9 ケルベロスをモフろう!

 漆黒の巨体を構成するのは、やや硬めの短毛。そっと体を撫でれば、チクチクとした感触が手のひらを介して伝わってくる。背中や頭はお世辞にも心地いい撫で心地とは言えない。だが、撫でる部位を変えれば撫で心地も変化した。


 腹部を構成するのは、黒くて少しふわふわとした柔らかい毛。起きている間は決して触らせようとしない部位である。そっと手を伸ばして優しく撫でれば、柔らかな感触と温かさがエウレカの心を満たしていく。


「お腹は思っていたよりもふもふしているぞ。うむ、普段からお腹くらい見せてほしいのう。お腹を見せるのは信頼の証、と聞いたことがあるのでな」


 エウレカは爆睡しているケルベロスの体を、これでもかと触りまくっていた。背中や頭はもちろん、お腹や耳、尻尾まで触る。今この瞬間を逃せば、ケルベロスの体を好きなだけ触れる機会などない。これでもかとあちこちをもふり、その撫で心地と温もりを堪能する。


 エウレカの戯れはこれだけでは終わらなかった。毛並みを堪能した後は、ケルベロスの前足にある肉球を触り始める。肉球もなかなか触らせてくれない部位の一つである。ひとたび触れるとエウレカは破顔した。


 ケルベロスの肉球は黒い。指先で触れば、プニプニとした柔らかな感触がたまらない。サラサラしているように思えた肉球は、微かに湿り気を帯びている。


「普段は、触ろうとすると爪で攻撃されるのだ。いつかケルベロスの肉球を触るのが、我のささやかな願いでもあった。あぁ、この感触、たまらんぞ」


 ケルベロスが起きないのをいいことに、ケルベロスの体を触り続ける。そっと触れるだけだったはずがいつしか優しく揉むような動作にかわり、終いには即興のマッサージを施し始めてしまう。


 マッサージに夢中なエウレカは気付かないが、シルクスはその赤い瞳でしっかりと捉えていた。ケルベロスの頭2つが瞬きを始めている。ヒクヒクと黒い鼻を動かしている。それは、これから始まるであろう悲劇の合図――。




 突然、ケルベロスの頭の1つがエウレカに向けて大きく口を開いた。エウレカの頭部に向けて牙をゆっくりと下ろせば、いくら鈍感なエウレカでも何が起きているかに気付く。


「頭が少し痛……ケーちゃん! 頭を噛むでない! お主の甘噛みでも、我には深い傷なのだ!」


 エウレカの頭頂部にケルベロスの牙が突き刺さる。鋭く尖った犬歯は、甘噛みとはいえエウレカの皮膚をやや深く貫いた。傷口から薄らと血が滲み出す。少しずつ出血量は増え、赤い血がエウレカの頬を伝って床に零れる。


「は、早く牙を離すのだー。痛い! 痛い痛い痛い! 噛む力を、強めて、どう、する、のだ!」


 エウレカの手がケルベロスの頭を引き離そうと奮闘する。そうしている間にも犬歯はエウレカの頭部に深く刺さっていく。エウレカがもがけばもがくほど、痛みも出血量も増していく。


 だが、ケルベロスの頭は1つではない。寝ている頭が1つと活動している頭が2つ。エウレカが1つの頭と戦っている間にも、もう1つの頭がエウレカを襲おうとする。ケルベロスの攻撃を防ぐその姿に、魔王としての威厳はない。


「に、肉球くらい触ってもいいではないか! 別に減るものではなかろう……って痛っ! かーむーなー! 噛むなと言っているだろうが!」


 エウレカはケルベロスに襲われてもなお、その肉球に触ることをやめようとしない。戯れることに夢中で、ケルベロスが眠りについてからすでに2時間が経過していることにも気付かない。ただ寝ぼけているだけだと思い込んでいる。


 ケルベロスの犬歯がエウレカの頭から離れた。今度は傷口を優しく舐める。それと同時に別の頭がエウレカの腕を噛む。今度は甘噛みで済んだようで、出血はない。


「やめろ! 舐めるな! くすぐったいぞ」

「バウッ」

「甘噛みもダメだ。こら、噛むな!」

「バウバウッ」

「そんなことされると……もっともふもふするぞー!」

「ウーッ!」


 覚醒したケルベロスとそんなケルベロスをもふろうとするエウレカ。言葉が通じないはずの1人と1匹は、何故か互いの言語で意思疎通をしている。人の言葉と動物の言葉が見事に通じるその様子はどこか微笑ましい。


「……危なくなったら、止めましょう。それまでは好きなように戯れてもらいましょうか」


 カメラのレンズ越しにその戯れを捉えたシルクスが、クスリと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る