其の三 天才と修羅
防戦一方の十郎太は焦っていた。こうして沖田と剣を交えている間に包囲網が完成してしまう。桂を逃がす為に囮役を買って出たのに、追っ手を攪乱するどころか逆に足止めを喰らっている状態だった。
そんな十郎太の焦りを見透かしたのか、沖田は攻撃の手を止め問いかける。
「あんた、人斬り十郎だよな? おかしいな……」
「おかしい? なにがだ?」
優勢だった沖田が急に手を止めて変な独り言を始めた為、十郎太はうっかり聞き返してしまった。
沖田は驚き一瞬きょとんとした表情になるのだが、にやにやと笑いながら話し始める。
「あ、喋れたんだねあんた。いやなにさ。さっきそこの二人を一瞬の内に斬り伏せた時とは違って、随分と剣にキレがないなと思ってさ。あんた、こんな状況でなにか他のことを考えてんじゃないのかい?」
今ここで沖田に勘付かれるのは非常に不味かった。もしもう一人、間者を潜ませていた場合、十郎太が囮であると知れればすぐ報せに走らせるだろう。なんとかして悟られないようにしなければならなかった。
「きさまこそ天才剣士と謳われる新撰組一番隊組長沖田総司とは思えぬな。仲間が二人斬られて憤怒しているのか? 剣筋が乱れているぞ」
「あれ? 俺、名乗ったっけ? はははっ、あんた誤魔化すの下手だなぁ。話題を逸らそうとしているのがみえみえだよ。そんなんだったら黙ったままのほうがよかったぜ?」
やれやれと呆れた様子で十郎太を挑発する沖田であったが、十郎太は黙り込んだまま見据えていた。
また喋らなくなってしまった十郎太に再び剣を向けると、沖田はにやりと口元に笑みを浮かべる。
「まあいいや。どうも時間稼ぎが目的ってわけでもなさそうだし。そうだね……質問に答えようか。あの二人を斬ったことに怒りを覚えているかって? 答えは否だ。たった一人を相手に無様なことこの上ないぜ。
「きさまらのつまらん法度などには興味ないな」
「あっそ、まあ俺も興味はないんだけど……他人に言われるとなんかムカつくね」
へらへらとふざけているかのように見えた沖田の目が鋭く光る。ほんのわずか、一瞬の間を置くと、沖田は再び十郎太に斬りかかった。
「殺す気でかかってこないと死ぬぜ人斬りっ!」
「貴様とて人斬りであろうっ!」
沖田の言う通りであった。他のことに気を取られている程余裕の相手ではない。本気で戦ったとしても勝てるかどうかわからない相手なのだと、であれば今成すべきことは一つ。
十郎太は踵を返すと沖田に背を向けて走りだした。そう、十郎太の選択したのは逃げることであった。
「あっ! てめえ、待ちやがれこのやろうっ! 逃げるのかあっ!!」
背後から聞こえる沖田の怒声は無視して十郎太は夜闇の中を駆けた。
沖田の追跡能力がどれほどのものかはわからないが、これまでの
そもそも暗殺とは、相手に悟られることなく近づき、任務が完了すればその場から即座に離脱するのが基本。事を易く運ぶのなら闇の中に潜むのが一番効率が良い。その為、十郎太は髷を結わずに頭髪で顔が隠れるようにしている。そして黒の着流しという出で立ちで暗殺に臨むことが多かった。当然、夜目も利き、月明りのない夜闇の中でも60間先まで見通せた。
振り返ると沖田は追ってきているようであった。
闇に慣れないのか足取りが不確かであった。
あの調子なら容易に逃げ遂せるだろうと十郎太は考えるのだが、空が白み始めたらそうもいかなくなる。ましてや桂の逃亡が困難になってしまう。やはりここは沖田を倒したほうが、先々のことを考えても良いだろうと闇に乗じて奇襲をかけることにした。
路地を曲がると十郎太は右手の民家の軒先に井戸があることに気が付いた。ここで仕掛けようと身を潜め気配を殺した。
沖田は十郎太のことを見失わないようにと必死であった。幕府方の要人を幾人も斬ってきた兇徒、大罪人である。これを挙げれば新撰組の躍進も間違いないだろう。今夜の捕り物は近藤や土方と多摩の山奥で語りあった夢を現実にする近道であると、その為にはあの人斬りを必ず仕留めなければならなかった。
十郎太の曲がった角を同じように曲がると沖田は顔を顰める。
見失った!
なんだか先ほどから胸が苦しく視界も狭く感じる。なにか己の体に異常が起きている、しかしそんなことにかかずらわっている場合ではない。剣を右手に持っている為に、空いた左手で胸を押さえながら沖田は再び駆け出そうとしたその時、前方の井戸から水の滴る音が聞こえた。
よもや、あんな所に潜んで自分をやり過ごそうとしているのかと。百人斬りも地に落ちたものだと沖田は忍び足で井戸へと近づいて行った。
ゆっくりと井戸を覗いた所で気が付く。井桁に掛かる釣瓶の先にある桶には、水が並々と入っている。恐らく底に釘かなにかで小さく穴を空けたのだろう。
そう思った瞬間、沖田は剣を左手に持ち替え横に払うのだが、思いもよらない大きな衝撃が身体を襲った。
空き家だったのであろう場所に身を潜めていた十郎太が、蹴り破った戸板ごと沖田に襲い掛かったのだ。
片手で握っていた為に沖田は剣を取りこぼしてしまう。十郎太は飛び出した勢いのまま沖田を押し倒すと馬乗りになり、逆手に持った刀の切っ先で喉を突こうとした。間一髪沖田はそれを避けると両掌で刃を挟み、手首を捻ると刀を巻き上げて遠くへ投げ捨てるのだが、かまわず十郎太は沖田の顔面を素手で殴りつけた。
「沖田ああああああああああああっ!」
「不破ああああああああああああっ!」
なんとも滑稽な戦いであった。地面の上を剣士が二人、転げ回りながら揉みあいとなる。十郎太は沖田の顔面に何度も拳を叩きつける。そして右手を大きく振り上げた瞬間、沖田は十郎太の腰がほんの少し浮いた隙を見て腹を蹴り飛ばした。
もうなにがなんだかわからなかった。顔面には熱い痛みが広がり、鼻血で息がつまり苦しい。手探りで十郎太の剣を投げ捨てた方を探すと運よく柄の部分に触れた。すぐにそれを拾い上げ正眼の構えをとると、目の前には人斬りが空手で立っていた。
「死ねえええええええええええええええええっ!」
沖田は叫ぶと突きを十郎太へと繰り出した。顔面、喉、胸の順に繰り出す三段突きは電光石火の同時攻撃。十郎太はその神速の攻撃を二つ躱してみせたのが、三つめが胸の中央に突き刺さると後方へと吹っ飛び、空き家の中へ転がり込むのであった。
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