第2話 白魔術師の洞穴
僕は真っ白な狭い部屋の中にいた。
頭上の蛍光灯はちゃんとついているはずなのに、やけにズシリとした重い空気のせいか、視界が暗く淀んでいる。部屋の真ん中に置かれた白いベッドと、その周りに設置された複雑な機械が目に入った。
……ここは病院か。
棚に置かれた、お見舞い品であろうピンクの花が薄暗い白い部屋の中で異色を放っている。
目の前では、父と妹の
普段あまり感情を表に出さない父までもがこんなに乱れているなんて、どういうことだろう。まるで今日で地球が崩壊することを知った時のような絶望感を孕んだ泣き声で、聴いているこっちまで悲しくなってしまった。
"二人とも、なんで泣いているの。落ち着いて。"
そう言って真凛をなだめようと自身の白く細っこい腕を伸ばそうとするが、どんなに踏ん張っても声も出ないし身体もビクともしない。物凄い大きな見えない力でどこも動かせないように押さえつけられているような感覚だ。
その大きな力に抗っていると、突然、頬をつう、と何か生ぬるいもので撫でられるのを感じた。次から次へと撫でられ続け、しばらくの間しつこいなと苛立っていたが、ふと、あぁ、僕は泣いているのかと気がついた。
続けざまに、腹の底からむくむくと熱いものが込み上げてきて、喉までやってきた。それがしばらく喉で溜まっているものだから気持ちが悪くて仕方がない。
耐えられなくなって、ぐっ、とそれを押し出すように喉に意識を集中すると、かすれた音となって口から出てきた。
「どうして」
どうしてだって。それはこっちが聞きたい。どうして僕は目の前で大事な家族が悲しんでいるというのに手も差し伸べられずに、突っ立っているんだ。
「どうしてどうしてどうして……」
自分の意思とは関係なしに次々と口から溢れ出てくる同じ単語と止まらない涙と震える体に、焦りが募ってくる。このままでは自分が自分ではなくなってしまいそうだ。この訳のわからない状況を何とかする方法はないのか。
その時、父が慰めるように真凛の肩を抱き、父の頭に隠れて見えていなかった、ベッドに横たわっている体の持ち主の顔が視界に入ってきた。
その顔を見た途端、自分の頭がカッと熱くなるのを感じ、一気に世界が暗転した。
次の瞬間、ぐらっ、と階段から真後ろに倒れるような感覚と共に、身体がビクッと飛び跳ねる。
「……‼︎」
目を見開いて辺りを見回すと、そこは教室だった。
後ろから微かにクスクスと笑い声が聞こえてきて、僕は自分が寝てしまっていたのだと察した。急に現実に引き戻された驚きで夢の内容はあまり覚えていないのだが、手が汗でぐっしょり濡れているし、やけに後味の悪い感覚が残っているので、相当悪い夢を見ていたのだろう。
”よく分からないけど、夢でよかった。”と、僕は現実の平穏さに心から感謝した。
キーンコーンカーンコーン……
お昼の始まりのベルが鳴り、先ほどまで国語の時間で僕と同様に夢の世界に入り込んでいた人たちがむくむくと起き出す。古文の文法の説明が眠気を誘うウィスパーボイスで延々と続き、さすがに僕も眠くなってしまった。平安の歌人たちには申し訳ないが、これは不可抗力だ、仕方がないと自分に言い聞かせる。
一人で悶々としていると、そんなもやもやした気持ちを吹き飛ばすような明るい声が降ってきた。
「湊太!お昼行こうぜ!
あの眠い国語の後だというのに、そんなことを感じさせない柊斗くんの爽やかな笑顔に羨ましさを感じる。
“祐也たち”と言っているのは、柊斗くんが昼休みにいつも一緒にバスケをしている、バスケ部所属のキラキラ男子たちのことだ。もさっとした僕とは生きる世界が違う人種の人たち。
彼らとバスケをしないときは、お昼をゆっくり食べる時間があるため、僕を誘ってくれる。だけど、タイミングが悪く、そんな時に限っていつもやろうと思ってた事が入っている。
「あー、ごめん。今日はちょっと用事があって」
「はぁ?昼休みなのに用事ってなんだよ。それ、こないだも言ってたじゃん。マジで、"いとわろし”だわ〜」
覚えたての古文の単語を吐き出しながら不満そうに口を尖らせる柊斗くんに少し噴き出しつつも、また今度ね!と手を合わせてから、せかせかとカバンを持って立ち上がった。
ドアの前でたむろしている女子の固まりを「ちょっとごめんね」とペコペコ頭を下げながら突破する。
廊下に出てから、胸が少しチクリと痛んだ。
本当にごめんね、柊斗くん。今日はどうしても気になる事があるんだ。
そう、心の中で再び謝ってから、早足で人の間をくぐり抜けて行った。
2階分の階段を駆け上がっただけで、息切れがしてきた。こういう時に、自分の体力の無さを恨む。
ドアにかけられた『第二国語準備室』と書かれた札を確認すると、カバンの下に沈んでいる鍵を手で弄り見つけ、目の前の鍵穴に挿し込む。カチャ、という音がしたのを確認し、ガラガラと窓のないドアを引く。その小さな部屋の中にはたくさんの古い本と、それらに囲まれて縮こまっているように見えるこじんまりとした机とソファがあった。
僕はそのソファにぼふっと腰掛けて目を瞑る。
”やっぱり、この場所が一番落ち着くなぁ”
目を閉じていると、先ほどの嫌な夢の感覚を思い出してしまいそうになり、慌てて瞼を持ち上げた。
そして、ここに来た目的を果たすために、よいしょとソファの背もたれから体を持ち上げて、カバンの中からお昼のパンと、ノートパソコンを出して広げた。
「さて、どうなったかな」
パソコンを起動すると目の前にはモダンなデザインのチャット画面が広がっていた。ジャンル別にチャット欄が何列も並び、リアルタイムで次々と投稿が流れていく様子を見ることができる。
そして、それぞれの列の見出し部分には「脆弱性全般」「IoT」「Web」「ダークウェブ」「ハニーポット」等のチャットテーマが刻まれている。
ここは情報セキュリティ全般のことを自由に話すチャットサイト、
『WHITE MAGE’S CAVE』(白魔術師の洞穴という意)だ。
日本中の、セキュリティに興味がある人々がこのサイトを利用しており、チャット形式という発言の気楽さにより活発な情報交換や議論が繰り広げられている。
ハンドルネームを見る限り、よくセキュリティ関連の記事を書いているような業界の有名人も多数参加している。
僕はそこで、「攻撃キャンペーン」がテーマの列に目を移した。
攻撃キャンペーンとは、特定の組織に対して長期間に渡って何度も偵察・侵入・攻撃を行った末に組織が保有する機密情報を奪取し、それをリークしたりする一連の活動のことだ。
金銭目的だけでなく、攻撃することによって自らの主張を訴えたりするものが多く目立つ。
実は今日は、世界的なサイバー犯罪集団YellowPuppyの内部チームで、労働環境の改善を訴えるチームが20個ほどの日本企業のサイトを一気に襲うと宣言していた日なのだ。
その中には、過労によって亡くなった人が複数いると報道されていた企業や、セクハラやパワハラが多いと業界で騒がれている企業等も含まれていることから、今回の攻撃対象は、YellowPuppyが何かしらの基準で労働環境が悪いと判断した企業たちなのだろう。
苺ジャムが30%増量期間中らしいジャムパンをモグモグと口に入れながら、次々と更新されていくチャットを眺める。
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『てんとう虫: 今のところサイト改ざんだけで情報流出の話は流れてこないなー』
『Anon: つか、攻撃宣言されてから企業側は何の対策もしなかったのかよ。まんまと改ざんされちゃってさ』
『峯田 宏: 全ての企業がセキュリティ担当者を保有しているわけではありませんからね。そもそも今回の宣言のことすら知らなかったところはたくさんあると思いますよ』
『てんとう虫: 情シスと兼任でやっていて、そっちの業務に追われてセキュリティまで手が回っていないとかもありそう。ま、今回の攻撃対象にされるような企業だから察し』
『さくら: 今回の件でYellowPuppy信者が増えそうね。。。攻撃は絶対いけないことだけど、不当な扱いを受けてる労働者からしたら救世主みたいなものですもの』
『ゆうニャンは嫁: 黄色犬さすがっすなぁ』
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どうやら、攻撃宣言されていたサイトのうち、複数がサイト改ざんされてしまったらしい。
追うと、10分程前に、改ざんされたサイトのURLの一覧が貼ってある投稿があった。
リンク先を見に行ってみると、既に元どおりに復旧しているものもあるが、いくつかのサイトでは真っ黒い画面に「Hacked by Y.P 」という黄色い文字と子犬の顔の絵が大きく描かれていた。
犬種にはあまり詳しくないけれど、確かシベリアンなんとかという名前の犬だと以前どこかの記事で見かけたことがある。
「そっか、イエローパピー、宣言通りに攻撃行ったんだ」
攻撃宣言時刻が今日の午前中で、授業があったためにサイトを見ることができずにずっとやきもきしていたので、ようやく現時点での結果がわかって肩が軽くなった気分だ。
もちろん、このサイトはスマホからでも見れるのだが、休憩時間中は大体前の席の柊斗くんが話しかけてくるため、見る時間がなかった。それに、今回のようにがっつり一つのことについて追いたいときは、パソコンの方が操作性が良い。
僕は再びソファにもたれかけ、中身がいつの間にか空になったジャムパンの袋を意味もなく弄って結び目を作り、ふぅ、と一息つく。
こういった情報を見たところで、特に僕が何か行動を起こすわけじゃない。危ないアプリ情報とかならさりげなく周りの友達に気をつけるように注意できるが、企業を対象にした大規模な攻撃となると、ただ眺めていることしかできない。
それでも、最前線で起こっているサイバー攻撃をリアルタイムで知ることができるだけで、僕自身も最前線で戦っているような錯覚に陥り、それがどうしようもなく気分を高揚させるのだ。
最初は、ただの興味本位だった。
今から1年ほど前、別のSNSで仲良くしていた人に、コンピュータが好きだし、将来はプログラマーとかエンジニアになろうかななんて相談していた。
その時、セキュリティのことを知っていて損はないからとこのサイトを勧められ、そういえば映画で”ハッカー"とかよく聞くし(ハッキングとかする人達のことは厳密にはクラッカーと呼ぶのが正しいと後ほど知る)、そういう類かなぁ、とか思いながら軽い気持ちで登録した。
始めてすぐは、皆が何の話をしているのかさっぱりだったし、何でこの人たちは夜でも土日でも関係なしにずっとセキュリティのことを語っているんだろうと、不思議で仕方がなかった。
でも、見ているうちに、ここの人たちは皆インターネットの世界を安全なものにしようと奮闘してるんだなというのが伝わってきて、かっこいい、自分もここの仲間になりたいと思った。そう思い立ってからはチャットの会話内で意味のわからない単語を片っ端から検索して調べ、今では会話の7割くらいは理解できるようになった。
今はまだ、勇気がなくて自分から積極的にチャットに参加することもないし、ここで学んだことが実生活で役立ったこともそんなに多くないけれど、いつか映画に出てくる”ホワイトハッカー"のように、事件を未然に防いだり解決に導いたり、そんなかっこいい存在になれるんじゃないかと心のどこかで期待している自分がいる。
だから、柊斗くんにも、セキュリティの勉強をしていることははっきり言っていない。中二病かよと笑われてしまいそうだけど、普段は普通の男子高校生の暮らしを送っていて、いざという時に皆の危機を救う、っていうのがヒーローって感じがするから。
……まあ、そんな機会も実力も今の僕には全くないんだけどね。
そんなことをぼんやり考えながらしばらくチャット画面を眺めていると、そのうち、コンコン、とドアが叩かれる音がした。
「はぁい」とそれに応えると、ガラッとドアが開き、先ほどの眠い授業の根源である、2年の国語担当の
メガネのせいかちょっときつく見える顔とは裏腹に、毎日大勢の生徒を眠りに送っているだけある、30代後半男性とは思えないほんわか癒しボイスで僕に声をかける。
「水無瀬、今日もいたのか。そろそろお昼終わるぞ。鍵はかけないままでいいから、早く次の授業の準備をしなさい」
実はこの場所は、とある縁があって宮田先生に特別にこっそり使わせてもらっているのだ。第二国語準備室は滅多に開けない物置きになっているため、他の国語の先生が入ってくることもなく、こうして宮田先生が急かすまでは、のんびりしていられる。
まだお昼が終わるまで15分もあるが、このままチャットに張り付いていても進展はなさそうだし、素直に準備室を出ることにした。
「いつも使わせてくれてありがとうございます!」
「感謝してるなら、私の授業の時に寝ないでほしいものだな」
「はい……」
やっぱり寝ていたの、バレていたのか。パソコンをカバンの中にしまいながら、心の中であちゃあ、と舌を出した。
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