第121話 その名はパピヨン執事です。
突然現れたイトキンこと伊藤さんに腕を引かれ、俺たちはステージ裏に作られた控室――つまりイトキンの楽屋へ連れ込まれていた。
さっきからミユは、憧れのイトキンの楽屋に入れたのが嬉しのか、あっちへフラフラこっちへフラフラしつつ浮かれている。
俺たち以外に姿が見えなくとも、何かの拍子にバレる可能性もあるのだから注意してもらいたいものだ。
「憧れのイトキンの楽屋なのー」
とか言っているが、伊藤さんってそもそも同じアパートだし何度か俺の部屋にも来てるだろ。
どうもミユの中では平常時の地味な伊藤さんはイトキンとは別人扱いのようだ。
とりあえず今はそんな浮かれポンチになっている娘(ミユ)の事はいったんおいておくとして。
俺は目の前に座る伊藤さんに向き直り、事の次第を聞くことにする。
「一体全体どうしたの伊藤さん?」
「そうですよ、なにかあったんですか? 顔色がすぐれないようですが」
俺と山田さんは全く何も知らないフリをしながらそう尋ねる。
一応コノハのタレコミのおかげでだいたいのことは予想がついてはいたが。
「それがですね……」
ボソボソと小さな声で彼女は話し出す。
イトキンモードの派手目なメイク状態なのにこれだけテンションの低い伊藤さんは初めて見る。
少し珍しいものを見たなと思いつつ彼女の話を聞くことにした。
「今回のイベントの司会進行役だった女の子が急病で病院に行ってしまいまして」
「ああ、さっき聞こえた救急車の音はそれだったのか」
「多分……それでですね、急遽変わりの司会進行役を用意しないといけなくなって、今スタッフが手分けして――」
ザッ。
その時、伊藤さんの言葉を遮るようなタイミングで楽屋のカーテンを開けて一人の女性が入ってきた。
「だめだったよ伊藤さん、代役できそうな人はみんな仕事で出払ってるって。とりあえず他のスタッフには私が代役をする方向で……ってあれ? 伊藤さん、このお二人はどなた?」
ん? この人何処かで?
「こやつ、さっき田中にぶつかりそうになった女なのニャ」
俺の思考を読んだかのようにコノハが毛づくろいを止めて女性を見ながら言う。
そうか、確かにあの時の女性(ヒト)のような気がする。
一瞬だったし咄嗟(とっさ)のことだったからよく覚えてないけどコノハが言うなら間違いないんだろう。
「あっ、石川さんお疲れ様です。この方々は私と同じアパートの人で、山田さんと田中さんです」
伊藤さんが石川と呼ばれたその人にそう俺たちを紹介すると、すかさず山田さんは立ち上がり背筋を伸ばす。
そして、自然な動作で懐から名刺を取り出すと両手で持ち、石川さんに差し出す。
「はじめまして。私、伊藤さんと同じアパートに住んでいる山田といいます」
「これはこれはご丁寧に。私は石川です。伊藤さんのマネージメントをさせていただいております」
対して石川さんも同じ様に名刺を差し出し交換する。
それにしてもいつの間に伊藤さんにマネージャーまで付いたんだろ。
今回のイベントといい、イトキンの人気が出れば出るほど本人だけでは仕事の依頼とかさばききれなくなっただろうし、それで人を雇ったのかな。
それとも、前に聞いたことがあるけどヤオチューバー専門のマネージメント会社があるらしいから、そこに所属でもしたのだろうか?
それだと彼女の本来の夢である女優さんへの道が遠のきそうだが、名前を売った後から俳優業へ転身するという道もあるわけだし問題はないのかもな。
「ところで伊藤さん。あそこで名刺交換してる二人はどうでもいいとして、イベントの開始時間もうすぐだけど間に合うの?」
「あっ、そうでした。山田さん、少しいいですか?」
伊藤さんは俺の言葉に現状を思い出し山田さんに声を掛ける。
「はい、なんでしょうか?」
「実はお二人に声を掛けさせていただいたのは他でもありません。ぜひ今回のステージのお手伝いをお二人にしていただきたいのです」
その言葉に俺たちは驚きはしなかった。
コノハから話を聞いてこの楽屋に呼ばれた時点で大体この先起こることは想像できていたからだ。
「わかりました」
山田さんはその申し出を即受けると、テーブルの上に置いてあった今日の台本を手に取り、早速読み出す。
伊藤さんはあまりの即答に一瞬驚いた様だが「それではお願いします」とだけ答え、自らもメイク直しに鏡の前へ向かった。
一方、石川さんは一人その流れから置いていかれて戸惑っているようだったが、山田さんのその姿を見て我に返り困惑気味に言葉を紡ぎ出した。
「伊藤さん、一般の方にそんな事を頼むのは無理が」
「でも、今は彼らに頼るしか私には思いつかないんです。それに山田さんたちなら前に私のアシスタントをしていただいた経験もありますし」
「えっ?」
石川さんが俺たちの方を見る。
目線が上から下へ、下から上へ。
「――!? もしかしてイトキン動画で前にアシスタントをしていたというのはあなた達なの?」
「ええ、私達です」
何故か山田さんは自慢そうにそう言うと、おもむろに懐に手を入れて、いつもの四次元胸ポケットからアシスタントえおしていた時に使ったあのパピヨンマスクを取り出して何故か装着した。
「まさか貴方はパピヨン執事様っ!?」
途端に石川さんの目がキラキラと乙女のように輝き出す。
いやいや、そもそもパピヨン執事って何?
名前から感じる変態紳士感が半端ない。
それに山田さんってパピヨンマスク(そんなもの)常に持ち歩いているとか引くわ~、マジ引くわ~。
「サイン下さいっ」
俺がドン引きしているにもかかわらず、石川さんはそう言ってどこから持ってきたのかサイン色紙を山田さんに手渡す
多分その色紙って今回のこのイベント用に用意してあるやつだよね?
横領じゃね?
「いいですよ」
山田さんも素直にそれを受け取ると、また胸ポケットからマジックペンを取り出しサラサラっとサインをしていく。
気になったので横から覗いてみたら、色紙には『パピヨン執事♪ 石川さんへ』と微妙に崩したサインっぽい文字が書かれていた。
もしかして山田さん、パピヨン執事って呼び名気に入ったのかな……相変わらず彼のセンスはよくわからない。
山田さんレベルのイケメンだからまだ許されるかもしれないけれど、フツメン以下でパピヨン執事名乗ってたら速攻警察呼ばれそうだわ。
それはそれとして。
「いやいやいや、そんな事してる場合じゃないでしょ」
俺は二人の間に割り込むとスマホの画面を二人に見せて「開始まであと五分切りますよ!」と現実を突きつけた。
「そうでした、今はこんな事をしている場合ではなかったわ」
石川さんは両手をギュッと握りしめ自分自身に気合を入れるように「よしっ」と言うと「急いで準備します」と一声言い残し楽屋を飛び出していった。
あの人、俺とぶつかりそうになった時もあんなふうに勢いで飛び出していったんだろうな。
危険だ。
「台本はこれで全部でしょうか?」
「ええ、後は後半の質問コーナーはアドリブになるので注意するのはそこくらいだと思います」
「わかりました。後はこのパピヨン執事に安心して任せてください」
山田さんはトンッと自分の胸を軽く叩いてそう言うと俺に台本を手渡す。
もう台本を全部覚えたのだろうか。
『皆様、大変長らくお待たせいたしました。只今より~』
彼の準備が整ったのを見計らうかのように、舞台のスピーカーからイベント開始の告知が聞こえてくる。
はてさて、山田さんの方はいいとして、主役である伊藤さんの方は大丈夫だろうか。
心配になって彼女の方を振り返ると――。
「オーケーオーケー、問題ないって! アタシもとっくにスイッチオンよ!」
そこには先程までとは全く違う、いつもの自信に満ちたヤオチューバーモード伊藤さんことイトキンがそこにいた。
うん、大丈夫そうだ。
ただひとつだけ心配なのは憧れの彼女(イトキン)の頭上でくるくる飛び回っている我が娘の浮かれ具合だけだろうか。
お父さん、なんだかいろいろな意味で心配です。
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