河沿いにて、の前の日も河沿い。

「アルルに初めて会ったときのことなんだけどね」

 春の終わり、夏のはじめ。ララカウァラの家で、家の住人に向けて黒猫は話し始めた。


******

 朝に鳥を捕った。

 まだ空気は冷たいが、日差しは春を思わせる朝だった。

 獲物を手近な草の茂みまで運んで、黒猫は牙を外す。蛙が鳴く声、魚が跳ねる音、あと、遠くの方の草むらに野鼠か何かが立てる葉ずれの音が聞こえるが、特に危険な様子はない。

 黒猫はぽそっと呟いた。

「いただきます」

 獲物が虫でも魚でも、ごはんの前にはいただきます。そういうものだと黒猫は思っている。


 蛙の声は一層賑やかだ。

 あそこでなんかやってるなぁ、と黒猫は獲物の頭を砕いて飲み込んだ。川縁のこんもり高い所に何か緑色のものが集まっている。

 歩く蛙が大小さまざま。歩く蛙はしばしば見かけるけれど、あんなに集まってるのは初めてだ。


 いっぱいいるけど、あいつら、おいしくないんだよな。


 そんなことを思いながら黒猫は河原に座って蛙どもの様子を眺める。

 立ち上がって手を叩くもの、輪になって踊るもの、河から水を瓶に組んでヨタヨタと運ぶもの、その瓶から水を草の器に汲んで配るもの、飲むもの、二匹で肩を組んで何か歌っているもの、大の字に寝そべって、おそらくは寝ているものなど。

 黒猫が近づいても、蛙たちは特に気にしていないようだった。

 とある輪の中では、蛙が二匹、草の葉を剣に戦っていた。

 別の輪の中では、大きな蛙と小さな蛙が組み合って、お互いを投げ飛ばそうとしているようだった。

 周りには、まるい葉を左右に振る蛙と、細く尖った草葉を上下に振る蛙とがいた。大きな蛙ががぶり寄って相手を押し潰さんとすると、まるい葉の蛙が一斉に立ち上がった。

 グワッ、ガッ、グワワッ! グワワッ! グワワッ!

 まるい葉の大合唱を受けて、徐々に大蛙が押し込んでいく。勝負がきまるかと思われたとき、小蛙は身を翻して大蛙の脇の下をするりとくぐり抜けた。

 大蛙がたたらを踏む。巨体に似合わぬ俊敏さで振り返る。小蛙は後ろに跳ねて距離を取り、ぱしぱしと自らの腹を叩くと、半身に構えた。

 草葉の蛙は大盛り上がりだ。ワギャギャギャギャ、ワギャギャギャギャ、と独特の拍子を刻み、草葉を波打たせている。

 大蛙が鳴き袋を膨らませた。そして突進。かわす小蛙。大蛙、再度の突進からの急停止。小蛙はすでに右にかわしているが、そこは大蛙の腕が届く。内側から薙ぎ払われる大蛙の左腕、小蛙は飛び越えた。着地。次いで襲う太い右腕。小蛙はその腕を掴んで巻き込んだ。

 大蛙の回転を小さな体に纏うようにして、後脚で大蛙の股ぐらを蹴り上げた。

 大蛙の身体が高く跳ね上がる。そのまま空中でと一回転して、べちん!

「いぽーん!」

 大蛙の身体が描いたまるい軌道に、思わず黒猫は声を上げた。"いぽん"ってなんだっけ? とにかく小さいのが勝ちだ。小さいのが勝つとうれしい。


 草葉の蛙は飛び上がっている。抱き合っているのもいる。まるい葉の蛙たちは、腕をだらりと垂れ下げ、あんぐりと口を開けて放心していた。小蛙はひっくり返っている大蛙を助け起こす。二匹はお互いの腹を叩き合って健闘を称え合っている。

 もう片方の輪からグワワッ! グワワッ! グワワッ!と聞こえてきた。草の剣での戦いは、丸い葉側の蛙が勝ったようだった。

 蛙の大騒ぎはまだまだ続きそうだが、そろそろ飽きてきた。もう行こうかな、と黒猫は思う。

 そこで気がついた。

 あれ、あたしどうやって来たっけ?

 来たはずの道がない。

 いつのまにか河の中洲に取り残されていた。


 蛙たちはまだ騒いでいる。数もだんだん増えて来ていた。水かさも確実に上がってきていた。

 飛び越えるにはもう向こう岸は遠い。反対側の岸はもっと遠いし、崖みたいな急斜面だ。

 あの小さいのがさっさと負けてればよかったのに、と黒猫は勝手な事を思った。

 とにかく、なにか考えないと。

 何か、木とか、そういう掴まれるもの。近くに木でも生えてれば登るだけなんだけど、ど、ど、無いなぁ。

 黒猫は考える。

 運が良ければ、水はここまでこない。次に運が良ければ、なにか、例えば太い木とかが流れてくる。次に運がよければ、下流のあの茂みでうまく引っかかる。次に運がよければ・・・・・・

 と、そこで黒猫の耳が二つの音を捉えた。下流のほうから、人の足音。上流からは、

 ぞぞざざざざざ!

 逆巻く濁流が迫り来るのが見えた。

 

 下流の土手を仰ぎ見た。小さく人影が見える。

 運が良ければ、声がとどく。もっと運が良ければ、あいつはあたしを助けに来るぐらいの猫好き。

 黒猫は大きく息を吸った。

「たーすーけーてー!!!」

 あ、猫のフリわすれた。と思った瞬間、濁流が押し寄せた。地面に爪を立てて踏ん張る。水面から顔は出る。このまま踏ん張りきる!

 土はもろかった。流される。四つ脚全てを必死に動かして岸側へ何とか身体を持って行こうとする。さっきの茂みが少しだけ頭を出している。

 もう少し。もう、すこしっ。

 前脚が茂みにかかる。爪を立てて両前脚で掴む。爪が細い枝に食い込む手応えを感じた。顔が水に沈む。流れに尻尾が引っ張られる。力を振り絞って後ろ脚を引き寄せ、鼻を水面に出した。ふしゅっと荒い息をつくと、「次」が見えた。

 太い流木が勢いに乗って流れてくる。

 先にお前が来いよ!

 と黒猫は声に出さず悪態をついた。自分の身体が小さい事は自覚している。まともにぶつかったら、痛いじゃすまない。

 茂みから爪を外した。流れに身を任せるようにして、流木を受け止めた。木肌に爪がたった。あとは、よじ登るだけ。

 前脚に力を込めて、身体を引き上げようとしたところで、流木はくるんと回った。

 ふ、ざ、けるなっ。

 流木を抱えて仰向けになりながら、黒猫はなおも足掻く。

 顔が水中に沈む。鼻にも口にも容赦なく水が入ってくる。前も後ろも脚に力がはいらない。

 まだ!

 黒猫は後ろ脚を蹴り上げるようにした。

 木が回るなら、回してやれっていうんだ!

 後脚が水面に出た。木が回って、お腹が流木に乗った。あとは顔を上げて、身体を、木にあわせて、縦に、縦、たて・・・・・・

 黒猫は動いているつもりだった。

 しかしその身体はだらんとしたまま、木に引っかかっているにすぎなかった。

 目の前に碧い光が、ついで虹色の靄が見えた気がした。何か声のようなものも聞こえる。

 懐かしい気がする。なんだこれ?

 なにかがあたしを上に引っ張っている。死ぬと空に行くって言うのは、ヒトだけじゃなかったんだ……。


 ごぼっ。


 という音を黒猫は聞いた。次いで、どぅどぅと水の流れる音。ゴゲッ、と身体の中からも音がした。

 気づくと頭を下にぶら下がっている。喉の奥から水がこみ上げてきて、吐いた。ゴゲッ。息を大きく吸おうとして、また吐いた。

「暴れるなよ。また落ちるぞ」

 と背中の方から声がした。濁った水面が頭の下に見えた。水滴が鼻やヒゲからばらばらと落ちていく。流れの方向と、自分が運ばれている方向が違う。お腹のあたりを掴まれているようで、息がし辛い。でも息が出来ている。

 人の手が、自分を抱えなおした。お腹が下に来て黒猫は安堵を覚えたが、脚が地に着かないのはおちつかない。

 ヒトに抱きあげられて、河を渡っているのだろうか。それにしては、ちょっと水面が遠いようにおもう。

 黒猫は首を持ち上げて前をみた。毛織りのジャケットを羽織った青年の胸と顎あたりが見えた。

 後のアルルである。


******


「その前からずっとアルルだぞ、俺は」

「まぁ聞いてやれやアル坊」


******


 青年の顎の向こうに、切り立った山肌が迫るのがみえた。青年が体を立てると、速度が落ちる。山肌に生える細い木の枝を片手で掴んで、青年は山肌にとりついた。脚を別の枝にのせ、黒猫を左手で抱えて大きく息をついている。

 山肌の下では、濁った河が音を立ててうねっていた。河でなければ、飛び降りても何とかなりそうな高さに思えたけれど、先程の中洲はもう見えなかった。

 そのまま呼吸を整えて、青年はまた両腕で黒猫を抱えた。猫は自分の毛から水が染み出るのを感じた。

 枝を蹴って、泳ぐように青年が飛び出す。黒猫も理解した。今、空を飛んでいる。タカやワシみたいな大きな鳥がやるように、空を滑っている。高さがないのでけっこう怖いが、身を任せるしかない。

 自分を抱える腕に力が籠もった。ぐっ、ぐっ、ぐっと力がこもるたびに、少しずつ水面が離れた。羽ばたいた、のだろう。水面が離れると、また青年の息があがっているのがわかった。

 かわが途切れる。わたり切ったのだ。青年は左に旋回、黒猫はお腹の中身が右によれるような感じがして気持ち悪い。

 河沿いの道の上をなぞるように飛び、高度を落とし、また体をたてて減速。何度か羽ばたいて、着地。

 羽ばたく度に、ばすっ、ばすっ、と風が巻き起こった。


 ようやく地面に足がついた。ずいぶん久しぶりに四つ足で立った気がする。

 黒猫は何よりもまず、身体を振るって水気を飛ばした。それから空飛ぶ人へと向き直った。

 丈夫そうな生地のズボンに、毛織りのジャケット。生成りのシャツとジャケットが濡れているのは河の水だが、額から流れ落ちているのは汗だろう。大きく息をして青年はしゃがむと、まっすぐこちらを見た。ざっくり切られた黒い髪、浅黒く日焼けした肌に大きな目、黒目がちな瞳で、意外と睫毛が長かった。鼻がぺたんこでなければ、整った顔と言ってもまぁいいんじゃないか、と黒猫なりに思う。


「春先の河は急に増水するんだ。今度から気をつけろよ」


 と優しく言ってきたりする。


 ──いた! いた、いた!


 と心の中で声がする。

 うるさいなぁ。


 黒猫は、今度は猫のフリを忘れないように気をつけて、

「にゃー」

 と言った。猫好きにはにゃーと言うに限る。

 青年はなぜか怪訝な顔をしたが、黒猫の背中をなでて立ち上がった。道の脇にはいろいろ括り付けられている大きな背負い鞄と、長い木の杖、あと、なにかくしゃっとした布の塊がみえた。

 青年はまず布の塊を広げてバサっと土を払い、着こんだ。これまた丈夫そうなコートだった。その後「よいしょっと」と重そうに鞄を背負うと、最後に杖をとった。

「じゃ、元気でな」

 上流へと歩き出した青年をしばらく黒猫は眺めていたが、一度道脇の茂みに飛び込んで様子を伺いうと、やはり上流へと向けて歩き始めた。


 心の中ではまだ「いた!」と何かが告げている。

 なんだか落ち着かないので、黒猫は手近な茂みに身を隠し、毛を繕い始めた。


 あの茶色いヒト、なんだ?


 次いで、ガリガリと爪を研ぐ。落ち着かない時はこうするに限る。


 なんで、あたしの心がうるさくなるんだ?


 青年はずいぶんと歩くのが速くて、その背中は蛇行する道の遥か向こうにあった。


 ちょっと、もうちょっとだけ、こっそりついて行ってみようか。何があっても逃げられるぐらい離れていれば、どうってことないだろう。


 黒猫が、大きな「ぱーーーーん」という音を聞くのは翌日の宵の入り。

 その夜、黒猫はヨゾラになる。

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