第3話 Malicious Love Letter
座学ではない授業は、開放感があるためか、普段より一層生徒の自制心が試されることが多い。
今、この4限目の情報の授業でも、生徒のうち6割くらいは先生の話に耳を傾けているが、残りの4割は、ずらっと並んだパソコンに隠れて好き勝手やっているのが目に入る。
机の下でスマホをいじっている人、静かにカタカタと、1年の時に支給された情報の時間用のメールアドレスで友達とやりとりをしている人、眠そうにうつらうつらしている人。
そんな様子に、情報好きな僕は毎回もやもやしているが、まぁ、気持ちは分かる。
実際僕も体育が本当に苦手で、高1の最初の面談で担任に「なんで体育って必須科目なのでしょうか……」と愚痴をこぼしたことがあった。
先生はそんな僕にクスッと微笑み、「情報とか家庭科とか体育とかの副教科って、今はやりたくないなと思うかもしれないけど、大人になってから、あの時なんでもっとちゃんと取り組まなかったんだ、って後悔するんだよ」と諭した。
それを聞いて、きっと過ぎてみないと分からないことってたくさんあるんだろうなと納得し、渋々ながらも真面目に体育を受けるようになったのだ。
教室の様子を知ってか知らないでか、情報の担当教員、
「皆さんが普段日常で使っているのは10進数といって、9までいったら、位が上がる数値の表記方法です。ですが、コンピュータは10進数を理解することができないため、代わりに0と1のみで数値を表現して、1の次に位が上がる2進数というものを使います。今日は2進数の読み方使い方を学んでいきましょうね!」
情報の授業といっても、パソコンを使った演習だけじゃなくて、意外とこういった情報処理関係の座学も多い。
回ってきたプリントを見ると、2進数と10進数の対応表(2進数の"10"は10進数の"2"と等しい、とか)や、2進数と10進数の変換方法、2進数のシフト演算や補数についてなどが書かれてある。
最後にそれらを使った計算問題が並んでいた。あれ、どこかで見たことあるなぁと記憶を辿ると、前に『WHITE MAGE’S CAVE』の資格のチャット欄で話されていた問題と同じだなと思い出した。
いつか僕も資格試験とか受けてみたいなと思っていて、そのチャットを追いながら一緒に問題を解いていたのが記憶に新しい。
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『ぴー子: こないだの試験1問目から分からなくて爆死したんだけどw
【問題文の写真】 』
『P@ssw0rd: この手の進数系の問題って毎回必ず出るのでここで得点取れないようじゃ合格難しいですよ……解説するので次は解けるようにしましょうね』
『raccoon: パスワード先輩イケメン……』
『P@ssw0rd: 最初に、右に3bit算術シフトするとありますから、画像のように、符号ビット以外を右に3つずらして、あいたところには全て符号ビットと同じ1を入れます。 【解説の写真】 』
『ぴー子: ありがとうございます。そこまでは理解できました。』
『P@ssw0rd: では、10進数に直しましょう。これは符号ビットが1で負の数なので、絶対値を求める必要があります。このやり方はご存知ですか?』
『イオ: パスワード先輩の資格講座、開講されましたよ〜〜!』
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そんなチャットの会話を思い出しながら手を動かしていると、いつの間にか問題を全て解き終わっていた。
チャットの内容が初めてちゃんと実生活で役立った嬉しさを一人噛み締めていると、隣に座っている野球部の
「水無瀬もう解いたのかよ!?まだ説明受けてないとこなのにすげぇ!!」
耳元で大声で叫ばれて耳がじんじんと痛んだが、できるだけ平静を装って返す。
「前に見たことのある問題だっただけだよ」
「いや、普通、こんなの見たことある奴いねーよ!さすがぁ!!」
「た、たまたまだから……もうちょっと声抑えて、ね」
それでもひっきりなしにすげぇすげぇと言い続ける間島くんにたじたじしていると、先生から「こら、間島くん!今は私が話しているんだから、もうちょっと静かにしなさい!」と注意が飛んできた。
周りからも「間島うるせーぞー!」とからかう声が聞こえてきても、「すんませーん」と、特に気にするそぶりを見せないあたり、彼は大物だなと感心する。
あまり大きな声で叫ばれるのは流石に恥ずかしいが、褒められて悪い気はしない。"パスワード先輩、ありがとう。あなたのおかげです"と、この世のどこかにいる顔も知らない誰かに密かに感謝した。
ふと、僕のメールボックスに新着メールが届いたのが目に入った。送信元欄を確認すると、「amagi-shuto」とある。――柊斗くんだ。
開くと、広いメール本文欄に、『問3からどうやって解いた?』とだけポツンと書かれていた。彼は僕から大分遠い席にいるのだが、そんなところまで聞こえてしまっていたのか。
そういえば柊斗くんに、分からないとこ出てきたら教えてって言われていたんだったと思い出した。もらった甘味の恩は倍にして返さなくてはいけない。
どう説明したら分かってもらえるかなとウンウン唸りながら返信メールを書いていると、いつの間にか周りも演習タイムに入ったようで、各所からうめき声が聞こえてくる。
そして、僕のことをべた褒めしたばかりの間島くんが、内緒話をするように口元に手を当てながら、早速話しかけてきた。
「水無瀬、お前もう終わったんだろ??そんなメールなんかして遊んでないでさ〜俺に教えてくれよ!!なに、もしかして女子と秘密のやりとり?やるね〜!!」
いやいやいや。待って。
本人的には囁き声で言ってるつもりなんだろうけど、全然大きいから。クラスの半分くらいには聞こえる声量だよ。
特に由良先生に聞かれて、遊んでるなんて思われて評価が下がったりでもしたら、たまったものじゃない。
「違うから!相手は男子だし、これは授業の内容で――」
急いで誤解を正そうとしたその時、突然スピーカーが鳴り響いた。
「「由良先生。由良先生。お急ぎの電話が来ています。至急、職員室までお越しください。」」
こういった呼び出しの連絡は、授業の邪魔にならないように休み時間に行うのが普通のため、『どうして今?』と、クラス皆の頭の上に疑問符が浮かぶ。
先生もちょっぴり怪訝そうな表情をしながら首を傾げた。
「……何かしら。先生ちょっと行ってくるから、みんな、続きやっててね」
そう言ってガラガラと出て行くと、教室中が一気に騒音で溢れる。
「よっぽどのことじゃないと授業中に呼び出されたりしないよね?」
「身内になんかあったんじゃないの」
「電話来たって言ってたしそれあるかも」
「やめなよー不謹慎だよー」
「てかこの問題解けた?これ情報っつーか数学じゃん」
「コンピュータ用?の2進数をうちらが理解する意味は何なのって感じ」
「まじそれな」
好き放題に話す声がそこら中から聞こえてきて、僕は頭の中で言葉を返すのも面倒臭くなり、あはは、と苦笑いした。
間島くんの誤解を解き、これが終わったらすぐに教えるからと彼をなだめ、急いで柊斗くんへのメールの続きを書き始めた。
「ええと……これは一度10進数に変換して……っと」
丁寧に書きすぎて演習の時間が終わってしまったら本末転倒だと、解説の手を早める。
それにしても、クラスメメイト2人にも頼ってもらえるなんて。
僕もいつか水無瀬先輩って呼ばれるようになったりして!そして、ゆくゆくは正義のホワイトハッカーに……!
そんな未来を想像して期待に胸を膨らませてニヤニヤしていると、女子のキョトンとした声が後ろから耳に飛び込んできた。
「えー、なんだろうこのメール」
「どれどれ……うーん。なんか……送り先間違って送ってきちゃったのかな。この添付ファイル見たら何かわかるかも、開いてみたら?」
「うん、そうだね!」
……送り先を間違えた?添付ファイルを開く?
キーボードを打つ手と思考が停止する。
確証はないけど、明らかに嫌な予感しかしない。
「ま、待って、開いたらダメだよ!」
「え?」
僕が振り向いて声をかけたのと、彼女がダウンロードしてきたファイルを開いてしまったのが、ほぼ同時だった。
突然、そのパソコンから奇妙な短調のメロディーが流れ出し、何かの文字が書いてある白い画面が現れた。
心臓がドクンと跳ねる。
―――マルウェアだ。
「ごめんちょっと避けて!」
急いでその机の下に潜り込み、高鳴る動悸と震える手を抑えて、LANケーブルを探す。マルウェアとは、malicious software(悪意のあるソフトウェア)の略で、種類にもよるが、感染するとパソコン内の情報を抜き取られたり他のパソコンを攻撃するための踏み台になったりする。
マルウェアに感染の疑いがある場合、感染したパソコンをすぐさまネットワークから隔離して、被害の拡大を防がなければいけないと、どこかの記事に書いてあった。
「これだ!」
色々な線でごちゃごちゃしている中に紛れた水色の線を引っこ抜く。無線LANには繋がっていないはずだから、これから何か起こっても、これでひとまず被害はこのパソコンだけに抑えられる。
一息つく暇もなく、すぐに上から震えた声がかかる。
「水無瀬くん……、なんか数字が変わってる……」
机の上に身を乗り出し、パソコン画面を見ると、「I LOVE U.」と大きく書かれた文字の下に数字があり、42, 41, 40...とどんどん減っている。その下には赤い英文、1行分のテキストボックス、そして赤い「OK」ボタンが一列に並んでいる。
「質問が書いてあるな」
いつの間にか僕の隣に来ていた柊斗くんが緊張した声で読み上げる。
「WHERE IS OUR FIRST PLACE? …私たちの最初の場所はどこ?」
それを聞いて僕はうーん、と唸る。
「……この質問に正しく答えることができれば、もしかしたらこれの動きが止まるのかもしれないね。」
きっと、このマルウェアを作成した人物が、仲間のPCに感染させないように、仲間しか答えがわからないこの質問を用意したのだろう。
しかし、仲間でもなければ何のヒントも与えられていない僕らに正解が分かるわけがない。
気づくと、クラス中の皆がパソコンの周りに集まってきていた。
「これは、やらかしちゃったね」
「怖っ。こういうの初めて見た……!」
「とりあえず何か打ち込んでみたら?どっちみちカウントダウンが0になったらやばい感じになりそうじゃん」
確かに、何もしなくてもこのままでは先生が戻ってくる前に数字のカウントが終わってしまう。でも、僕が勝手に操作して大丈夫なのだろうか。
判断に迷って柊斗くんの顔を見上げると、彼は緊張した面持ちで静かに頷いた。
……よし。やるしかない。
適当に、公園という英単語、『PARK』を打って送信する。
一か八か、なんとか当たってくれと願ったが、その願いは一瞬で砕かれた。警告マークのアイコンとともに、答えが間違っていることを知らせるポップアップが現れ、周りから、「あぁ……」という落胆の声が漏れる。
目を見はったのは、ポップアップ上の「You're wrong.」という文字の下に書かれた「Your network is down. Bye.」という文。
このマルウェアはインターネットに繋がっているか確認する機能を持っているのか。ということは、本来ならば、「OK」ボタンを押した後、このマルウェアに感染した端末からマルウェア作成者の保有する端末になにかしらの通信が行われるのだろう。
そんなことを考えていると、誰かしらの「きゃっ」という高い声が教室に反響した。突然その画面が消え、ピーというピープ音と共にデスクトップが赤い画面に変わり、アイコンが全てメールの形になったのだ。
画面に近づいてよく見ると、拡張子も全て「.loveletter」に変えられていた。おそらく、全てのファイルが暗号化されてしまったのだろう。
「なんだよこれ・・・・・・怖すぎだろ」
隣で柊斗くんの手が僅かに震えているのが見えた。攻撃者の意図が不明な、こんな不気味な挙動を見てしまったら、誰だってそうなるだろう。
似たような挙動でよく聞くのが、ファイルの暗号化を解除する代わりに金銭を要求するランサムウェアだ。視覚や聴覚に対して刺激を与えて人々の恐怖心を煽り、お金を払わせようとしてくるものが多い。
しかし、今回は金も物も何一つ要求されていない。
金ではなく、情報の奪取等が目的なら、マルウェアが動いていることをできるだけ利用者に気づかれないようにこっそり潜ませるのが鉄板だ。
それなのに何故こんな派手な演出をするのか、全く意味がわからない。人が慌てふためく様子を想像して楽しむ愉快犯の仕業なのだろうか。
そんなことを考えていると、用事を済ませた由良先生が教室に入ってきた。1つのパソコンの周りに集まっている僕らを見て駆け寄って来て、パソコン画面を見て目を見開いて固まった。
微動だにしない先生に不安になり、「とりあえずLANケーブルは抜いておきました」と声をかけると、狼狽えながらも「あ、あぁ、水無瀬くんありがとう。助かるわ」と笑みを見せてくれた。
そして、パソコンの周りにたむろしている生徒達に、
「話は後で聞きますから、申し訳ないけれど授業はここで中止します。皆今日はもう教室に戻って大丈夫よ」と告げ、パタパタと準備室の方に走って行った。
その後のパソコン室は、お通夜状態だった。
マルウェアのファイルをクリックしてしまった女子がずっと涙を流しながら誰にともなく謝り続けているのを見て、胸がチクチクと痛む。
クラスの皆も、気まずそうな感じで誰も言葉を発さず、黙々と戻る準備をしている。
さっきまであんなに平和で皆楽しく談笑していたのに、一体この状況はなんだ。
マルウェアは、こんなにも一瞬で人の幸せを奪ってしまうものなのかと、悲しみと共に作成者や何もできなかった自分に対する怒りがふつふつと湧いてきた。
これを作った人は一体どんな気持ちだったんだ?どう生きてきたら、人を不幸にして楽しむなんて発想ができるようになるんだ?それに、この悲劇を止められなかった自分もどうなんだ。
目の前の人すら救えていないのに何がホワイトハッカーになりたい、だ!?
胸の内がどす黒い何かで満たされそうになっていた時、ぽん、と肩に手が置かれるのを感じた。
「ほら、湊太もとりあえず帰るぞ」
「柊斗くん……」
「後は先生に任せよ。あの状況で冷静に対処してたの、本当に尊敬するけど、あんまり背負いすぎるなよ。ここにいる誰も悪くないんだしさ」
「うん、ありがと……。柊斗くんは大人だね」
心の底からそう告げると、柊斗くんは「そんなことないさ」と弱々しく笑った。
彼も相当怖かったのだろうか。
その表情の影に深い悲しみが見え隠れしていて、少し心配になったが、この状況だと無理もないなと思い、それからは何も話さず、静かに二人で教室に戻って行った。
この事件がきっかけになって、僕と、僕の周りの人たちの人生が大きく変わってしまうなんて、この時は思ってもいなかった。
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