閑話——アニマルビジョン本部
ダンジョン監視機関【アニマルビジョン】
獣の血筋が混じった冒険者ならば、誰でも登録が出来る有志の組織。抱えきれなくなったダンジョンにまつわる賞金依頼を獣人達に振り分ける形となっているが……残念ながら真に受けている連中は少ない。
一般的なパーティーを組めばダンジョン攻略でそれどころではなくなるし、ギルドの依頼を達成する方が効率良く手厚い待遇も受けられた。
これまでの悪評も相まってか。何かと対立しがちな【冒険者ギルド連盟】という巨大組織の前では、貢献するほど厄介者と見られる立場にある。
そんな逆風の中にあっても『アニマルビジョンに骨を埋める! 魂の輪廻が続く限り、この身の全てを捧げてみせる!』と、一方的に契りを交わした人物がいる。
熱狂的とも盲目的とも呼べる数少ない正隊員。空の大隊長——鷹人のフェルニール。
現在の彼女は背中の大きな翼で風を切り、一番街上空を全速力で飛んでいた。
他人が抱く印象は、『グワッ!!』と見開かれた威圧的な眼光。
アニマルビジョンの規律……いや、鹿野クリフォネアの一挙一動こそが、この街の平穏に繋がる唯一の希望。そう信じてやまないからこそ、フェルニールは私生活含め真面目一辺倒を貫いていた……いたのだが。
泣く子をさらに泣き
「どうして! どうしてこうなってしまった!?」
一番街とは広大な街、ホワイトウッドの中心に当たる場所。ここは他の地区と比べると景観がかなり違う。
フェルニールは流れる涙をそのままにしながら、地上の様子を気にかけていた。
長い歴史を思わせる
民家ですら他の地区では見ない高級な素材が使われていた。例えばダイヤモンドより高度があるメゥルウル
五秒置きにドクンと脈打つ——寿命を延ばす効果がある——時間延滞型高級マンション。
使っている本人達ですら理解不能な素材も多い。
眩しいっ……とフェルニールが目を背けたのは、空気すら反射する信仰系物質でコーティングされた、どこぞの
大砲の発射口が高速で過ぎ去るフェルニールに沿って動く。
(なぜいつもこちらを狙っている。一つ潰すか——だが、今は一刻の猶予もない)
詰まる所、この一番街を拠点とする冒険者達は富裕層だ。ホワイトウッドの五大勢力。そして友好的な異界の貴族や、権力者がここを根城としている。
その他はギルドランカー達と呼ばれる超実力者達が勢力図を誇示する目的として、日夜縄張り争いを繰り広げている。
それに比べて。
フェルニールは飛び立った賑やかな番街を思い返す。
(どうして五番街はあれほど騒がしい。人種比率は他の地区に比べてバランスが良い……それこそが原因か)
見開かれた瞳孔の奥から、この小一時間ほどの
不定形魔獣の雷雲モドキが雨でもないのに地下道から出現。地上で何百人が感電した。
少し進むと看板に描かれた素数だけがごっそり消えて無くなった。いや、正確には割り切れない自分の境遇に嫌気がさして逃亡したと言うべきか。数字の気持ちなど考えた事も無かったが。今は商工会の面々が素数の確保に躍起になっている。
これらはホワイトウッドにおける日常の範疇だが。
(問題だったのは……)
フェルニールはスンスンと襟首の匂いを嗅ぐ。
「くあっ!!」
脳の奥が焼けるかと思うほどのアルコール臭が鼻を突き刺す。
フェルニールの全身は今、飲み慣れない異界の酒の匂いにべっとりと包まれていた。
「このようなみっともない姿のままで、鹿野様にお会いしなければならないとは!!」
涙を振り切るスピードで。
目前に迫ったアニマルビジョン本部へ向け、フェルニールは滑空した。
一番街中央に佇む高層ビル。アニマルビジョン本部。
対障壁魔術が幾重にかけられたコンクリート外壁の防衛力は、その辺の結界とは比にならない。ホワイトウッドの地脈と直に結合し、強大な魔力を供給している。
一階〜三階部分は一般開放しており、不透明な資金から捻出されたこのビルは“難攻不落の要塞”ともっぱらの噂だ。
最上階。
床以外の全面がガラス張りになったワンフロアをフェルニールは空中から眺める。
窓に反射した自分の姿を見て、また泣き出しそうになったが、急いで襟だけを正し一枚の認証識別障壁ガラスをすり抜ける。
脇目など振れるはずもない。下を向いたまま一つしかないデスクの前に降り立ち、そのまま頭を地面に当てこする勢いで高速土下座を開始した。
「鹿野様っ! 遅れてしまい申し訳ありません!!」
「おかえりなさい。えっ、遅れましたか? えっ?」
アニマルビジョンのトップ。本部長——鹿人の鹿野クリフォネアが慌てた。
極端な細目で誰に対しても柔らかな佇まい。淡いピンクのワンピース姿。削れた鹿の角が頭部からチラリと見えている。
「いいえ! 間に合っておりません!」
幼い頃から面倒を見て貰っている。だからフェルニールは顔を上げずとも鹿野の行動が分かった。
(鹿野様は机に置いてあった時計に目をやり、困ったように頬に手を当て眉尻を下げる。時刻は私が事前に連絡をした十六時ぴったり——しかし!!)
「間に合っていますよ。フェルニールさんはおっちょっこちょいですねぇ」
「いいえ! 確実に! 絶対的に! 遅れています! 鹿野様にお会いする前には必ず滝に打たれたのち、何度も何度もそれこそ毛穴を溶かすほど全身に浄化魔術をかけ、翼も繕って繕って繕って!! それでも……いくら時間をかけても足らないというのに……、今日の私は髪も整えず……翼もそのままで……」
ひらりとカーペットに抜け落ちた自分の羽。
フェルニールはそれを悔し涙とともに握り潰した。
「汚れているようには見えませんよ」
「どうか重罰を!!」
「——フェルニールさん」
視界に入った鹿野の靴先。そのまま顔面でも蹴り上げてくれれば、この憂鬱な気持ちも軽くなるのだが。
心根の優しい鹿野クリフォネアは、絶対にそんな事をしない。
「っ!!」
片方の手で髪を撫でられ、慌てて顔をあげた。そこにはずいっと迫った鹿野が微笑んでいた。
その懐の深さに、数える事も恐れ多いが三千四百二十二回目の心が奪われた。
「ししし、鹿野様!」
フェルニールは慌てて手を突き出し、飛び出そうになった心臓を抑え、やっぱり手を突き出すことにした。自分の心臓の爆発よりも、今は鹿野の接近を拒んだ。
世界中の誰よりも尊敬と信頼を寄せているが、今だけはダメだ。これ以上この方を失望させるわけにはいかない。
「今の私に近寄ってはなりませんっ!!」
それでも鹿野は胸元に近付き、スンスンと匂いを嗅いだ。
「いつになく面白いですねぇ、フェルニールさん。あれ? この匂いは……」
「う、う、うううぅぅぅぅ!!」
「お酒ですか?」
「うわああああああーーーん!!」
せき止めていた涙のダムが決壊した。
フェルニールは鹿野にしがみつき、目を見開いたまま大粒の涙を流す。
「いつになっても甘えん坊ですねー。空の制圧者と呼ばれるフェルニールさんのこの姿。部下の方達に見られたらとても驚かれますよ」
「わだじもそう思いますーー!!」
よしよしと、しばらく頭を撫でてもらう。甘いクッキーの匂いが隊服に移ったあと。促されるままにソファに移動した。
「翼を開いてください。手入れしてあげます」
「恐れ多いです。鹿野様の手をわずらわせる訳にはいきません」
「私がフェルニールさんを好きだから、したいだけ——」
バサッ!!
言い切る前にフェルニールは胸を張り、これでもかと翼を広げる。胸元のボタンが一つ弾け飛んだが、無音でキャッチした。
「私から事の
鹿野は一定の未来を知る固有魔術が扱える。未来の一部を覗けば、自ずと過去を推測出来るはず。わざわざ話す必要も無いのだが、
「フェルニールさんの口から聞かせてください」
こくりと頷き、上司の言葉に従った。
「鹿野様に誓って私は飲酒飛行は致しません」
「となれば、フェルニールさんに酒を浴びせるほどのトラブルがあったのですね」
ブラシで優しく手入れされるたびに、体中が歓喜で満たされていく。上ずった声で、
「に、二時間前です。五番街の一画が突然、夜になってしまいました」
「……夜、ですか」
現在時刻は十六時。まだ日も暮れていない。
だがフェルニールは身をもって夜を体感していた。一介の冒険者が扱うようなままごとの魔術ではない。錯覚しているという事実すら認識できないほどに、アレは本物の夜だった。
「そのような超越的魔術を街中で仕様するのは、ダンジョンの主人様ですね」
「その通りです。ふらりとダンジョンから姿を現した“
高難易度ダンジョン【宵闇の祭壇】
その主人がエンピ・エンビと呼ばれる黒髪の女性だ。姿形は人に見えるが、彼女はダンジョン世界の一部と言っても過言ではない。
このホワイトウッドに七百以上あるダンジョンのうち、主人が存在しているのは一割にも満たない。
「あのエンピ・エンビ様が定例行事以外で街に出てくるなんて」
「妹である“百毒のシャク・シャイム様”から湯酒樽をひったくったようで、千棟の建造物を酒浸しにして宴を始めました。私は巻き込まれた冒険者達の避難活動を手伝い、酒まみれに……」
「随分と賑やかだったのですね。私も仕事がなければ参加したかったです」
「今は駆け付けたギルド職員が対応し、泥酔した冒険者と殴り合————いえ、
様子を思い出して、フェルニールは深い息を吐いた。その息ですら酒臭い気がしてならないので、失礼にあたらないようにクンクンと匂いを確かめる。
「他にも小さな騒動が五つほどあったのですが、全ての原因に六芒星の
翼を整えていた鹿野の動きが止まる。
「まさかエンピ・エンビ様にも六芒星の魔術印が?」
「はい。両の瞳にその印を確認しました。ですが、そこは人知の外に住まう存在。酒を浴びるように飲み続け、自力で浄化したようです」
ダンジョンの主人はとにかく奇人・変人が多い。人の世を捨て去り、ダンジョン世界の一部と融合するのだから、普通を求める方がおかしいのか。
主人に敵う者などこの世に存在しない。如何なる武具を使おうとも触れる事すら叶わない。
曰く、視線のみで命を枯らす。
曰く、地平の彼方まで業火が走る。
曰く、本物の死神が裸足で逃げ出した。
これらはダンジョン内での話だが、その効力はゲートが街に存在する限りホワイトウッドの街中であってもほぼ変わらない。
超越者である彼女は、知っていて六芒星の術印を受け入れたのか。またはパーフェクトオーダーが宵闇の祭壇、そのダンジョンのクリア報酬として話を持ち掛けたのか。
何よりも大問題なのは——。
ダンジョンの主人にさえ、六芒星の術印は影響を及ぼしたという結果だ。
酒を飲んだだけで、未だ昏睡状態の被害者達が治るとはフェルニールは思えなかった。こんな無茶苦茶な治し方は、ダンジョンの主人しか出来ない芸当だろう。
「その為に騒ぎを起こしたのですね」
「はい。そしてエンピ・エンビ様より鹿野様へ伝言を授かっています。『残り一週間ほど湧き出る酒はくれてやるぇ。パーフェクトオーダーへの礼として』と」
フェルニールは不安に思った。
ダンジョンの主人達とパーフェクトオーダーが手を取ってしまえば、五大勢力の拘束力を超えてホワイトウッドがあっという間に滅びてしまうのではないかと。
「繋がっていませんよ。私と一緒です。主人様達はダンジョン存続にしか興味がありませんから」
見透したように鹿野は言う。
例え蟻が大嫌いだからといって大陸全土を掘り返して焦土化する者はいない。下位の存在は視界に入らないのだ。それと同じで超越者が一個人に執着する事はない。
願いがあるとすれば、ただ一つ。冒険者達にダンジョンをアピールして活性化を促すだけ。
「私のパーティーを応援に向かわせますか?」
「今はギルドの顔を立てておきましょう。街の治安維持はギルドの管轄ですからね。しかるべき要請が来たらお願いします」
「さすが鹿野様。ご聡明な判断です」
手入れを終えた鹿野が対面に座った。
目の前には用意されていたティーカップが置いてある。鹿野はポットから紅茶を注ぎ、ランチボックスから取り出した紙包みを広げた。
「クッキー食べます? 資料に目を通しながらさっき作りました」
「いただきます」
好物のナッツが入ったクッキーに手を伸ばす。昔から食べ慣れた優しい味が口の中に広がる。
「ペレッタさんはどうでしたか?」
要所を掻い摘んでフェルニールは説明した。
言いつけ通りに戸惑いの洞窟、
遅れて部下達がガロンという兵士も連れて来た。
「ペレッタ皇女殿下と側近のガロンは、責任を持って治療しています。鹿野様が検討頂いた上位パーティーの加入手続きも滞りなく完了しました」
ギルドランクの十位内に入るだけあって厳しい監視下に置かれるパーティーだが、才ある者に対しては面倒見も良く、一定数の異界にも顔が効く。
モルメス国が刺客を送ろうとも、容易く返り討ちにしてしまうだろう。
「亡くなった無関係の冒険者や、モルメス国の兵士達の処理はどうしますか」
「肉体の方は?」
「三分の一以上の原型を留めているとの報告が」
「良かったです。死亡者は善悪問わず、可能な範囲で蘇生させてください。費用は私の個人資産から捻出します。大切な冒険者様ですから」
フェルニールの胸元に付けられた五つの勲章。その一つに指を置き、部下に要望を伝令した。
蘇生させてパーフェクトオーダーの情報を引き抜く目的もあるのだろうが、これには莫大な費用と種族によって多少の月日がかかる。蘇生後もしばらくは記憶が曖昧になるだろう。
「兵士達は記憶を精査し、改ざんした後にモルメス国に輸送します。ですが……ただ一人だけが見つかりませんでした」
「依頼主のソフロムさんですね」
「はい。遺体のカケラさえまだ見つかっておりません」
鹿野が頬に手を当てて眉尻を下げた。何もない胸の前に手を置き、ページをめくる仕草を見せた。
「外殻——ですね」
ダンジョンの外側。となれば自分のパーティーでは捜索出来ない。
「そちらの処理は私の方で手配しておきます。あと、ペレッタさん達は妙な事を仰っていませんでしたか?」
「私が最後に確認したのは意識を取り戻した直後だったので。ガロンとはすれ違いですが、部下からは連絡が入っていません。特に目新しい情報などはないように——」
「パーフェクトオーダーの件に関して、です」
心臓が一度だけ。強く胸を叩いたのをフェルニールは感じた。
「この件にも手を伸ばしていたのですか」
「えぇ」
「鹿野様はそれを知っていて、ミストナ様に依頼したのですか」
「えぇ。ミストナさん達は?」
「……」
紅茶に口を付けた唇がじわじわと熱を帯びる。紅茶の温かさではない。『ミストナ』という四文字に、フェルニールの唇は少しの嫉妬を覚えた。
(鹿野様はいつもミストナ様を気にかけている)
邪推な感情を、首を振って一蹴。
「ミストナ様は先の二人と同じく、今はギルド支部で休んでいます。超獣戯化は数十分と仰っていましたので、明日には自宅療養に移行されるはず。念の為、
「無事なら安心ですね」
純粋に、とある疑問が生まれた。
口に出しては失礼だろうか。いや、逆だ。この方の前で隠し事など無意味。
そう思い、フェルニールは一度口の中に留めた言葉を吐き出した。
「鹿野様はなぜ他の班に任せなかったのですか。例に出すなら蝶人のプシュケ班。長期ダンジョンから帰ってきた彼女は今、五番街を偵察しているはずです。戦力も申し分無く、アニマルビジョンの評価も高い。容易くペレッタ救出作戦を成し遂げたはずです」
「彼女達に依頼した場合、未来詩による結果はどの道筋を辿っても十割。その殆どがダンジョンに入る前に救出しています。とても優秀な方々ですね」
「ではどうして三割しかないミストナ班に依頼を」
「花は堕ちてこそ、咲き乱れる」
空になったティーカップに紅茶を注ぎながら、鹿野は言う。
「花は綺麗です。ですが木にとっては受粉させる為のアピールでしかありません。肝心なのは種」
「つまり何かの布石だと」
「えぇ。種が蒔かれ芽吹いた時こそが、木は真に咲く——そう知り合いのドリアードさんが言っていました。まだずっと先の未来を見た結果では……プシュケ班では私が求める結末に結びつかなかったのです」
「その先の出来事とは……パーフェクトオーダーの拘束、ですか」
鹿野は答えなかった。頬に手を添えて、困った顔で外を見つめる。幼少の頃から知っている、言いたくても言えない仕草。
星の数よりも多い未来の中で、鹿野は綱渡りをするようにこの街をまとめてきた。ここで詳細を話すと、予期せぬ未来に繋がってしまう恐れがあるのだろう。
フェルニールはパーフェクトオーダーに関して、事後資料しか知らない。むしろ直接的な関与から遠ざけられている気さえする。
本来の役割はダンジョン内の幻獣の生態調査であり、高純度の魔石を持ち帰って資金を調達する部隊。だから賞金首に突っ込むこと自体が間違っているのだが。
(……鹿野様の力になりたい)
そう考えるだけで居てもたってもいられず、今にも飛び立ってしまいそうになる。
高額賞金首の一人なるパーフェクトオーダー。報酬額は金貨四千枚。だが、その価値が本当にあるのか、疑問に感じていた。
数百人を皆殺しにした大量殺人犯でも、せいぜい金貨数百枚程度。
やはり、不可解な魔術がネックなのだろうか。
ここまで考えて。もう一度鹿野を見た。
変わらない。何かを憂いているような、とても悲しげな顔だ。
「深入りし過ぎました。申し訳ありません」
「フェルニールさんが謝る事ではないですよ。悪いのは私の固有魔術があやふやだから」
「それはありえません。これまでダンジョンを——いえ、ホワイトウッドの秩序を守る為に鹿野様は尽力してきたではありませんか」
「そう言ってくれると助かります」
この大陸にはホワイトウッド以外の国が沢山ある。そして人が暮らしている。その数だけ常識と正義があるのだろう。
一つ言える事は、鹿野クリフォネアという人物は決して間違った道は選ばない。
「フェルニールさん、自由に動かせるアニマルビジョンの資金を知っていますか?」
ここ数週間は主に五番街の修繕費がかさばっている。特に新たなゲート関連の立ち退きや所有権の譲渡に至っては相場の倍額で対応している。
これは鹿野の温情あってのものだ。
「すぐに動かせる金貨は……ざっと一万枚程度かと」
「そうですか。フェルニールさんはしばらく五番街から離れないで下さい」
「直ちに私の隊で動かせる十名を選抜し五番街にて待機します」
「ありがとうございます。すぐにお仕事をお願いすると思います」
言いつつ、鹿野が二番街の方角を見つめた。
晴天だった空に低い雲が一つ浮かんでいた。その雲がかすんでいき、重なった光輪が出現した。
ゆらゆらと動き、この街を観察しているようにも、風に遊ばれているようにも見える。
あの光輪から新たなゲートが誕生する。
「今日で二週間も迷っています。早く定着してくれるといいのですが」
「鹿野様が守り続けた希望溢れるホワイトウッド。異界にとってもダンジョンにとっても、拒む理由がありません」
七百以上のゲートを保有し、消失しないように最善の策を巡らせてきたホワイトウッド。
フェルニールは胸を張って言うが、
「……希望とはなんでしょうね」
想定外の言葉が返ってきた。壮大で哲学を含む質問だが、真剣に考える。
『夢』とは似ているようで違う。狭い価値観でしかないが率直にそう感じた。
目の前にぶら下がっていたら
「切羽詰まった思い、でしょうか」
くすりと微笑む鹿野が、ランチボックスから一冊の古い本を取り出した。有名な絵本として何度も増版されている【冒険者の流儀】その原本。
「フェルニールさんも読んだ事がありますよね」
「はい。鹿野様に読み聞かせてもらいましたから」
「莫大な力を身に宿した勇者が願い、仲間達と共に世界崩壊を防いだ。心温まるお話」
イデアの遺産——俗に言う七大善を手に入れた勇者が、世界の窮地を救うという御伽話だ。
「そのあとの話を知っていますか?」
フェルニールは顎に手を当てて考えたが、霞がかかったようにぼんやりと浮かんでは消えていく。
「すみません。忘れてしまったようで」
「この後の話はあまり有名ではありませんから。生物は死ぬと大地に帰ります。魔力も昇華し、やがて地脈に帰るでしょう。では、勇者が背負った強い願いはどこへ帰るのでしょうか」
「“無い”ものは帰る場所すら無い……と思いますが」
「そうです。だから勇者は膨大な願いの数々を捨てるしか出来なかったのです。次の世代に託すしかなかったのです。それぞれに適したダンジョンの奥深くに」
鹿野が頬に手を当てた。視線を少し落として、何かを読み解いていく。
「この街の人々にとってのキボウとは、少々刺激が強いのかもしれませんね。……少し出かけようと思います」
フェルニールは頭の中でスケジュール帳をめくった。
この後の鹿野様の予定は一週間後に行われる五番街の鼓舞祭り。その警備体制の最終確認。深夜まで各役人達と会合を行い、接待をしたりされたり……だったはず。
「早急に出立の手配を」
「その必要はありません」
麦わら帽子を被った鹿野が階下をちらりと覗いた。整備された道路を挟んだ対面の建物。
高さこそ無いが、アニマルビジョンの数十倍の規模を保有するギルド連盟。このホワイトウッドを牛耳る、その巣窟を。
「隣の建物に乗り込むだけですから」
察したフェルニールが立ち上がる。鹿野が目指す未来に何らかの影響が及んだのだ。
「今すぐにギルド本部へ行ってパーフェクトオーダーの賞金設定を四千枚から変動させます。フェルニールさんは商工会の経理の方にアポをとってきてもらえますか。その後に五番街へ」
フェルニールの眼光が威圧を帯びる。大きな鷹の翼を広げ、深い一礼を鹿野に向けた。
「仰せのままに。鹿野様」
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