第1話 matrix @1
火をつけた煙草の煙が、紫に揺れる。店の前で一服する男は、着崩したバーテンダー衣装で、扉を背にして突っ立っていた。店の周囲は殆ど人気が無く、飲み屋街という訳でもない。故に、この店に来るのは殆どが見知った人間達であり、また、新たな顔がやって来ることは、ここ数年は無かった。
火が口元にやって来る。男はアスファルトに火を落として、踏み付ける。明日、朝になったら、どうせ掃除するのだと。適当な理由を付けて、後ろの扉、階段を降りようとする。
ふと、近くで轟音が唸った。車のブレーキ音、ここが静かな神社近くの古い街だとは思えないエンジン音。
「騒がしいですね。どうかしました?」
キイという扉の音と共に、付けてあった鈴の音も鳴る。目の前の扉から見えたのは、
「南、ちょっとどいてろ」
男は自身の明るい茶髪を掻き上げ、南に言った。ひょいと道から男が外れると、エンジン音はすぐそこにあることがわかる。急ブレーキ。アスファルトとゴムの焼ける臭い。身体のスレスレを通ったのは、黒いワゴン。二人は何度も見ている、晶という男の所有している、ボロボロの車だった。それがブレーキを踏みながらも、こちらに突っ込んできていたのだ。
ようやく止まった車体に、目を丸くしながら、南は言った。
「おかえりなさい」
間抜けた声、南が呪いの様な言葉を垂らす。いつも通りの帰宅であるような、非常事態を、非常事態としないとろりとした発言が、宙に浮く。
「夜遊びの帰りにしちゃあ、早いし、帰りの足が派手じゃないか。どうかしたのか」
一つまた、煙草に火をつける。紫煙を飲んで、男は言った。覗く最後部の車窓の中、暗くてよくわからないが、ぐったりと、車酔いをしたのであろう了が、中に寝っ転がっていた。窓をとんとんと男が叩くと、車の中で、了が言う。
「カズさん」
言った先で、男、カズが咥え煙草でドアを開けた。覗く中、ぷん、と、獣臭さが鼻につく。ウっと声を上げて、カズは一度ドアを叩きつける。
その音で気づいた晶が、密閉された車内で叫んだ。
「壊れるっつってんだろ!!」
豪快なブレーキ音よりも大きな声が、高い建物の少ない市街地で、鳴する。
「やめろ、近所迷惑だ。とっとと車を車庫に入れて、店入れ。とびっきり冷えた冷でも用意しておいてやる」
ワゴン車をこれでもかというくらいに、カズは蹴った。それなりに力の強いカズの蹴りで、ガタンと、車が揺れた。
車庫はすぐ近くで、カフェの備え付けである。何も納得いっていないような晶が、丁寧に、これ以上傷つけまいと、車を空間に入れていく。その様子を傍で見ていた南が、ニコニコと微笑みながら、黙って店に戻る。それと入れ替わりで、もう一人、眠たげな眼を擦って、深夜の冷気に包まれに出る。
「もう、何なの、嫌な臭いね」
俗にジャージという服装で、その女性は立っていた。女性と言えども、彼女はまだどちらかと言えば少女の姿に近く、その無垢に近い気は、深夜に似合わぬ雰囲気である。
黒く長い髪を肩甲骨の辺りまで流して、それが、冬の風に飛ばされそうであった。
「レジーナ。丁度良い。手伝ってくれ」
そう言って車から出てきた夜の、疲れ切った表情を見る。そこまで密度の高くないはずの車内から、まるで転がり出されるように出てきたのは、運転席を含む他二人。そして、夥しい異臭。
「何よ。というかこの臭いはなんなの? まさか野良犬の死体でも持ってきたなんて言わないでしょうね?」
はぁ、と。レジーナは溜息を吐く。漏らした息を取ろうと、息を吸えば、また、うっと苦しげな声を上げて、カズの後ろに下がる。鼻をつまみ、糞でも見るように、晶と夜を見た。
「違う。多分人間だ。早く出してやりたいから、手伝ってくれって言ってるんだよ」
夜が、ちょいちょいと手を動かす。一つのキャリーケースを持って、彼はレジーナの前まで歩く。その中身は重いらしい。そこそこ細腕である夜の腕では、少し持って歩くだけでも、それなりに息を切らすほどには。
「死んでるんじゃないの?」
レジーナは、自分の目の前に置かれたそれを、高いヒールで蹴る。ガンガンと音が鳴って、夜は少し眠たげな眼で言った。
「いや、縁の糸が切れていないし、死んでいたとしてもまだ新しいと思う。怪しいし、調べたいんだ。晶だけじゃ開けられないくらい、強く封がされてて、困ってるんだよ」
鍵の部分を、夜が差す。紙切れで封されるそれは、普通の人間でも取れそうなものである。そこに、夜が手を出す。紙を剥がそうと爪を立てるが、どうにも、シールのようにはいかない。無理にこじ開けようとしても、その紙切れには、傷一つ付いてはいなかった。
「成程。呪術で封されてんのね。しかも結構強力じゃない」
ゴンッと、音を上げて、もう一度、レジーナはキャリーを踏みつける。とっとと手を退けるようにと、夜の手を足蹴にした。よろめきながらこちらを見て、最後部の扉を開ける晶に、レジーナは瞬きする。
「アンタ一人で出来ないなら私一人でも出来ないんだから、アンタも来なさいよ」
了を車内から引きずり出して、晶は頷いた。
「店の中でも良いか? 外じゃアレだ。臭いもご近所迷惑でしょうよ」
それに、外は寒い、と、晶は零す。言語を吐いた彼は、ずるりとキャリーを引っ張って、良しという言葉も飲まずに、地下へと入っていった。
「中で飲んでる奴らもいるんだけど、な」
カズは立ち尽くす夜の背を押して、先を戻るレジーナ、了の後ろを追わせる。ふあっと欠伸を一つ欠いて、外を見た。雲の少ない空に、火の残りかすを落とす。ぎりっと音を立てて、残っていた煙草の火を消滅させた。
地下、皆が入った酒場の空気は、気化したアルコールと暖房で、重く温かい。水分を含んだそこに、凍った空気と、獣の臭いが入り込む。
「……なんだ、死体運びでも頼まれたか。晶」
ソファで座って、黒髪の男が言った。彼は特徴の一つも感じられない、一瞬、誰でも何処かで出会ったことのあるような、そんな顔をしている。目に光無く、気怠く。彼は机の上のピーナッツを投げて、口に入れる。
「頼まれたんじゃなくて拾ったんだよ」
クスクスと笑って、晶はコートを脱ぐ。それをソファに掛けて、手にあるキャリーを床に置いた。後ろ、外に出ていた全員が入ったのを確認すると、晶はレジーナを見る。
「早速やるかね」
鍵の部分、晶はブーツの踵を当てる。レジーナはそれと反対の方に、つま先を触れさせる。
一斉の、と、二人の口から零れる。
――――バン、と、音が鳴る。それは巨大で、部屋中に唸りを与える。音に目を丸くしたレジーナが、固まる。
「何、これ」
彼女が驚いたのは、その音だけではない。キャリーが木端微塵になって見えた中身である。全員がそれを見に、顔を合わせる。
「キング、知り合いとかじゃない?」
黒髪の男、キングはレジーナに尋ねられて、首を横に振る。誰もが、その顔を知らなかった。誰もが、その中身の異様さに、驚いていた。
生白い皮膚を被る全裸。髪は艶めいて、黒を主張する。目をかっぴらいて、その、彼女とも少女ともわからぬ子供は、体を窮屈に蹲り、端正な顔の唇を祈りの手に当てる。瞳は孔雀石。濁り、金をまぶした様な輝き。体をよく見れば、傷は無く、どちらかと言えば、少年のようだと思えた。
「死んでるじゃない」
獣臭さ、レジーナがつま先で、その体を突いた。臭いの割りには綺麗ね、と、何度もきめ細やかな皮膚を撫でる。
突如、ビクンと、体が動いたような気がした。一瞬、足を引いて、身を引いたレジーナの前に、了が立つ。彼の表情は、傍のカズや夜が見る限り、無に近かった。同じような顔で、晶も少年を見ている。
「生きてる。これはそうやって死ぬようなものじゃない」
既知のような言葉を、了が垂れ流した。夜が、え、と、音を零す。
そしてまた、何も脈絡なく、ずるりと、少年は全裸のまま、目の焦点も合わせず、体の崩す。そこでやっと、少年は一瞬白目を向いて、瞼を閉じた。
「眠った」
晶がそう言った。少年の口、鼻、寝息がすーすーと立てられる。何が起きたかさえわからない酒場、木端微塵の破片で、店のグラス幾つかが割れたことに気付いたカズが、頭を抱えて膝を崩していた。
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