陰気な男

@Kohutian

第1話

 彼はこれほどまでに長く感じる2時間を経験したことがなかった。入念に歯を磨き、顔を洗い、ひげをそった。この日が来るのを1週間前彼女と約束を交わしてから待ち焦がれていたことは言うまでもないが、彼は努めてそのことを考えないようにしていた。午後の3時間だけとはいえ、女性と二人で出かけることは彼にとって初めてのことであった。

 彼はクローゼットの中にある決して多くない洋服の中から、数年前母親に買ってもらった服に袖を通した。普段色の褪せたジャージばかり身に着けて居る彼にとって、鏡に映る自分は少々不自然に思えた。途端に彼は何か気まずいような感覚に陥った。彼は彼女にこの日を心待ちにしていたことを悟られたくなった。今日彼女と過ごす午後の時間は、彼女の買い物に付き合うだけのことであって、彼の日常からさほど逸脱しない、単なる日常の一部であると彼は自分に言い聞かせた。結果彼は母からもらった一張羅を脱ぎ、お気に入りのパーカーを身にまとった。

 彼は待ち合わせ場所の公園の近くにあるコンビニエンスストアに入り、鏡に映る自分の姿を確認した。ペタンコになっている自分の髪型が気に入らなかった彼は、手に少々の水をつけて、髪を立たせた。やがて無造作に立った自分の髪型に満足した彼は、彼女が待っているであろう公園へ向かった。彼はあえて待ち合わせ時間に3分ほど遅れた。彼は彼女に遅れたことを謝る自分の姿を想像しながら彼女の姿を探した。ところがそこに彼女の姿はなく、彼は期待外れといった表情でベンチに腰掛けた。ほどなくして彼の携帯が鳴り、彼女から10分ほど遅れると連絡が入った。彼は息をつき、ベンチに深く腰掛け流れる雲を見上げた。ふいに

「ごめん、待った?」

と声がした。彼が顔を上げると、そこにはいつもと雰囲気の違う笑顔の彼女がいた。1週間前からこの時を待ち焦がれていた彼が言った。

「いや、全然待ってないよ。」

「ほんとに?ごめんね。」彼女がリュックを一つ置けるほどの間隔をあけて彼の隣に腰掛けた。鎖骨当たりまで伸びた、なめらかなブラウンの髪がたなびいたとき、彼は甘い匂いがするのを感じた。

「もしかして今起きたばっかり?髪の毛ぐしゃぐしゃだよ。」

街でよく見かける流行の真っ赤な口紅の間から白い歯をのぞかせて彼女が言った。彼はのぞき込んできた彼女の大きな瞳を見つめ返すことができなかった。

「え、嘘。そんなことはないんだけどな。」

彼は急いで先ほど水で作ったお気に入りの無造作な髪型を指でとかした。「で、今日はどこに行くの?」

彼女はまるでこの質問を予期していたかのようだった。彼女は体半分ほど距離を縮めて彼の膝の上に右手を置いて、「誰にも言わないでね。」と念を押した。また甘い香りがほのかに漂った。

「吉田君ってさ、優一君と仲いいよね?」

彼は優一とたびたび食事に行く仲であった。が、あまり好きにはなれなかった。彼は優一のことを他人のコンプレックスにずかずかと入り込んでくるデリカシーのない人間だと感じていたからだ。

「まあ。悪くはないと思うよ。」彼は言った。

「よかったー。」彼女は彼の膝に置いていあった右手を自分の胸に押し当てた。

「優一がどうかしたの。」

彼はこの日初めて彼女の目を正面から見つめた。彼女は彼と目を合わせずに、ネイルをいじりながらいった。

「優一君って来週が誕生日みたいなの。それで何かプレゼントをあげたいなって。」

彼女はまた大きな瞳で彼を覗き込んだ。

「それで優一君と仲のいい吉田君なら、何かいいアドバイスくれると思って。」

彼はすぐさまその言葉の真意を理解した。彼は彼女からの好意を期待していた自分を呪った。大学のクラスの中でも人気のある彼女が、自分のような地味な男に目をつけるわけがなかった。こんな単純なことにも気付かず1週間一人で舞い上がっていた自分に嫌悪しながら、彼はそういった素振りを見せないように努めながらこう言った。

「なんだ、そういうことなら任せて。」

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