お腹が減りました2

 ツバキの鼻先に不快な匂いが纏わりつく。それは焦げ付いた右頬のみが原因ではなかった。

 後ろ。光沢を帯びた金髪の一部も、薄煙を上げて蒸発している。


「ツバキさん! 血がっ!」


 ぽとりぽとりと滴る血を見て、ラビィが取り乱した。


「今すぐに回復致しますです!」

「いえ、心配には及びません。昔から短髪しょーとへあーというものに憧れていましたから」

「髪じゃなくて、ほっぺの傷ですよ!」


 言われ、こそげ落ちた頬を触る。触れた感覚は無く、ぬるりとした感触だけが指先に伝わった。

 豪奢な着物ごと体面に纏わせた魔力。チェスターと対峙した時から、そこに手は抜いていない。


 あの——紫電の魔術が強力過ぎた。

 分厚いコンリートや街の防壁魔術ですら、容易く貫通してしまう威力。

 間違いなく。街のダンジョンクリア恩恵と比較しても、上から数えた方が早い代物だ。


(——もっとも。この方達程度の実力で、わたくしの髪型が今後変わってしまうなど、あまりにもな話ですが)


 一方で、ツバキは残念そうに肩を竦める。

 魔術では無く、磨き上げた異界の刀身。その戦闘方法や熟練した技を体感したい……。と、密かに期待していた部分があった。


(そして——)


 消え行くチェスターの魔術陣に顔を向ける。またもホワイトウッドの文字が伺えた。

 もはやだ。

 監視系統の魔術。身体強化の魔術。紫電の魔術。

 チェスターはホワイトウッドのダンジョンをクリアせずに、


「もう片方の頰にもヒゲを書いてやろうなぁ〜。初めてだからよぉ、コントロールが難しくてなぁ、頭が吹き飛ぶのが先かもなぁ〜〜」

「貴方はその魔術をどうやって体得したのですか」

「この力があれば俺はモルメス国の……いや、全ての世界の王にもなれる!! そぉだろう〜? クァーーーハッハッハ!!」


 言って、チェスターの左頬の肉が弾け飛ぶ。

 誤った身体強化の副作用か。それでも気にする様子はない。見開いた目で狂ったように奇声をあげる。


「聞きなさい。その魔術は一体どうやって得たものなのですか」

「なんだっけなぁ〜。そうだ、そうだよ! あれは神だ! 神様がプレゼントしてくれたんだよぉ!」

「……神、ですか」


 その言葉にツバキの思い当たる節は多い。

 モルメス国にも独自に信仰している宗教はあるだろうし、ホワイトウッドなら神族と呼ばれる神の血を受け継ぐ種族が存在している。

 絞り切るには範囲が広い。

 ツバキが更に問い詰めようとした矢先。再び、チェスターの掌に魔術陣が出現した。


「犯すか殺すかしたらぁ、その鉄仮面みたいなツラが変わってくれるかなぁ、さんよぉ〜」

「デ、デカ!?」


 ふらり。貧血でも起こしたかのようにツバキは頭を抑える。

 二、三歩下がった所で、慌てるラビィに腰を支えられた。


「も、申し訳ありません。えと、今なんと仰いましたか?」

「殺して犯して殺しまくるつったんだよぉ、この!!」

「……」


 ————バキッ!

 確実に。ツバキの腹の辺りで、何かの骨を踏み砕くような音がした。

 

「死ねぇええええーーーっ!!」


 チェスターの魔術陣が高速で回転。

 生成された大量の紫電が空気中のちりをバヂヂヂヂヂ! と、蒸発させる。その凄まじい光量は、大空洞の中を昼間と見間違えるほどに眩く照らした。


横走るレイ——」

「ツバキさんっ!!」


 ラビィの悲鳴と同時。金色の尻尾がふわりと地面から離れた。

 束の間。

 ツバキは瞬きの速さで、チェスターの懐に片足を踏み込んだ。

 一枚の札を指で挟み、もう一枚を直線上で固定。すぐに結界で結ぶ。

 出来上がったのは、モルメス国にも劣らない薄さの“青白い結界の剣”。


「二枚札——清浄せいじょうつるぎ


 まるで扇を開くように、低い体勢から半円の軌道でツバキは袖を揺らした。そして。

 宙をくるくると踊ったのは、放出寸前のチェスターのだった。


「お……おあああああぁぁぁぁぁぁ!?!? 俺の腕がああああーーっ!?!?!?」


 失った右腕を庇いながら、チェスターが膝をついた。


「無粋な貴方達に、を教えて差し上げましょう——」


 ピクリと狐耳を動かすツバキ。

 音を拾ったのでは無い。僅かな空気の流動を捉え、何らかの魔術を使い接近してきた兵士のを感じ取ったのだ。

 振り向き、右から迫る縦一閃を半身で躱す。反撃の余地は与えない。流麗な動作から、真っ直ぐに——ズブリと。

 兜と胸当ての僅かな隙間に、清浄の剣をねじ込んだ。


「一つ目は、は似て非なる戦闘職。このように攻撃にも転換する事が出来る、上位戦闘職だという事です」


 首元を必死に抑える兵士が倒れた。

 ゴボゴボッゴボボ! と。泡が弾けるような悲鳴を耳に残しながら、ツバキは舞うように振り返る。

 そこには、新たな兵士による袈裟斬りが寸前まで迫っていた。


「 きええええええええいいいいいーーっ!!」

「四枚札——古城長夜こじょうちょうや


 しゃがみ込み、角度を少しだけ変えた平面結界で剣の軌道を逸らす。

“受けきれないのであれば、力の理に逆らわず”。これが正面から防御するだけに留まらない、結界術の多様性だ。

 ツバキは素早く結界を消滅させ、兵士の両腕を籠手こてごと斬り飛ばした。


「二つ目は、わたくしの立ち位置は後衛ではなく、前衛&後衛おーるらうんだーですよ」


 と、頭上を見つめる。

 魔術を使い、宙で魔力を練り上げていた兵士。大木のように膨れ上がった両腕をこちらに向け、高魔力の塊を放出せんとしていた。

 それを取り巻く魔術陣に、ツバキは目を細める。

 ホワイトウッドの文字で描かれた術式。当然、理解出来る。『自動追尾。着弾時に魔力の爆散』

 ならば——。


「八枚札——猿檻鳥籠かんえんろうちょう


 魔術が発射されるタイミングを見定め、正方形の結界で兵士を閉じ込めた。


「ひゃっああああ!?!?」


 狭い結界の中。兵士が放った魔術は結界の内面に直撃し、爆発。

 悲痛な顔を浮かべた兵士が、砕け散る結界もろとも自身の魔術に巻き込まれた。


「火炎系統の魔術の方が良かったのでは? その方が酸欠により苦しまずに済みました」


 ボロ雑巾のようにすす汚れた兵士が、ぐしゃりと地面に落ちる。

 全身甲冑フルプレートからは、おびただしい量の血が広がっていく。


何故なにゆえミストナがわたくしに攻守を任せているかがお分かりになりますか? ——この班の中で、からですよ」


 まともに動ける最後の兵士が『化け物!』と叫びながら後退するが、すぐに足が止まる。

 何かに当たったのだ。岩壁までは距離がある。こんな所に物など無かったはずだ、と。

 兵士は驚愕の表情を浮かべて、ゆっくりと振り返った。


「ふふっ」


 一連の行動を見て、ツバキは口元に袖を当てた。

 もう兵士は退がる事は出来ない。激しい攻防の最中。ツバキは相手の退路を断つように、既に平面結界を張っていたからだ。


「三つ目が、一番大切な事です」


 恐怖の雄叫びをあげる兵士が、体の前に魔術陣を展開させる。

 そこから現れたのは体をすっぽりと隠せるほどの、円形の分厚い盾。使用者の魔力や装備品を媒体とする、防御魔術の一種だ。


わたくしでは無く——、でございます」


 ツバキは構わない。

 ホワイトウッドの魔術陣を鋭く睨みながら、横薙ぎを払う。何もかもを斬り裂くような、戦慄めいた太刀筋。

 召喚された極厚の盾が半分に滑り落ちる。姿を覗かせた兵士。その強固な胸元プレートも、真一文字に引き裂かれていた。


「化けの皮を被るのは、わたくしの役目でしょうに」


 赤。

 真紅の花が地面に四つ咲いている。鋼色を中心とした人間大の花。

 あっという間だった。鮮やかな袖の舞が止まった時、チェスター以外の兵士達は全員地に伏していた。

 全て。ツバキが通った獣道の跡。


「狐という獣を存じていますか? わたくしに流れるその血は狡猾で、貪欲で、とてもなのですよ」


 身体強化で筋肉が活性化しているおかげだろうか。全員即死には至っていない。

 かろうじて虫の息となった兵士達の呻きが聞こえる。


「貴方達が剣に誇りを持って戦ったのならば、ここまで追い込む事はしませんでしたが」


 唇にいつのまにか付着していた血飛沫。

 ツバキは舌で舐め取り、こくんと喉を潤した。


「腹の足しにもならないと、わたくしのペコも言っておりますね」

「モルメスの鎧を、こっ、こんな簡単にぶった斬るなんて……あり得ねぇ……認められねぇ!!」

「では、自身の身体でこの“清浄の剣”の斬れ味を試してみてはいかがでしょうか」

「あ……あぁ……待ってくれ、降伏だっ!」


 失った部分を庇いながら、チェスターは保身に走った。


「頼む! 殺さないでくれぇ! 国に帰ったら家族がいるんだ!」


 先までの威勢は何処へ行ったのか。

 恥も捨て、泣き叫び、懇願する。


「私達にも大切な仲間家族が居ます。ペレッタにもまだ叔父親族がいると聞いています。それを承知で尚、貴方は私達を殺す気だったのでは?」

「あ、あぁ……ああああああああああああああ!!!」

「剣の重みを知りなさい」


 最後の五人目——チェスター。

 命乞いを続ける彼の胸元を、ツバキは十字に斬り裂いた。


「最小限の動きで、機動力を最大限に奪う。これが前衛職の基本となります」


 後方のラビィに、言い聞かすようにツバキは言う。

 だが、戦い方を教える身としては少々の物足りなさを感じた。

 この兵士達に回復手段があったのならば。または、もう少し慎重に戦ってくれたのならば。より詳しく戦闘作法を習わす事が出来たのに……。


 地に伏した満身創痍の兵士達に、ツバキは顔を向ける。これ以上の特別指導は諦める他無かった。


「はて」


 地に倒れたチェスターの肉体。

 それが影のようにどろりと溶ける。黒い液体が土に染み込み、存在自体が綺麗に消滅した。

 ツバキは知っていた。これもホワイトウッドのダンジョンクリア恩恵の一つ。

 自身の分身を作り出す高難易度の魔術だ。


「チェスターの実体は何処に」

「ツ、ツバキさ——っ」


 苦しそうなラビィの声に、後方を向く。

 気付かなかった。

 壁際。そこにラビィの首元に刃を向けたチェスターが回り込んでいた。


「……戦いに卑怯という言葉を使うつもりはありません」

「——っぷあーっ! はぁ、はぁ、あぁぁぁ!!」


 海面から飛び出したように、チェスターが息を荒げた。

 おそらく大量の魔力を消費したのだろう。焦燥しきった顔。多くの油汗が首筋を滑り落ちている。


「隠密魔術と分身魔術の複合。少々貴方を侮っていたようで」

「このガキが殺されたくなかったら大人しくしてろ!」


 今にも泣き出しそうなラビィの表情。だが、は違う。決意が見えた。

 チェスターのさじ加減で消える灯火に関わらず、心だけは屈していない。


「わ、わたしは大丈夫ですからっ! わたしごとこの人を倒して、ペレッタさんを助けてあげて下さいですーーっ!!」

「素晴らしい自己犠牲かと。貴方もラビィに習って考えを改めては?」

「うるせぇぇええええ!! 次に喋ったらぶっ殺すからなぁ!!」

「あぅ!」


 ぐいと。チェスターが首元の剣を光らせた。


「無駄な足掻きはやめて、ラビィを今すぐ開放しなさい」

「近付くな!! お前は結界術師じゃなかったかも知れねーが、獣人が一つの魔術しか使えない事に変わりはない!! こいつの固有魔術は回復だ。戦闘要員じゃねぇ!!」


 その言葉にツバキは首を捻った。


「何がおかしいんだよ!」

「勘違いも甚だしい。ラビィはではありません」


 チェスターが気付く。

 腕の中のラビィ。そのだらりと垂れたロップイヤーがめくれ上がり——が露わになった。その胸の前にはガマ口ポーチから取り出した小さな魔石が、一つ浮かんでいる。


「その耳は!? このガキ……っ! まさかエルフとのハーフか!?」

「精霊さんお願いを聞いて下さいです! この剣を——ううん、全ての鋼を凍らせて下さいですっ!!」


 粒子の煌めきから出現した七色の光が、ラビィのロップイヤーにそっと口付けした。

 そして、解き放たれる。

 上下左右から全身甲冑フルプレートに襲い掛かる、極寒の霜。


「おおおおぉぉぉ!? 獣人のくせに精霊術だと!?」

「ラビィは混血ですからね。固有魔術以外も扱えるのですよ。ミストナ曰く“はいぶりっど”、だそうで」


 チェスターは腕を動かして霜を振り払う。だが、次々に形成される氷結に追いつけない。魔力も底を見せている。

 辛うじて上半身の凍結は免れたが、地面と足が彫刻のように氷漬けになった。


 ツバキは本拠地にて、その魔術を何度か見た事があった。食料などを冷凍保存する時に使っていたものだ。威力は段違いだが。きっとホワイトウッドから付いてきた優しき精霊達が、手助けしたのだろう。

 隙を見て駆け出すラビィが、転がるようにツバキに抱き着いた。


「ラビィ、よく出来ましたね」

「あうぅぅぅぅ、うぅぅぅ」


 よほど怖かったのだろう。腕は震え、足腰はガクガクと折れそうになっている。

 小さな勇者をツバキは包み込み、ロップイヤーを優しく撫でた。


(いざとなれば起動されるはずだったは、必要ありませんでしたか)


 最初に会話を交わしている最中だ。

 ツバキはチェスターの背中に数十枚の札を貼っていた。強力な爆破の術式が込められた札。

 何かあった時のための最終手段として、用意してあったものだ。

 すっと。ラビィに気付かれないようにツバキは札を消滅させた。


「侮っていたのはでは無かった、と」

「何の話です?」

「いえいえ。私が油断したせいで怖がらせてしまいましたね。申し訳ありません」

「あの、平気ですっ。知らない人に触られて緊張してまっただけで、はぅぅぅぅ」

「まさか……。あの話は本当だったのですか? ベリルが言っていました。ラビィは誰にでも欲情する“えろてろりすと”だと」

「ちっ! 違いますですよ!」


 白い耳まで真っ赤にしながら、ラビィはフルフルと首を振った。

 その姿まで初々しく、愛らしい。

 プロペラのようにぶんぶんと回転する兎耳が、そう、まるで焼きたての香ばしいあれに見えて——。


「ふぇ? ツバキさん、涎が垂れてますですよ!」

「おや、失礼致しました。ラビィの耳がに見えてしまったもので」

「あぅぅ……。食べないで下さいですぅ」


「くっそぉぉ!! どこまでもどこまでもふざけやがって!!」


 身動きの取れないチェスターが悪態をついた。


「俺の異界にもエルフくらいは居る! だがエルフは他の種族との交わりを禁じているはずだ! それはホワイトウッドでも同じだろう!」

「えぇ。そうですね」


 同意するツバキ。

 どれだけ多種族とパーティーを組もうとも、エルフが他の種族と結び付く事は決して無かった。それは街の住人ならば、周知の事実だ。

 『エルフは

 ただでさえ成長が遅く、子宝に恵まれない種族。どれだけ故郷を離れようとも、厳しい“鉄の掟”を守り抜いていた。


 ツバキ自身も、とあるエルフから直接聞いた事があった。「エルフが多種族に恋愛感情を抱くっていうのは、人間が動物と結婚するようなもの。親友にはなれるが、そこまでだ」と。

 子孫繁栄の為の本能も、強く働いているのだろう。

 しかし。彼女は違う。

 どういった経緯でラビィが誕生したのか。ツバキの知る所ではないが、現に掟破りのエルフと獣人のハーフ——ラビィは、目の前に存在している。


忌子いみこの分際がぁ!! 俺に、俺にぃぃいいい!」

「あ、あぅ……ごめんなさい……です」


 ロップイヤーを引っ張り、エルフの耳をひた隠すラビィ。

 だが、どれだけの掟を破ろうと、産まれた命に罪は無い。少なくともツバキはそう信じていた。

 健気で優しく小さい。他者への悪口など聞いたこともない。

 それだけが、ツバキがこの一ヶ月で知ったラビィの全てであり、仲間として迎え入れるには十分過ぎるほどの内容だった。


「気にする必要はありません。ここは魑魅魍魎ちみもうりょうの巣食う街、ホワイトウッドです。森の民の混血が一人誕生したくらいで、なんだというのですか。視野の狭い異界の戯言など、気にかけるだけ熱量かろりーの無駄です」


 きっぱりと言い切ってラビィの手を引く。方向は最深部から脱出する扉だ。

 もはや兵士達は誰一人立ち上がれない。チェスターも動けない。

 与えられた足止めは果たした。次の使命はミストナ達に追い付き、合流することだ。


わたくし問題児ベリルが気になります。本当にガロンと戦っているのでしょうか」

「ペレッタさんとガロンさん。仲直り出来ると良いのですが」


「…………へっ。ガロンだったらとっくに死んでるだろうよぉ」


 捨て台詞を吐くように、うな垂れるチェスターが割って入った。


「それはどういう意味ですか?」

「ペレッタの世話係をやっていた奴を信用出来るわけねーだろ……。ガロンもここで殺す予定だった。その為に、奴には神様と会わせてねぇ」


 チェスターの言葉がまやかしでなければ、ガロンはホワイトウッドの魔術が使えない。そういう事になる。


「で、その神様とは一体なのですか」

「……」


 押し黙るチェスターに、ツバキは溜め息を小さく吐いた。


「まぁ、その件に関してはいいでしょう。同族を騙し討ちする方の言葉は信用出来ませんから」

「殺してやる……許さねぇ……」

「もう少しでダンジョンの幻獣ぼすが復活します。貴方の魔力の回復が先か、それとも全滅するのが先か。数分の間、反省をしなさい」

「この雌ブタどもがぁ!!」

「狐でございますが」

「兎ですです」

「ぐぅあああああ!!! くそったれがぁぁぁあい!! 俺はこんなもんじゃねぇ……もっと魔術が出せるはずだああああああああああああ!!」


 諦めが悪い。この後に及んで奇声を発した所で、力の差は埋めようがない。

 現にチェスターは一歩も動けていないのだから。


「静かにしてくれませんか。それとも自殺願望でも? わたくしは食べる事以外に命を奪いたくは」

「ぬぅうううううう————!!!」


 途端、チェスターの片目がぐるりと白目を向いた。

 真っ白なそこに。

 が浮かび上がる。


「——っ!!」


 膨れ上がるチェスターの魔力。空気を濁らす狂気の波長。

 そして出現した何十に及ぶ魔術陣。そのホワイトウッドの術式はめちゃくちゃな羅列で到底読み取れない。

 常識では考えられない、不安定な様を見せていた。


「お前らの、胴体を、引き割いて、引き抜いて、引き千切ってぇぇえええええええええええええええええーーーっ!!」


 飲み込まれていく。溺れ落ちていく。そんな表現が適切だった。自身で生成した魔力の渦に、チェスターは包まれもがき苦しんだ。

 いくつもの魔術陣の点滅発光。その支離滅裂な不具合に、ツバキの尻尾の毛が一瞬で逆立つ。

 全細胞が身体中を駆け巡るような危機感が、想像以上の高魔術を連想させる。

 ラビィも同じだ。常時垂れているロップイヤーが天を向き、警戒を示していた。


 ——揺れる袖。


 その瞬間にはもうチェスターの喉元に、一枚の札が突き刺さっていた。が、浅い。

 追加と言わんばかりに数十枚札を投げ付け、同じ箇所にねじ込んだ。


「おっ! が、おっ、おっ…………おごっ………」


 呻き声と共に。まるで命を吸い取っているかのような、真紅に染まっていく札。

 短い寿命を明確に知らせる、砂時計にも似た死刑通告。

 弱くなる呼吸音と共に、縮小していく不発に終わった魔術陣。その最期の一つが消えると同じく、チェスターは直立したまま絶命した。


「……今のを見ましたか。ラビィ」

「は、はいです。あの目に映った六芒星は、手配書リストに書いてあった、完璧な幸福の届け人パーフェクトオーダーが残した魔術印です……」


 不穏な空気を隠しきれない、ラビィの言い方だった。


 解析不可能の魔術をかけて、対象者を暴徒化させるA級賞金首——“完璧な幸福の届け人パーフェクトオーダー”。その片鱗とチェスターが関わっていた。

 薄くまぶたを開いたツバキは、遠い眼差しで思案する。

 この街に新規参入したモルメス国の住民。チェスターに関わる一派が、六芒星の正体なのか——。いや、それは不可能なはずだ。

 奴が街で騒ぎを起こし始めたのは半年前。時系列が全く噛み合わない。

 やはりホワイトウッドに潜む誰かが、モルメス国に手を出しているのは間違い。


 依然として完璧な幸福の届け人パーフェクトオーダーの正体は、雲のように遠く掴めない。

 しかし。今までに居た立ち位置とは少し違う。

 雲に届きうる山頂のふもとへ、ツバキは足を踏み入れたと実感した。


 その根拠とは——“”だ。


 完璧な幸福の届け人パーフェクトオーダーは、相手の実力など関係なく、それこそ難易度すら無視して

 そうでなければ、この事態の説明がつかない。


 街にある無数のダンジョン。曖昧な経歴の冒険者達。誰がどこでいつ魔術を獲得したのかなど、調べようが無かった。それ故に今まで明らかにならなかったのだろう。


 付与した結果が、あのチェスターだ。

 実力の見合わない者は、過剰な力に飲み込まれてしまう。故にダンジョンは試練を与え、乗り越える強さを持った者にのみ、魔術の恩恵を授けている。

 なのに……。


 結び付いた真実に、ツバキはごくりと口の中の不安を飲み込む。

 異常だ。異常過ぎる。この雑多なホワイトウッドの中でも、前代未聞の話だろう。

 そんな事がまかり通ってしまうなら、ダンジョンの存在意義がまるで無くなってしまう。弱い者、強い者が存在しているから、街の均衡も保たれている。

 仮にどんな者でも魔術が扱えるようになったとすれば。泣く事しか出来ない赤子でも、人を殺せる怪物に変貌してしまうだろう。


「他の兵士達がより高難易度の魔術を扱えるとしたら。獣人私達では対処しきれない、凶悪な魔術を————」

 

 ツバキとラビィは顔を見合わせて思う。

 ——


「行きましょう。嫌な予感がしてなりません」

「はいです!」

「その前に」

「です?」

「……グウウゥゥゥ」


 空気を読まないツバキの腹の虫が騒いだ。


「この方達の懐を探ってみても? 熱量かろりーを消費し過ぎてしまいました」

「泥棒はだめですよ、ツバキさん。帰るまで我慢して下さいです……って、あれ? えと、髪とほっぺの傷が治ってますです? ツバキさんも回復ヒールが使えました?」

「それは——乙女の秘密、ですっ」


 唇に人差し指を当てて、ツバキはラビィの真似をした。

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