呼び名
もちろん僕も、初めから夏菜子のことを、下の名前で呼び捨てにしていた訳ではない。
その必要がある時には、苗字に「さん」をつけて、「〇〇さん」というように呼んでいた。
しかし学生時代彼女がみんなに「夏菜子ちゃん」と呼ばれていたのを知っていたから、心の中では常にその例に習っていた。
だから、彼女の名前をいざ呼ぼうとすると、心の中を偽るような後ろめたい気になって、なるべくなら名前を呼びかけないで済むように、主語が曖昧で不自然な話し方になりがちだった。
それに対して夏菜子は僕のことを、その必要がなさそうな時でも、「鳴海くん」としっかり呼ぶのが常だった。
「鳴海くん、あのね」
「鳴海くんはさぁ、...」
「鳴海くん、おはよう」
僕の名前が入っているところだけ、一文字ずつを慈しむような、味わうような言い方で、それを聞くたび僕は、くすぐったいような嬉しいような、甘酸っぱい気持ちに捉われた。
夏菜子と付き合うことになって、呼び名をどうしようかと2人で考えた時にも、
「鳴海くん、私は『鳴海くん』って呼んでいい?」
と、1つの文章に二重に僕の名が入っていた。
そんな時にも、2つあるどちらの「鳴海くん」も、かけがえのない大事な人の名前だというように、感動を込めた声で呼んでくれた夏菜子。
あの声はどこへいってしまったのだろう。
音は遠くまで、遠くまで伝わって聞こえなくなっていく。
けれども一度発せられたものが、減衰するにせよ失くなるということが、本当にあるのだろうか。
この世に超高性能の耳を持つ人がいたとしたら、小さく小さくなったあの時の声を、他の雑多な音の中から聞き分けることができるのではないか。
「鳴海くん」と。
夏菜子にそうしてと言われて、はじめて彼女を呼び捨てにした時の気持ちを、僕は忘れることができない。
再会から付き合い出すまでの数ヶ月間、「夏菜子ちゃん」と声に出して呼んでみたい、と心がずっと叫んでいた気がする。
口が心を裏切って、「〇〇さん」と発言する度に、気のある相手をちゃん付けで呼ぶことさえできない僕の口を、心が責め続けた。
そのように責めながらも心は、それは口のせいではなくて、勇気のない自分のせいだと分かっていた。
ところが、突然口が、相手の許可を得たのをいいことに、
「夏菜子」
と呼び捨てにし始めたのだ。
心は一足飛びのその変化に、戸惑い踊りだしそうで、けれども大事に育んできた「夏菜子ちゃん」への思いはどこに行くのか、という複雑な気持ちになったに違いない。
だから僕が彼女のことを
「夏菜子」
と呼ぶ時には、大きな心の揺れが伴った。
庭に植えて大事に育てた花を、自分の手で踏み荒らしてしまったような切なさ。
その切なさを繕い切れずに、自然に声のトーンが震えを帯びるのだった。
バグダッド・カフェ Nashirah(ナシラ) @nashirah
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