其の九十三 生命の証

「ア……ト……ミータ」


 ミコットは、霞のかかったようなぼーっとっする頭を振うと、辺りを見回す。

 現世乖離の術を行う前に、確かにそこに座らせたアトミータの姿はどこにもなかった。

 一体どこへ行ってしまったのか。術を使っている間にどれくらいの時間が経過したのか。数分か、数時間か、いずれにせよ今はここで休んで居る場合ではないことだけはわかっていた。

 聖騎士達との交信は成功した。しかし、こちらの危機が伝わったのかは定かではない。

 今この時も、刻一刻と危機は迫っているのだ。

 できることならお師匠様の加勢に向かいたいがアトミータのことを放っておくわけにはいかなかった。

 すると、カサカサっとなにかが動くような小さな音が聞こえてきた。

 音のした方を向くと、なにかがサっと横切るような影が眼の端に映る。


「アトミータ……なの?」


 そう言いながらミコットは、それがアトミータではないことを予感していた。

 まるで精気を感じないその気配からは、なにか邪悪なものであるとそう直感したのだ。

 アトミータはそっと息を飲み、その気配が何者であるのか確認しようとゆっくり立ち上がった瞬間。大きな影が机の影からぬるりと這い出てきた。

 それは長い身体と幾本もの足を持つ大きなムカデのような姿をしている。


 スティマータだ。

 

 そう思った瞬間、ムカデ型のスティマータは牙の生えた顎を大きく横に開き、液体を吐き出した。

 間一髪、床を転がると、今さっき立っていた場所に毒液が降りかかりジュージューと音を立てて床を焦がしている。

 ミコットは恐怖していた。

 お師匠様の話や、魔術書の挿絵でしかスティマータのことを知らないミコットは、実際に目の前に現れた化け物を前に戦慄してしまったのだ。

 のそりのそりとスティマータは近寄ると、頭をゆっくりともたげてミコットを見下ろした。

 ぺたんと尻もちをつき、スティマータを見上げる。

 恐ろしさで思考が停止してしまっている。

 股とおしりに生暖かい感触を覚えてミコットは我に返った。

 床を見ると大きな水たまりができていた。

 何と情けないことか。大魔法使いリーンクラフトの一番弟子が、スティマータを前に、恐怖のあまり失禁してしまった。

 そう思うと、ミコットは涙が溢れて止まらなくなってしまった。


「ち……くしょう……ちくしょう、この薄汚いクソ蟲がぁぁ、出て行け! ここから出て行けえっ!」


 悔しさのあまり、汚い言葉が口をついて出る。

 なんともみっともない姿であった。

 そんな言葉を吐きかけたところで何も意味のないことはわかっている。それでも言わずにはいられなかった。それは不甲斐ない自分に言い放った言葉なのだ。


 再び顎を開け、今度は毒液ではなく直接襲いかかってくるスティマータ。

 ミコットはまた床を転がってそれを避ける。ゴロゴロ、ゴロゴロと転げまわり、調度品に体中をぶつけた痛みがじんじんと熱を持つ。


 痛い、痛いけど……この痛みは、生きている証だ。


 ある時、お師匠様に教えられた。

 昆虫には痛覚がないと。

 四肢を捥がれ、腹を裂かれ、首を捻られても、痛みも苦しみも感じない。

 それが昆虫なのだと。

 その話を聞かされた時、ミコットはなんと恐ろしい生き物だと思った。

 痛みとは、動物が生きていく上でとても重要な感覚である。

 もし人間が痛みを感じない生き物であったのなら。

 傷つき傷つけることに、殺し殺されることに、なんら恐怖を感じることもない。

 愛する人が傷つき苦しむことに、なんの感情も抱かないどころか、愛という感情さえも抱かない生き物になっていたのではないだろうか。

 昆虫がそうなのだ。

 昆虫は恐れをしらない、譲歩もしない妥協もしない、ただただ貪欲に生存本能のみで生きているのだ。


 なんという恐ろしい生き物なのか。そして、それと同時になんと悲しい生き物なのか。


「お師匠様、昆虫とはとても恐ろしく悲しい生き物なのですね」

「そうですねミコット。それでも昆虫だって必死に生きているのですよ。この自然に生まれた生命達は、皆、必死に生きているのです」


 必死に生きている。

 そうだ、恐れている場合ではない。生きなくてはならない。

 それが、この世界に生まれた生命に課せられた使命なのだ。

 どんな小さな命にも、生きる資格があり、何者にもそれを侵すことなど許されはしない。

 お師匠様は言っていた。

 スティマータは生物ではないと。

 あれは、人間の業が生み出した悪魔であると。生物ではなく、人間の悪意によって動く機械、操り人形であると。

 それは機兵や聖機兵だって変わりはしない、生命を奪う為だけに創造された悪魔なのだ。


「負けられない……負けるものかあああああっ!」


 ミコットは声を張り上げて立ち上がると、背にもたれていた棚の引き出しを開けて、そこに入っていたお札を数枚手に取った。

 それは、簡易的に魔法を発動させる為の魔導具であった。

 ミコットには、リーンクラフトのように頭の中で術式を組み上げて魔法を発動させる程の実力はまだなかった。

 尤も、それは容易にできる技術ではない。本来魔法を発動させる為には、術式を構築しそれをアウトプットしなければならないのだ。

 リーンクラフトだからこそ成せる技である。


 ミコットが手にしたお札には、あらかじめその魔法術式が記されている物であった。

 あとはそこに使いたい魔法の術式を足せば簡単に発動させることができる。

 再び飛びかかてくるスティマータの攻撃を避けて、ミコットは机を巻き込みながら床に倒れ込むと机上にあった文房具が散乱した。

 その中からペンを取り上げて、ミコットはお札に術式を加筆する。

 使うのは雷の魔法。

 スティマータに一番効果がある電撃を浴びせて行動不能にさせるのだ。

 棚に激突してもがいていたムカデの化け物が、ゆっくりミコットに向き直った。


「眠りなさい」


 その瞬間、電撃がスティマータを貫くのであった。



続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る