこと。

 それでも僕は、また君に会いたいと思っていること。

 そのことを――もし彼女に会えたのなら、伝えて欲しいんです。

 もし、彼女でなくても、妖精に出会ったのなら、サリィという妖精にそのことを伝えて欲しいと、言伝をお願いします。

 ――僕は、彼女とはよい友達でいたいんです。

 一緒にはなれないけれども、愛していますから。

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