6th.Bullet 小さな変化
高校生活二日目、鈴歌は珍しく妹より早く起床した。昨日の特訓が効いたのか、ゲームをログアウトしてからの記憶がない。ヘッドギアを外してすぐさま、ぐっすり深く眠っていたらしい。
ゆるゆると身支度を済ませ、気まぐれでいつもより早く家を出てみる。とっくに陽が出ており、いつもの登校と同じぐらい明るいが、制服姿はほとんど目にしない。
「んー……今日はいつもと違う道にしてみよっかな」
普段の通学路は市街地を歩いて行くだけなのだが、テキトーなところでいつもと違う方向へ曲がってみる。鈴歌はこういった小さな非日常が好きだった。近所であることに違いはないのに、時間と気持ちが少し変わるだけでいろいろな場所が目新しく映るのだ。
塀の上を歩く野良猫や旧型の赤いポストに目を奪われながら歩いていると、気付けば川沿いの並木道に出ていた。春先とあって桜が咲いており、花びらで彩られた道は一面が桃色に染められていた。
「おぉー! いかにもな四月って感じ!」
うきうきと心を躍らせ、川のゆるやかな流れに添うように道を行く。学校は進行方向にあるため、新しい学校への不安が和らいだ現状なら心置きなく新入生気分を味わえる。
しばらく歩いていると、思考は昨日の晩へ切り替わった。
(今日も練習するのかな。だったら早めにログインしてチュートリアルやっといた方がいいし……えっと、拳銃の持ち方って……)
立ち止まって、一旦脱力。
頭の中にある無数のタンスの中から、昨日の感覚を引き出す。パズルが組み合わさるように、体は自然と動いた。
「たしか……こうっ」
空想上の【P226】を手に、銃を構える。
「お、おぉ……? いい感じなのでは……!」
姿見があれば自画自賛をしたであろうほど、ちゃんとできた実感がある。足の角度など気になる場所はあるが、ディティールとして充分なレベルなのではなかろうか――――
「おぉー、拳銃だ!」
「うぇふっ!?」
快活に跳ねるゴムボールのような声に背を叩かれる。周囲に人がいないと油断し切っていたため、鈴歌は跳ねるほど驚いてしまった。
振り向くと、同じ高校の男子が二名。それも、顔に多く残る外傷手当の痕跡と無愛想なヘッドフォンが忘れがたい、あの遅刻コンビである。
「おはよう水元さん! 昨日遅刻しちゃったから早めにきたんだけど、ヒマだからロードワークしてるんだ! 桜が綺麗だから往復2キロ、何回も走れちゃうよね!」
「ぁ、あぅ、その……」
「あれ、名前違った? 橋本との二択で迷ったんだけど、そっちだった!?」
「……水橋さん、な」
「そっか! ホントごめんなさい!!」
こちらから挨拶する間もなく、鐘堂敬多は電光石火で謝罪し、またにこやかな口元を動かし始める。
「水橋さん、構え方の練習するってことはシューティングゲームやってるの? それかサバゲー?」
「えっ、と、あ、げ、ゲームで、その、き、昨日教わったので、練習を……」
「そっかぁ! 型の練習って大事だもんね。空手とか合気でも重要だったよ! あ、もしかしてゲームって――」
「敬多」
呼吸の隙間を刺すように、低音量の忠告が会話を遮る。
「さっさとしないと目標の距離走れねぇ」
「あ、そだった! 水橋さん、また教室でねーっ!」
敬多は肩越しに手を振りながら、鈴歌と重音を置き去りに走り去った。フォームは持久走のものだが、その速度たるや運動部のランニングを遥かに
「うっそぉ……」
「……あいつは自分のペースで喋るから、圧が強い。悪かった」
彼は真摯に頭を下げて
「…………」
「ど、どうされました……?」
「……おはよう」
「っ……ぉっ、おはようございます……」
ぎこちない挨拶が交わされると、重音はすぐに踵を返す。鈴歌も進む先は同じなのだが、さすがに彼のとなりで会話しながら登校する勇気はなかった。
が、心の奥にほわほわと溢れ出す感情がある。
「挨拶……した……」
わざわざ振り返ってまで。
挨拶は会話と礼儀の基本であり、小さなことだが、大切なことだ。声は低く、ダウナー気味で目つきは鋭い。だが、悪い人間ではないのだろう。鈴歌は容姿で怖がっていた認識を少し見直した。
「――それでも会話できるほどの人間パラメータはないのであった。わたしも二週目の主人公だったらいいのになぁ……」
と、ひとり教室の机で
だが、鈴歌はただでさえ受け身だ。家族と茜以外の人間にこちらから話しかけることもできないのに、趣味嗜好も知らない重音に話しかけるというのは、ヒノキの棒で後半ボスに挑むようなもの。そんな実況者向けの無謀縛りは絶対に科さない。というか言葉選び、話題提供の経験値が少なすぎて挑むことすらできそうにない。
自分の不甲斐なさに少し悩んでいた折、ぐっと肩に重みが加わる。
「おぁよぅぁぁお…………」
「ぉわ、びっくりしたぁ……亡者みたいな声してんね茜」
昨日の予想通り、茜は眠気に叩き潰されたまぶたで鈴歌におぶさる。あくびともため息ともわからない、濁点だらけの声が流れ出た。
「ぶあぁぁぁねみゅいぃぃいいいい…………」
「イベントどう?」
「いやぁ、マラソン終わらんねぇ……今日はいい感じの喫茶店探して、癒されながら地獄周回するわぁ……」
一緒に行こう、と死に体の親友は誘うが、鈴歌は申し訳なさを感じつつ断った。
「ごめんね、わたしも走らなきゃいけないからさ。主に森の中とかを……」
「おろ、すずがいべはしるなんてめずらしいぇ…………」
「茜? ホームルームまだだよ茜!? というか重たいんですけど茜!?」
五体投地の勢いで脱力する親友は完全に眠っている。
「おらー、ホームルームだぞー」
「起きて茜ぇぇぇぇ!」
◆
ホームルームを爆睡で終えた茜も放課後にはある程度の気力を取り戻していた。もちろん、授業と昼休みを睡眠に捧げたためである。
窓の戸締りも終わったがらんどうの教室では、ソーシャルゲームのタップ音と昼に摂り忘れたおにぎりを頬張る音だけが聞こえていた。
「んぐっ、っぷぁー。あーメシは美味いし、推しがてぇてぇ……ボーダー取ったから後は様子見ながらでもなんとかなりそう」
「明日からはちゃんと家で寝てよ? そんな勉強厳しくないらしいけど、やっぱり授業で寝るのはよくないし」
「やっぱスズはマジメだねー。ま、言う通りだから明日からはちゃんとしますとも」
だらだらと会話をしていると、少し古い型番の薄型スマホがアラームを鳴らす。茜は、「ヤベ」と青い顔で席を立った。
「部活見学忘れてた! ごめん、先帰ってていいから!」
返答も待たず、茜はバタバタと教室を出て行く。【Bullet's】の練習をしたいが、鞄も置きっぱなしのため、鈴歌は「待とうかな」と自分のスマートフォンを開く。
腕時計型や空中に表示されるホログラム型も主流になったが、現在も液晶型を利用するユーザーは多い。多くの理由は『物体として持っていないと安心できない』という類いだが、鈴歌の理由は『ストラップとかケースを推しで固めたいから』である。
手帳型のケースは魔法少女アニメに出てくるエンブレムが描かれており、ラバーやアクリルのアニメキャラクターがジャラジャラとひっついている。
「うーん、そろそろラバストのお掃除しようかな。あっ、新刊のお知らせ! 書店メールマジありがたや……」
独り言をそれなりの音量で発しながら、机に寝そべってネットの海を彷徨う。彼女にとっては幸せな時間なのだが、それは邪魔をするものがいなければの話。今朝の通り、鈴歌は余人の目に弱いのだ。
今期のアニメは何を見ようかと思案していると、ガラッと引き戸が開く。驚いた鈴歌は思わず「ぴッ!?」と奇声を発して背筋を伸ばす。
「…………」
扉を開けた人物は何も言わず、鈴歌のとなりに腰を下ろした。そこが彼の席なのだから、当然である。遠野重音は相変わらずヘッドフォンを装着し、何も言わない。ただ静かに、そこにいる。
(あ、あばばばば……どうしよう。か、帰る? いやでもそんなことしたら『自分が来たせいで帰った』と不快にさせちゃうかも。で、でも逆に『なんでまだ居座るんだよ。よそ行けよ』って思われてるかも……どうしよう……!?)
気にし過ぎて思考に
「……悪い」
小さく聞こえた声は、勘違いや幻聴でないなら遠野重音のものだ。恐る恐る、右を見ると、彼もこちらを向いていた。目は口程に物を言う、とはよく言ったモノで、相変わらず無愛想な表情の中、切れ長の瞳がどこか申し訳なさそうに
彼はその三文字以上何も言わず、鞄を肩に掛けて教室を出ようとした。
「ま、待っ!」
鈴歌はなんとか重音を引き止める。彼女の表情は青ざめ、酷く切羽詰まっていた。脳裏に過るのは、数年前の黒い記憶。
――気に入らない。
冷酷で無遠慮な声が、水たまりの澱みを掬ったように心を濁らせる。首筋の血流が収縮するのがわかった。腹の底がぐるぐると
「なっ、何かご迷惑かけましたか? わたし、また気に入らないことしたんですか? ぁっ、は、ぁ……ご、ごめんなさいっ、帰ります! ごめんなさいっ!」
整理できていない言葉を一息に並べ、呼吸が乱れた鈴歌が鞄を持って廊下へ出ようと――もとい、逃げ出そうとした。すると、重音は鈴歌の手を掴んだ。
(あ、ダメ、だ)
冷たい手首に感じる握力から、波紋のように恐怖が広がる。唇がキュッと締まり、額から脂汗が溢れた。心臓がどこにあるのかわからなくなるほど、拍動が巨大になる。前後不覚寸前にまで追い込まれた心身がしぼり出した精一杯の行動は、消え入るような謝罪だけだった。
「ご、ごめん、なさ……」
「……息、大きく」
混濁した頭の理解が遅れ、虚を
「口開けて、こっちの息とリズム合わせて」
「ぇ、は、い……」
二度、三度と生まれたての雛のように重音の行動を
「顔色、少しマシになった。手、掴んでごめん……よくわからないけど、大丈夫?」
「ぅぁ、あ、ありがとうございます。じゃ、じゃあ出ます! ご迷惑おかけしましたっ!」
「いや、別にそっちが出る必要ない」
「だって、その……迷惑かける、のが……」
「迷惑とかは違う。……水橋が変に緊張してたから、それは申し訳ないって思っただけで」
「え……あの、わたしに気を遣う必要なんて……」
「…………」
重音は何かを言おうとして、口を閉ざした。
(あ、あああああああああ、言葉間違えた!? ヤバい、また頭が……)
そのまま気まずい沈黙が流れ、数秒後。
「おまた! ……あれ、どういう状況?」
教室へと滑り込んできた敬多が疑問符を浮かべる。
「別に。……気にしなくていいから。また明日」
「じゃーね、水橋さん!」
「あ、え……はい……」
小学生のような勢いで手を振る敬多に対し、重音は会釈とも取れないことはない、微妙な相槌をして帰った。その直後、入れ替わりで茜が戻ってくる。
「いまの、遅刻コンビだよね。大丈夫だった?」
「うん…………茜」
「ん?」
「わたし、前よりはマシになってるかなぁ……」
彼女の親友は目を
「過呼吸はあんまり出なくなったし、だいぶ良くなったって思うけど、いま何があったか見てない以上は
「ううん。大丈夫……ありがと」
茜は前向きだ。運動も好きで、アニメも好き。必要な限り距離を詰め、必要以上に踏み込まない。どんな人種とでも友人関係を築ける、素晴らしいバランス感覚の持ち主。
言い換えればそれは深い関係を作らないということであり、表層の薄い関係が交わす会話は相手の主観に合わせたものが多くなる。人間とは自分の思うままに話せる会話が快適であり、価値観を合わせれば当たり障りのないキャッチボールができるからだ。
その法則を理解している人間が己の主観や一歩引いた俯瞰を語る相手というのはかなり限られる。例えるならば、家族や親友などの気の置けない存在。会話というコミュニケーションに必要な情報以上を互いに知っている相手。
その必要以上に深く歩み寄った相手が、茜にとっては鈴歌なのだと、他ならぬ鈴歌自身がわかっている。親友だからこそ、下す評価は公正無私なのだと知っている。
(もっとちゃんとしなくちゃ……早く、普通の人にならなくちゃ……)
唇を噛む悲壮さを心の中に隠し、鈴歌はさも『平気』であるかのように装い、笑うのだった。
◆
車通りも少ない川沿いを歩く帰路で、その疑問は投げかけられた。
「重音、最近は大丈夫?」
「あ?」
低い声で疑問の相槌を返す。仲間内では定着しているが、他人から見れば機嫌が悪いように見えるらしい。気を付けてはいるが、無意識の癖は中々抜けない。反省対象だ。
敬多が心配している問題については、すぐに何のことかわかった。
「あぁ、別に。一人で
「そっか。ならよかった! 最近、俺も志貴もログインできてないからさ。学校のストレスとかあったら、解消しきれてないかもなーって」
「まあ、張り合いは……あーいや、そうだな。お前らと団体戦したいってのはあるが、他の楽しみもある」
「マジか! なんだろ……あ、サーが昨日爆薬祭りで資金難ってぼやいてたから、それか!」
「巻き込まれはしたけどちげーよ」
ため息で
何かを教えるには
「慣れねぇことやってるけど、けっこう楽しいぜ」
「ふーん……なんか、いい顔してるね! で、何してんの?」
「何って……まあ、いろいろ」
「教えないつもりだなぁー? いいよ、たぶん志貴はお見通しだし」
「どーだか――……ッ」
頭に鋭い痛みが走り、その場にうずくまった。耳の奥が痛む。遠雷のような音が高速で近付いてくる。更なる痛みに耐えるため、イヤーマフで耳を圧迫し、息を止めた。
数秒後、中型バイクが異常な排気音と共に真横を通過し、遠方へと消えていった。規制がいくら厳しくなっても、排気音の大きさをステータスと勘違いしている阿呆は絶えない。頭に居座るジンジンとした
「大丈夫?」
「おう……クソッ、どうしても爆音響かせてぇならVRでレースでもやれって話だ」
敬多は心もとなげに少し曲がった背中を擦る。心配させまいと悪態をついてみたが、やはり苦痛の歪みが顔に出ていたらしい。
「どうしようもないけど……やっぱつらいよね、聴覚過敏」
電車の走行音、乗用車のエンジン、人の足音、話し声……現実世界は雑音に溢れている。常人なら気にしないような生活音すら、重音の耳には我慢しがたい苦痛として届いてしまう。学校には説明して、遮音イヤーマフを常用する許可を得た。見た目がヘッドフォンと似ているからか、生活指導には嫌な顔をされたが。
「……これからも付き合ってくしかねぇさ。まともに生活できるだけマシと思うしかねぇだろ」
「たしかに街中は仕方ないけどさー……やっぱり、クラスには言った方がいいんじゃない? シャーペンのカチカチ音とかでもキツかったりするでしょ」
「……それはいいんだよ。心配すんな」
聴覚過敏を同級生に伝えるつもりはない。静かになった空間でも、次から次へ雑音は現れる。幸い、教室での雑音はイヤーマフで緩和できる範囲内だ。伝えて気を遣わせるのも忍びないし、言わぬが花だ。
…………いや、違う。
本当は、雑音なんかよりも無駄に気を遣われるのが嫌なのだ。『聴覚過敏なので気を遣ってください』などと言い出した暁には、もれなく腫物扱いと陰口がついてくる。だったらヘッドフォンと勘違いされたままでいる方がいい。
――ふと、水橋鈴歌の手を握った瞬間を思い出した。
指先に早すぎる脈が伝わり、イヤーマフを外さなくても呼吸が浅く乱れているのが聴こえた。顔色は青く、体の芯から震え、何かに怯えていた。
彼女はどうしてあんなにも
(だからって、変えられねぇけどな)
少年は本音を隠したまま、おもむろに液晶型の携帯端末をポケットから取り出した。
「そろそろ時間だろ。じゃ、また明日な」
「……うん。また明日!」
踵を返し、街の中心地へ向けてランニングを始めた敬多を見送り、重音は端末に指を滑らせる。緩やかに作成されたのは、一通のメール。
『件名:今日
宛先:Suzuka0214
悪い、今日は予定がある。次の練習に都合がいい日を返信しといてくれ。
エコー』
「この気分切り替えねぇと、モノ教えるなんてできねぇわな……悪い、スズカ」
不意に関わりを持った同級生と、あわてんぼうな教え子。同じ名前の双方に謝罪の念を込め、遠野重音は送信をタップした。
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