第136話 イシスの降臨

「でたぞ! 悪魔だ!!」


 兵士の叫びを聞くまでもなく、ジルの視線の先には巨大な悪魔が姿を表わしていた。フリギアの城壁の眼の前に、以前と同じ姿のガスパールがそこにいた。


 悪魔の姿を見た途端、シュバルツバルト軍の隊列が大きく崩れた。

 レムオンの死やフリギア失陥の経緯はすでに一般の兵にも知られている。このガスパールの存在によってシュバルツバルトは帝国に負け続けたのだ。兵士たちが恐慌をきたしたのも無理からぬことであった。


「母上、悪魔が降臨しました!」

 シーリスも悪魔の姿を厳しい表情でじっと見つめていた。彼女にとって、ガスパールはまさに異教が崇拝する悪魔に他ならない。


「悪魔め! ジル、詠唱の準備に入りなさい!」

 いつもは温和なシーリスがいつになく厳しい口調となった。ジルはシーリスの威厳に気圧されながら、召喚の詠唱態勢に入った。


 実際に召喚すると死ぬ可能性もあるため、日頃の練習では最後まで詠唱したことはない。だが、フリギアが陥落してから、ジルは毎日遅くまでシーリスと詠唱の特訓を繰り返し、その一歩手前までは練習していた。


 親子であることが分かってから、二人の間には重い空気が流れていた。ジルは自分を捨てた母親が許せなかったし、シーリスは罪の意識から子に気安く話しかけることが躊躇われていた。


 だがイシスの召喚という大義のため、二人は強制的に共同作業に励むことになり、親子関係を修復するきっかけにもなった。

 母を許せない、その思いに偽りはないが、その反面で母と過ごしたい、母に触れたいという思いも同時に存在していたのである。


 このイシス召喚の訓練は、ジルに母とともに過ごす大義名分を与えることになった。心のなかでなんら自分に言い訳する必要もなく、母と一緒にいられることになったのである。

 それはジルにとって決して不本意なことではなかった。



 呪文の詠唱はシーリスが主であり、ジルは彼女に同調する形で補助した。もとより、ジルに神聖魔法の奥義に類する知識など無い。複雑な呪文を唱えるシーリスの側で、魔力を供給する補助的な役割を負っていた。


 長い呪文である。ジルがいままで唱えたことのないほどに長い魔法だ。シーリスの詠唱にジルが同調し、次第にトランスしていくような感覚になる。人が神に近づくためにはその感覚こそが必要であった。


 その感覚が最高点に達した時――


「慈愛と正義の神イシスよ! 我が召喚にこたえ給え!」

 シーリスは両手を開いて大きく天に突き立てた。


 ビィイイイイイイン


 シーリスとジルを中心に、白く眩い光が辺りを包む。尋常でない量の魔力がただよい、空間を歪めるような感覚をもたらした。この膨大な魔力がイシス降臨の基になるのだ。


 ジルは急速に力が抜けていくのを感じた。疲労などというものではない。なにか生命力が吸い取られるような、非常に深刻な感覚である。それは横にいるシーリスも同様らしい。手を掲げながら、必死に耐えている様子が分かる。


 ジルには永遠に続くかのような、非常に長い時に思われたが、実際のところは約5分ほどの現象だった。やがて二人の頭上には、ガスパールとほぼ同程度の大きさの女神が姿を現した。


「これがイシス……」


 実物の女神をこの目で見て、ジルは畏怖を感じざるを得なかった。女神の姿はいつか宗教画で見たのとほぼ同じ姿であった。

(あれは適当に想像で書いてたのではなく、実際に見た者が描いたということか)


 驚いているのはシーリスも同じだった。いや、信仰が深いだけにより神を召喚したことに無上の喜びを感じていた。己の身近に神を感じたことはあるとしても、実際に召喚したことなどないのである。


「おおおおおおお!」


 シュバルツバルト軍からどよめきが起こっていた。イシスは広く信仰されている神であり、その信者は軍のなかにも多い。信仰の対象をこの目で見て、跪き祈りを捧げる者も居た。


 だが、全軍を統括するアムネシアまでが神に祈っているわけにはいかない。これを戦の転機としなければならないのだ。


「ついに我らがイシスが降臨された!! 我が軍にはイシスの加護があるのだ! 全軍、帝国軍に突撃せよ!!」


 アムネシアはありったけの声を張り上げて全軍に指示した。その声を聞いて我に返った者たちがフリギアへと突撃する。その先には悪魔が存在するが、不思議と恐怖は感じない。それもイシスの加護というものなのだろうか。


「母上!」

 レオンはシーリスに目で合図した。彼にはイシスに願いを伝える事は出来ない。それは聖女たるシーリスの役目だった。


「神よ! 慈愛と正義の神イシスよ! あれなる不浄な悪魔を消し去り給え!」

 急速に力が失われていくのに耐えながら、シーリスは神イシスに願いを伝えた。彼女にとってはシュバルツバルト軍の都合だけでなく、信仰上の信念からもガスパールの存在を許すわけにはいかなかった。


 シーリスの願いが届いたものか、イシスはガスパールの方に向き直った。そしてガスパールの方も突如として現れたイシスを凝視していた。

 悪魔にもイシスが不倶戴天の敵だと分かるのだろうか、ガスパールは何事か呪いのような言葉を吐いてイシスを指差した。


 恐らくそれは神のみが使うことのできる魔法なのだろう。そしてイシスの方も片方の手をガスパールへと掲げつつ、力を集中させていた。


 ガスパールの魔法が完成するのと同時に、イシスの魔法(シーリスから見れば神の御業みわざ)も発動した。


「邪悪なる者の首領よ。消え去るがいい」

 シーリスの脳裏にはイシスのそんな意思が伝わってきた。


 ガスパールの魔法は発動したが、イシスになんらの痛痒も与えていなかった。逆にイシスの力はガスパールをとらえ、幾つもの光の輪がその身体を拘束していた。


 ヴイン、ヴイン、ヴイン、ヴイン


 力の波動が鼓動する。爆発に向けて力をためるように。徐々にその鼓動が速くなっていき――


 パリィイイイイイン!

 何かが弾けるような硬質な音――振動といったほうが良いか、が辺りに響いた。


 フリギアの前に存在したガスパールが眼の前から消え去っていた。


「うぅううう」

 シーリスが苦悶の表情を浮かべる。イシスが降臨している間、シーリスとジルは魔力、いや生命力をずっと吸い取られ続けていた。主たる詠唱者であるシーリスの方がより負担は重かったのだ。


 シーリスは地面に倒れこんだ。それと同時にイシスも姿を消す。自分も脱力の局地にあったが、ジルは必死にシーリスの方へと駆け寄った。


「母上っ!」


 ジルはシーリスの胸に手を当てた。非常に弱々しくはあったが、心臓は確かに動いていた。

(良かった、気絶しているだけか)


 母が生きていることが分かり、ジルは安心したのだろう。その油断に疲労が襲いかかり、ジルも気を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る