ミストナとモルメス国の視察団4
ペレッタが提灯鼠の横っ腹に、無我夢中で鉄パイプを振り抜いた。
ミストナは注意深くその様子を見つめるが、腰も入っておらず、体重を乗せた動きでもない。何の工夫も無いただの横薙ぎだ。
可憐な手には、ほんのりと魔力が灯っているようにも見える。料理に例えようものなら、なにがなんだかわからない隠し調味料程度。
本当に魔力を放出しているのかすら怪しい。
それでも——上出来だ、とミストナは力強く頷いた。
得体の知れない者に立ち向かう勇気こそ、このダンジョンにとって一番必要な素質なのだから。
叩きつけられた提灯鼠は、先のミストナと同じような軌道を描き——比べてかなりゆっくりな動きだが——通路の奥へと飛んでいく。
「ミストナさん! 私やりました! 出来ましたっ!」
大はしゃぎするペレッタがミストナに抱きついた。ポンポンと背中を叩き、勇姿を褒め讃える。
その叩くリズムがピタリと。脊髄反射のような素早さで止まった。
(は?)
ペレッタのドレスは谷間をいやらしく主張しない、清楚なドレスだ。だから気付かなかった。不覚中の不覚だ。
こうやってくっついて、肌で感じたら分かる。
上からちらりと胸元の隙間を覗いたら……嫌でも分かってしまうのだ。
胸にコルセットか何かをぎゅうぎゅうに巻いて、その大きな膨らみをずっと隠していた事に。
「やるじゃない。初めてにしては上出来よ。おっぱい詐欺師」
「ありがとうござ——え? お、おっぱいうさぎ? 何のことですか?」
「ううん。気にしないでっ」
溢れた本音を『えへへっ』と笑って誤魔化した。
なぜこうも大きな胸に敵対心を抱くようになってしまったのか。きっとあれだ。ベリルが全裸で寝ているせいだ。獣人の成長速度には大きな種族差があれど、第三次成長期が存在する。その最期の望みがまだ残っている。その時には私も——。
「そうそう。膨れネズミってね、体重が変わる訳じゃないから中身はめちゃくちゃ軽いのよね。ほら、アレを見て」
遠く前方でぼわっと弾ける光が生まれた。ペレッタの初、
「うん。ちゃんと倒せたみたいね」
「本当ですか!?」
「魔石を落としたはずよ。回収しに行きましょ。早く行かないと、ベリルに横取りされちゃうわ」
急ぎ早に奥へと向かう。
提灯鼠が消失を始める地点の付近には、ツバキとラビィが佇んでいた。両者とも怪訝そうに鼻を摘み、なにやらベリルから距離を取っていた。
「ベリルはいつからお風呂に入っていないのですか? また体臭がきつくなりましたが」
「ツバキさん、違うです。ベリルさんは飛んで来た膨れ鼠にぶつかったのです」
「……」
ベリルは二人に言われっぱなしのまま、黙って下を向いている。異臭のする白い液体を全身からポタポタと落としながら。
悲劇は繰り返す。ミストナはペレッタのドレスの裾をクイクイと引っ張った。そして、ゆっくりと背中を向けるように指示した。
「またあれを浴びたのですか。いつからそのような特殊な性癖に目覚めたので? 不愉快ですよ」
「臭くても近付けなくても、ベリルさんの事を嫌いになったりしませんです! 大好きです! 約束しますです!」
「えぇ。確かに
「……お前らなぁ」
「口答えは許可していません。油断していて避けられなかったベリルが悪いのです。そして臭いのです」
洞窟内に仲間のダミ声が
この様子を感じ取ったダンジョンはどう思っているのだろうか。忍び足で逆走を始めるミストナは、怒られる気がしてならなかった。
「——あっ! おい、お前ら!」
「げっ!」
立ち去ろうとするミストナ達に、ベリルが気付いた。
「さっきからわざとやってんのか!? あぁコラ!」
「く、臭い……。手が滑ったのよ、悪かったって」
平然と鼻を摘み嫌悪感を露わにするミストナの前に、歯をくいしばるほど頑張って耐え抜く、鼻を摘まないペレッタが一歩を踏み出した。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私がやったんです! ウゥゥゥゥオッ、オオッ」
「次はお前か。あたしはな、例えどっかの王様だろうが、ヒラヒラの服を着たクソガキだろうが、腹が立ったら容赦しねーのがポリシーなんだよ。分かるか?」
「わ、分かります! 平等主義なのは良い事だと思います! ヒィン——オボェ、オボゥ!」
……ミストナは思った。
いくら時期王女であっても、死を受け入れるほどの精神力を持った者でも、吐くか吐かないかを織り交ぜながらの謝罪というものは、なーんの誠意も伝わってこないと。
やはり臭い匂いというのは、女の子にとって最大の敵だ。それを
「よし。お前は平等主義者なんだな?」
「はいいぃぃ!」
「だったら覚悟を決めて、あたしと同じ匂いを味わえ」
「そ、それだけはやめて下さい!」
「言ってる事がちげーだろ!」
ベリルが両手を広げてペレッタににじり寄る。
(まずいわ!)
焦るミストナが短パンのポケットを叩く。
仕事の最中だという事をすぐに忘れる、バカ狼のバカ行動を止める為に。何か良い手段は無いかと。
このままではペレッタが気分を害して、心を閉ざす可能性も捨てきれない。
ふと、ミストナはポケットに小さな膨らみを感じ取った。
大きく腕を振りかぶり——
「ほら、あんたの好きな銀貨をあげるから————取ってこーーいっ!」
ミストナはその小物を、通路奥へと思い切り投げた。
「なにっ!? 銀貨だと!?」
銀色の放物線を確認し、ベリルは脇目もくれず追いかけて行く。その姿は骨を投げられて追いかける犬とどう違うのか、ミストナには見分けが付かない。
したり顔をペレッタに向け、
「にししっ、やっぱりあいつはバカね。銀貨なんてもったいなくて投げれる訳がないでしょ」
「では何を投げたのですか?」
「ん? ペレッタの国の
「一体どこから——」
すっと、ミストナはペレッタの胸元を指差した。さっきまでネックレスがかけてあった場所だ。
「いつの間に……」
「耳打ちした時にこっそり外させて貰ったわ。で、チェーンを外して紋章だけを投げたの」
「……」
ペレッタが暗い表情で
心根の優しいペレッタも、自国の象徴を無下に扱われたら怒るかも知れない。
しかしミストナの狙いは
そこから固定観念の破壊、及び冒険者としての生き方の再構築を図りたかった。乱暴なやり方だと自覚しているが、残された時間は少ない。
「……そうですか」
淡々とペレッタは呟く。怒りも呆れも感じさせない大人な対応だった。
意外な反応に戸惑ったのは、吹っ掛けたミストナ自身だ。
「あ、あれ? 怒らないの? ペレッタの国の紋章でしょ? 大事な物でしょ?」
国の混乱を抑える為にペレッタは死ぬ気なのだ。
だから怒って当然だろうと。魂の叫び合いをミストナは覚悟していた。それなのに。
「国の紋章とはただのシンボルに過ぎません。少し悲しい気持ちにはなりましたが、大事なのは国で暮らす民です。いくら紋章が傷付けられようと、民の心が傷付く訳ではありませんから……」
「っ!?」
ミストナは面食らう。
ペレッタの正体は
拳を握り、自分の詰めの甘さを痛感する。こんな事でペレッタの魂に火は付かない。むしろ逆だ。冷静にさせてしまったようにさえ感じる。完全な悪手だ。
年が近いと侮っていた自分が恥ずかしい。
この少女の精神力や、他人を思いやる気持ちは、ミストナの遥か想像の上に居る。
(このままモルメス国に無事に返して、本物の女王にした方が良い気が……いやいや。それじゃあ遅かれ早かれ、貴族の連中に殺されるだけか)
「それに、私にはもう紋章は必要ありませんから」
「どういう意味?」
「……最深部まで行ったらミストナさん方は、すぐに離脱して下さい。お願い致します」
(やっばい!! しくじった!)
心が離れた気がした。だが、ここで突き放される訳にはいかない。
「紋章は後でちゃんと回収するから。ごめん! ごめんなさい!」
ミストナは両手でペレッタの手を握り、深く謝罪した。失敗したなら挽回する。
何度でも、何度でもだ。
「怒ってませんよ。こんな楽しい冒険は生まれて初めてなんですから。ミストナさんには感謝の念しかありません」
その穏やかな表情から真意だということが汲み取れた。本当にペレッタという少女は良い子だ。鹿野の未来予知に間違いは無い。
「……そっか」
「はいっ」
しかし手強い。怒ってないのだとしたら、危害が及ぶ前にミストナ班はダンジョンから脱出してくれという事だ。自分だけは、死ぬつもりで。
気を使われるという事は、心を開いていないのと同じ。ペレッタの
ペレッタは国民が第一だと口にした。政治の混乱から一般国民にまで犠牲者が出る事を懸念しているのだろう。それとも、あの兵士達にそう脅されているのか。
言わば、数十万人の人質を取られたようなもの。こんな状態の人間を簡単に説得出来るはずがない。
(甘かった。でも、だからと言って、“諦める”っていう言葉は——虎の本能には無いけどね)
ダメなら次。その次がダメならまた別の手で。
これはペレッタへの精神的な干渉だが、戦闘行為と似ているなとミストナは感じる。
次の一手。詰まる所、どれだけの対抗策を持っているかが勝敗を分ける。
「紋章はともかく、これだけは取っておいて」
提灯鼠が落とした白い魔石を拾い、ペレッタの胸の前に差し出した。
「これはペレッタの戦利品だから。安物だけどコップ半分の水くらいは込めたり出来るわ」
「ミストナさんが使ってください。私は……使う機会が少ないでしょうから」
首を横に降るペレッタを、ミストナは良しとしなかった。
手を取り、指を優しく広げ、魔石を置く。そしてしっかりと握らせる。
この白い魔石こそが、ペレッタにとって新たな人生の紋章になりますようにと——ありったけの願いを込めて。
「ダメよ。これはペレッタが持つの。
「それはダンジョンのルールですか?」
「違うわ。冒険者の流儀よ」
「冒険者の流儀……」
「うん。ホワイトウッドにおけるダンジョンには絶対的なルールがある。それは“何が起きても自己責任”ってこと。あの兵士が言ってた追い剥ぎ屋っていう悪党もいるし、殺人目的の異常者だっている。そんな過酷なダンジョンの中でも、志の高い冒険者の間には、暗黙の取り決めがあるの。その一つよ」
「受け継がれてきた独自の価値観。ロマンチックでカッコいいですね」
「ルールがない世界でどれだけ他人の為に動けるか。それこそが“真の冒険者”だと私は勝手に思ってる。あなたにはその才能が溢れているわ。モルメス国の次期王女——ペレッタ・トゥワ・モルメス殿下」
「——っ!」
察したペレッタが後退りをしようとした。
しかし、ミストナは手を握ったままだ。
離さない。絶対に。
「逃げないで」
「
「ダンジョンの調査は半分嘘。私達はあんたが死なないように説得しに来たのよ」
ペレッタがそっと目を伏せた。
「全て……知っているということですか」
「そうなるわね」
「私が死ぬ為に、このダンジョンへ視察しに来たことも……」
「えぇ。ペレッタを処刑台になんて上がらせないわ」
「……」
唇をきつく結び、ドレスの裾を強く摘んだ。押し殺すような葛藤だ。
内面は助けに来てくれて嬉しい。だけど、その好意に応じる事が出来ず悲しくもある。そんな所だろうか。
「一体どのような理由ですか? 誰からの依頼ですか?」
「冒険者ギルドの関係者じゃない。アニマルビジョンの者よ。分かりやすく言えばダンジョンの為の組織。その上司がモルメス国の内通者を介して、私達に仕事を振ったの」
「私を助けようとしてくれる内通者……もしかすると……」
その者に心当たりがあったのか。ペレッタは視線を逸らし、意識を頭の中に集中させた。
「そいつの事は誰だか知らされてないけどね」
「内通者はきっと……叔父でしょう。父が死んでからは会う事はありませんでしたが、あの方だけが最後まで気遣って下さいましたから」
長らくペレッタの世話をしていた人物だ。鹿野に情報提供したのも、その叔父の計らいによるものだったのだろう。
「しかし——自国の問題のせいで、無関係のミストナさんにこのような危険な仕事が回ってしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「気にしないで。報酬である金貨十枚の為に私達は動いただけだし。でも……今は違うわ。掛け値無しにペレッタを本気で救いたい。この気持ちに嘘偽りは無いわ」
ペレッタの目をしっかりと見つめる。
少しでも良いから、この想いが伝わるように。
「……」
「信じてなんて言わない。私の今からの行動が、その全てを証明するはずだから」
「ミストナさんのお気持ちを疑ってなどいません。私なんかを助けようとしてくれることに、精一杯の感謝を示します……ですが、私の気持ちが変わる事はありません————っ!」
急にペレッタの顔が苦痛に歪んだ。しゃがみ込み、足首に手を当てている。
「どうしたの!?」
ミストナは屈んで足下に注視した。
慣れないハイヒールによる靴擦れだ。くるぶし辺りの皮がめくれ、血が滲んでいる。
「ラビィ」
「はいです!」
「私が戦うフリをして派手に砂埃を立てるから、隠れながら手当てしてあげて。ラビィが回復魔術を扱えると分かったら、兵士達の目の色が変わるかも知れないわ」
「任せて下さいです!」
ミストナはペレッタからそっとハイヒールを預かった。
(よしっ)
地面に転がし、大袈裟に構えを取る。
「よ、よくもやってくれたわねーー?」
棒読みの台詞をミストナは地面に吐き捨てる。
正確には地面ではなく、ハイヒールに向かって。
「私を怒らせたら、ど、どうなるか知らないわよーーー?」
言いつつ、地面に向かって拳を十発ほど叩きつけた。ミストナは白いハイヒールを提灯鼠に見立てていた。後方の兵士達に戦闘行為と思わせる為だ。
実際にどう映っているかは分からないが、距離はあるので案外上手く誤魔化せるかも知れない。
もし見えていたのなら、恥ずかしながらただのアホになってしまうが。
立ち込める砂埃の中で、ミストナは虎耳を集中させる。派手な衝撃音を立てたにも関わらず、兵士達の靴音が早まる事は無い。
これを機会にペレッタが死んでも良いと考えているのか。さっきは近付いて来たくせに。行動に共通点が見えないのは、ガロンの指示によるものかもしれない。
思案しながらも、ミストナは最後の拳をヒールの高いピンに向かって打ち込んだ。
(こんな棒切れで、ペレッタを縛り付けるんじゃないわよ!)
根元からぽっきりと折れたヒールを拾い、ミストナは座り込むペレッタに歩み寄った。
「どう? 楽になった? ラビィはちょっとした回復魔術が使えるの。凄いでしょ」
「はい。とても良くなりました」
この程度の擦り傷は、笑顔の天使の笑顔であるラビィならば治せる。
治療を終えたラビィはポーチから兎マークのハンカチを取り出して、ペレッタの踵に巻きつけた。
指示は出していない。独断でだ。こんな事があって良いのか。ミストナは我が妹分の優しさを垣間見て、貧血を起こしそうになった。
もうこれは天使の域などとっくに凌駕している。敬愛の気持ちを込めて明日から『ラビィお母さん』と呼ぶべきなのでは。
「ありがとうございます。ラビィさん。すっかり痛みは無くなりました」
「えへへ。どういたしましてです」
見つめ合う二人にミストナは少しの嫉妬心を覚えたが、今は心臓の裏にでも隠しておく。
「はいこれ。いくらか穿きやすくなったと思うわ」
ミストナはピンをへし折ったヒールを、優しくペレッタに穿かせ始める。
「ねぇ、ペレッタ。本当の本当に、死ぬ気なの?」
「はい……それが国の為ですから。父の政策は独裁が過ぎました。モルメス国にゲートが出現したのも、父のせいだと貴族の方々は言ってます」
「そんなのでたらめよ!」
思わず荒い口調が
「聞いた話によると、私は貴族側に原因があると思うわ。貴族の一派が内政をひっくり返そうとしたから、異界の核となるダンジョンが
政治家同士のいざこざならまだ知らず、何の根拠も無くダンジョンを引き合いに出した貴族の発言は許されない。異界の固有ダンジョンとは魔素を循環させる核だ。全ての生命源と言われている。
当然に知能のある人種ならば理解しているはず。知っているはずなのに。
ミストナは唇を噛み締める。
ダンジョンとは人智の外にある崇高なもの。そう信じているミストナにとっては、余計に腹が立つ貴族側の言い分だ。
もし目の前にその貴族が居たら身体中にダンジョンの素晴らしさを書き込んで、鏡の前で朗読させている所だ。大きな声で、はきはきと。
「だとしても……多くの方々に迷惑がかからない結末はこれしかありませんから。私も深く考えました。でも——他に方法はありません」
「あるわよ! 例えば偽物の死体を用意するとか、貴族を全員とっちめて本当に女王になっても良い! 私はペレッタを応援するわ!」
「万が一に死体が偽物とバレた時に責任は誰がとるのでしょうか。兵士ならともかく、怒りの矛先が民に向けられるかもしれません。それに貴族が懇意にしている派閥には、一般の民が大勢含まれています。根絶やしにする事は出来ないのです」
「だからって……今の今まで関係の無かったペレッタが、血筋を受け継いでる理由だけで処刑されるのは間違ってる!!」
「これが私に与えられた運命なのでしょう」
「運命だろうが神様だろうが、この拳で殴り飛ばしてやるわよ! だから死ぬなんて言わないで! 考え直してよ!」
「——そのお気持ちだけで、私はもう救われていますから」
気付けばペレッタは目元に涙を溜めていた。
その涙を振り切るように立ち上がり、無理に笑って見せた。
「ありがとう、ミストナさん。これで私は最深部へ、自分の足で行く事が出来ます」
「ぺ、ペレッタ……待って……」
固い決意に気圧されたミストナは、喉まで浮かんだ言葉を忘れてしまった。
胸が痛いくらいにギュッと締め付けられ、ペレッタが一人歩き出したのをただ見つめる事しか出来ない。
「——ミストナ」
後ろから聞こえたツバキの声に、すぐ追いかけようとした足が止まる。
うっすらと湧く悔し涙を見せまいと、鉄甲の布の部分で目元をゴシゴシと拭った。
「……何よ」
背中を向けたまま、ミストナはぶっきら棒に返事をした。
「最短ではありますが、幻獣が多く出現し時間がかかる道筋を選びました。が、やはりここは初心者用のダンジョン——“戸惑いの洞窟”。もう少しで最深部となる大空洞に到着します」
「分かってる」
「説得の方は……今の様子を見るに、まだのようで」
「もう少しよ。絶対にペレッタを死なせやしないから」
ふわりと。
胸元に着物の袖が交差し、後ろからツバキの大きな体にすっぽりと包み込まれた。
「猶予も無く厳しい条件。ですが他者の心を思いやれるミストナなら、達成し得る試練だと
「……ありがと」
顔を上げると目を瞑ったままのツバキが、優しく笑っていた。
「
「うん」
ツバキは優しい。表だって行動をする事はないが、作戦面でも精神面でも何かにつけてサポートしてくれる。
背が大きいからだろうか。大木に寄り添っているかのような深い安心感もある。
ミストナは思う。がむしゃらに突き進む事しか出来ない自分なんかよりも、ツバキの方がパーティーのリーダーに相応しいのではないかと。
「いつでも頼って下さいませ。
思えばどうしてツバキにこんなに気に入られているのか、ミストナには分からなかった。パーティーに誘って了承してくれた事も不思議で仕方なかった。ベリルはともかくとして。
自分など、この街に置いては一ヶ月の駆け出し冒険者。街を歩けば似たような猫の獣人くらい、いくらでも居るはずなのに。
(褒め上手? それとも
そう言えば——と、ミストナに思い当たる節が浮かび上がる。
「ツバキ、嘘ついたでしょ?」
「はて? 何のことでしょうか」
「私が認めた唯一のリーダーって所よ」
「そのままの意味ですが——」
「だって私見たもん。この前あんたが油揚げの店主に、今と同じように尻尾振ってるの」
ミストナは足元で揺れる、大きな金色の塊を見つめる。
「そ、それは尊敬を込めた狐人としての表現です! 私はミストナとベリルとラビィの言うこと以外は決して聞きません! 信じて下さいまし!」
ツバキの抱き締める力が強くなり、ミストナは本当の事なんだと感じた。素直に嬉しい。
同時に。その尖り過ぎた発言には、これから起こり得る様々な
「あのね、私達以外の言うことも聞かなきゃダメよ。でも……今は許す。ツバキのお陰で元気が出たし」
「えぇ。私もミストナに触れて気力が回復しました」
「私を誰だと思ってるのよ。この群れのボスよ。リーダーよ。当然じゃない」
「ふふふ、分かっております。それはともかく——後方から不快な視線を感じるのは気のせいでしょうか?」
ツバキは閉じた目を、遥か後方に居る兵士達に向ける。
ミストナは気にならなかったが、実力者であるツバキの事だ。きっとチェスターのいやらしい視線に勘付いたのだろう。
「あんたを気にいってる兵士が居るのよ。副隊長のチェスターって奴。一応、気を付けておいて」
「気を付ける? それは小骨が喉に引っかからないように気を付けて食さなければならない、という事ですか?」
「一言もそんな事は言ってないわよ」
ミストナはツバキから一旦離れて、呆れ顔を向けた。
倒すを通り越して食べる時の注意事項とは。やはりこのデカ狐の頭は、ベリルとはまた違った方向でネジが数十本ブッ飛んでいるようだ。
「
「うん」
「しかし、非常事態に限りその範疇は適応されません」
「うんうん。まぁ、究極に食べる物が無かったらその考えも出て来るかもね。最後の最後の最後だけど」
「ですからミストナ。
「……」
「……」
会話をぶった切ってツバキの腹が鳴る。
天井からはパラパラと砂が落ち、少し地面が揺れたようにも感じた。
(ミストナ。良く聞くのよ、ミストナ。すぐに過ちを認めなさい。この大食らいに少しでもリーダーを任せたい、なんて思った事を。よくよく考えてみればベリルの
ミストナは思わず頭を抑えた。
ダンジョンに突入して、まだ一時間少し。ツバキは
本当にツバキの空腹は、場面を読むという事を知らない。
「ペコが……コンコンと……鳴きました」
「どーーこがコンコンよ。ライガーとかの唸り声の方が近かったわよ」
「魔、魔獣ではありません……ペコです。ペコは育ち盛りなので……」
「それはあんたの身長でしょ」
腹の虫を庇うツバキがシュンとうな垂れた。
まるで大切な物でも失ってしまったかのような、来週末の買い物帰りに世界が滅びてしまうような、そんななんとも言えない悲しげな表情で、お腹をさすっている。
「もう。私の分のサンドイッチを全部食べて良いから」
「誠ですか!?」
「肝心な場面でもしお腹が鳴ってみなさい。全部台無しになるじゃない」
「ありがとうございま……いえ、やはりそういう訳には……」
少しの間だけツバキの表情は明るくなったのだが、すぐに影を潜めた。
「良いから食べなさいって」
「仲間を差し置いて
ツバキはどうするべきか悩んでいる。やはりこの辺は同じ十四歳の女の子だ。
それだけでも雑な狼女と大きく違う。ベリルなら礼も言わずにもう食べきっているだろう。
対してツバキはデカいが、乙女な側面をきちんと持っている。この後——誘惑に負けて、ペロリと平らげる姿が目に見えてはいるが。
「いえ、やはり今回は我慢を致します。ミストナの分の大切な軽食を頂くなど——ぐうううううううぅぅぅぅ…………」
「……」
「……ぐぅ」
気まずい沈黙が流れた。
いくら乙女な部分を持っていても、言ってる事とやってる事が真反対なのだからそりゃ気まずくもなる。
「ぐぅぐぅうるさいのよ。良いから黙って腹に詰めなさい」
「——このシチダイラツバキ。
「……はぁ」
呆れながらもミストナの気分は晴れていた。
死ぬ者を説得する人間が、暗い気持ちではいけない。ツバキのお陰で良い気分転換をする事が出来た、と思いたい。
「さあ、ラビィ。完全無欠の
「はいです!」
よじよじとツバキの背中を登るラビィが、ツバキの肩に両足をかけた。肩車だ。
最近ツバキは何かにつけてラビィを肩車する事が多い。きっとあれだ。デカさを誤魔化せるとでも思っているのだろう。余計に目立っている事に気付かずに。
「ちなみにラビィ料理長。ミストナの軽食に油揚げは挟んでありますか?」
「ミストナさんのサンドイッチには、ローストチキンが入ってますですよ」
「なんと!? それはどういった味付けで?」
「食べてからのお楽しみですです」
「なるほど。食べる前にも楽しみを増やす、という事ですか。腕を上げましたね」
「えへへへっ、です」
どれだけ食い意地が凄いんだか。
ツバキの背中を見つめていると、上に乗ったラビィが長いロップイヤーをはためかせて、こちらを振り向いた。
「ミストナさん、私も頑張りますですから」
「あんまり無茶しないでね。ラビィはこのパーティーの切り札なんだから」
「はいです! 私はいつまでもミストナさんの従者ですから! 何があっても助けますです!」
(——助けますです。——駆け付けますです。——会いに来ますです。——愛してますです。——今晩ベッドで待ってるです————よしっ)
ラビィの言葉を無理矢理に脳内変換し終えた時、ツバキの身体が上下にブレて見えた。
トン、トンと。大きな幅跳びのように跳躍を繰り返し、二人は前線に躍り出て行く。
一人残されたミストナは、鉄甲と胸当てを軽く打ち合わせた。何年も聞いてきた気味良い鉄音が、壁面に小さく反響する。
「なーにしょぼくれてんのよ、ミストナ。あんたはいつまでも昔の私じゃない。睨め。進め。手を伸ばせ。掴んだら絶対に離すな」
ミストナは想いを口にする。
自己暗示ではなく、言葉で信じる道を照らす。目指すべき目標に向かって、決して見失わない火を灯す。
「ペレッタ。私はあんたを絶対に救う。この虎の目が捉えた
ミストナは走る。ペレッタの手を再び掴む為に。
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