2 旅の始まり
この時間の城内は一見ひっそりとしている。基本的には政務の始まる前、各々が仕事の準備に取り掛かっているくらいだろうか。まあ表側からでは見えないだけで、例えば厨房などは戦場の様だろうが。
ちなみにアベルは本当ならば今日は非番だ。勿論謁見の予定もなかった。
石造りの長い回廊を歩き、彼の職場へ向かう普段ならば右に折れるべき角を、今日は直進する。人の気配も一層少なくなり、冷たい回廊を叩く靴音だけが響き渡っていた。暗闇の中ならいざ知らず、朝の陽ざしと城内の静寂はなんだかひどく不釣り合いのように感じる。まるでまだ夢の中にいるようだ。
しばし自分の足音に聞き入りながら歩を進めると、その先に待っているのは重厚な扉。この国での権力を象徴する、竜のレリーフが彫られたその扉の下で、リーゼが腕を組んで立っていた。
「遅いですよ。王はとっくにお待ちです」
それだけ言うと扉を開き、一人だけ先にさっさと中へ。
ここは口さがない城の者の言葉を借りれば、旧謁見の間。
以前は戴冠などの重要な場面でしか使われなかったこの広間も、今や王のお気に入りの思索の場となり、簡単な用事でも臣下はここに呼びつけられるようになった。古くから仕える者達はそんな現状を嘆きもするが、一方でほとんどあきらめてもいる。 そもそもまだ王権がここに残っているのが奇跡のようなものだと、自分たちを慰めて。
「アベル、参上いたしました」
名乗るべき姓を持たないアベルは非常に簡潔な挨拶を投げ、正面に座る王の様子をうかがった。
ドラウステニア王国国王ギズワルド。
先王の急逝により、二十代の若さで崩壊直前の王権を継ぐことになったこの王は、太り気味の体を玉座に預けてアベルを待っていた。
「おはようアベル。朝から呼び出してすまないね」
「いえ、そんな滅相もない」
このたれ目がちで穏やかな表情と、臣下に対しても親しげな態度のせいで、周りからは頼りなく見られがちな王である。趣味は菜園での土いじりで、「まあ、なんとか」が口癖の三十代独身。
だがしかし侮るなかれ、その手腕は歴代の王家の中でも賢王と語り継がれる者達と並ぶほど。即位してから現在まで、リーゼと共にこの国を切り盛りしてきた傑物だ。
「それで本日はどういったご用件でしょうか」
アベルが話を切り出すと、王は正面に跪く年若い臣下に、いつものように優しげな眼を向けた。
「ああ、今日は君に何かを頼もうってわけじゃないんだ」
城の最奥、冬の空気を重く押しとどめるようなかつての閲覧の間も、王の柔らかい空気によってほぐされていくようだ。
ギズワルド王は、少し姿勢を正すように玉座の上でその大きな体を動かした。それに合わせて古い椅子が音を立ててきしみ、木のゆがむギシギシという音が、三人だけの広間に響く。
「アベル。君がここへ来てから、ええっと……」
「五年になります、陛下」
脇に控えるリーゼがすかさず答える。
いつも厳しい彼女だが、王への態度だけは、普段に比べてほんの少し柔らかくなることに、アベルは最近気づいてきた。
五年、という数字をアベルは口の中で小さく繰り返す。
五年。彼にとってはとてつもなく長い五年だ。しかしこうして過ぎてみると、あっという間の事だった気もする。
「五年、ね……。もうそんなになるか」
そう言うと王は、何かに思いをはせるように目を細めた。
「私が父から、崩れかけていたこの国を押し付けられたのが七年前だ。君も知っているとは思うが、僕が王位を継ぐ前の、政を半ば放棄した先王の晩年の統治は、王権の失墜と諸侯の増長をもたらし、どこの貴族が力ずくでこの玉座に座ることになっても、全くおかしくない状態だった」
ため息交じりに王は言う。それを聞いているリーゼも当時を思い出したのか、わずかにその目を伏せた。
先王。アベルは直接その姿を見たことはないが、城の肖像画では、現王ギズワルドと対照的な骨ばった顔と鋭い目が印象的だった。政治に疎く、反面文化に造詣が深い王だったらしい。その評判通り、城の書庫には彼が集めた歴史や芸術に関する書物が詰まっている。
だがその治世を知らず、ギズワルドの許可を得て先王が遺した書物に親しんでいるアベルにとって、正直そこまで悪い印象はないが。
「私が即位してからの数年は、リーゼを始め城の皆に本当に苦労をかけた。今もまあ、なんとか私がここに座って居られるのも、彼女たちの理解と助力あってこそだ」
「そんな、滅相もございません!私どもは、何も……」
慌てたように首を振るリーゼ。やはり王の前では少し人間味がある。というか普通の女性に見える。
少し頬を赤らめて恐縮する彼女へ王は温かな視線を向け、そしてアベルにまた視線を戻すと口を開いた。
「そんな時に、我々の前に突然現れたのが君だよ、アベル」
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