夏菜子

間近に人の気配を感じて振り向くと、メイドカフェの店員のような制服を着たウエイトレスが、ホットコーヒーの乗ったお盆を持って立っていた。

学生のバイトのような、スタイルよく顔立ちも整ったそのウェイトレスは、可愛いというよりは、何かアンドロイドのような無機質なものを思わせた。

「お待たせしました」

とお辞儀をする彼女を見るともなく眺めながら、肘が90度に曲がり、両手の指が全部伸びて前ならえの形になっている姿を一瞬想像してしまった。


湯気の立ったコーヒーは、僕好みの香りを放っている。

ソーサーに小さなクッキーが添えてあるのを見た途端、思い出したように強い空腹感を覚えた。

そういえば、今日は外出の途中でコンビニのサンドイッチをつまんだだけで、ろくな昼食を取っていない。

もう夜の7時を回っているから、そろそろしっかりした夕食を摂ってもいい頃だった。


とりあえず小腹を満たそう、とクッキーに手を伸ばしかけた時、「ごゆっくりどうぞ」と言いおいて下がったウェイトレスと入れ違いに、僕の席に女性が近づいて来た。



「鳴海くん」


よく通るその声は、まるで僕の頭の中で鳴っているかのように、はっきりと僕に届いた。

歌声もその高さだとすれば、メゾソプラノぐらいか。

高すぎず低すぎず、心地よい響きで、何気なく呼びかけられた自分の名前までもが、どこか愛らしく、貴重なもののように思えた。


その声を発しながら、僕の前の席に腰を下ろそうとしている夏菜子は、初夏らしいざっくりした白いサマーセーターにジーンズという、仕事帰りにしてはかなりラフな格好だった。

新米社会人として、紺の堅苦しいリクルートスーツに縞柄のネクタイを締めた僕とは、対照的な雰囲気だ。

肩につかない程度に切りそろえた髪が、椅子に座る時につややかに揺れた。



「ごめんね、お待たせしたんでしょ」

と言う夏菜子だが、彼女にしても待ち合わせの時間の15分前に着いたのだ。

「いや、全然」

と、弁解のようにごにょごにょした感じで言葉を発してみると、それは小さいけれど歯切れがよく、音楽的な夏菜子の発音に比べると、随分と稚拙に響いた。


僕の前に現れた現実の夏菜子は、学生時代の印象よりもさらに細っそりとしているようだった。

ゆったりしたサマーセーターが、ボートネックになっていて、肩が落ちるようなデザインだったため、余計にそう見えたのかもしれない。



僕たちがひとしきり、時候の挨拶のようなたわいない会話をしている間に、さっきのウェイトレスが夏菜子の注文を取りにやってきた。


「同じの下さい」

と彼女は言って、僕の方に向き直ると、

「すごくいい香り。それにクッキー、お腹が空いてるからおいしそう」

と言った。


聞けば彼女も、今日は昼食もそこそこに仕事をしていたのだという。

僕たちは建築学部に籍を置いていたのだが、夏菜子はデザイン科を卒業後、デザイン事務所に就職をし、帰宅時間は好きに決められるものの、みんなが取り掛かっている仕事に没頭しはじめると、食べるのもトイレに立つ時間ももったいないという空気になってしまう、というのだ。


「仕事帰りなのにこんな格好なのもそういうわけなの。デザイナーの自由な感性を束縛しないためみたいなんだけど、自由なおしゃれをするというより、仕事しやすくて楽な格好で来る人の方が多いのよ」

「僕はゼネコンの設計部に配属されて、いつもこんな格好。ローテーションが持たないから、たまに就活の時のスーツを着てるんだけど、なんか悪い思い出が蘇るかんじ」


大変だったからね、と苦笑する僕に夏菜子は、鈴が鳴るような涼しげな声で、テレビの中のコメディアンが面白いことを言った時みたいに、ころころと笑った。

いや、彼女がテレビのお笑い番組をみてどんな風に笑うのか、その時の僕は知らない。

でも少なくとも、僕の話術もまんざらではない、と勘違いしてしまいそうなぐらい、楽しそうな声だった。


僕は多分それに勢いを得たのだろう、

「よかったら僕のクッキー先に食べてよ」

と、自分のお腹に入るはずだったクッキーを夏菜子に勧めてみた。

普段の僕からするとぎりぎり一杯ぐらいのレベルのスマートさを、ほぼ努力せず装いながらそう言えたのだ。


だが、

「私のももうすぐ来そうだから...」

と夏菜子が少し迷ううち、あろうことか僕のお腹が、長時間に渡る不当な扱いに、ついに反抗の声を上げた。


ぐーーっ(大きくてよく響く音)


少し間を置いて、


きゅーん(子犬が甘える鳴き声のような音)


「...」


両名、沈黙。


普段だったら、穴があったら入りたいと、うろたえるしかないところだ。

しかしその後に続いたのは、自分でも不思議なことに、夏菜子のメゾソプラノと僕のバリトンが奇妙に調和した、笑いの渦だった。


夏菜子がおかしそうに、

「ああ...人に、人に、勧めておいて...」

と、身体をよじって笑うので、僕も笑いが止まらなくなり、

「恥ずかしい...でも可笑しい...」

と、2人でしばし、切れ切れに言葉を発しながら笑った。


少し気を取り直してから僕は、いつもの僕には似合わぬ潔さで、

「この後もし時間があるなら、一緒に夕飯食べよう」

と言った。

夏菜子はなおも笑いを引きずったような顔で、声を殺して小さく首を縦に振った。



まもなく夏菜子が注文した分のコーヒーがやってきて、それぞれにクッキーをかじったのだが、食べながらも小さな泡のように、先ほどの笑いが底の方でフツフツと湧いているようだった。

夏菜子は笑いを噛み締めるような、わざとらしい真面目さで黙々とクッキーを噛み締めていた。

その気配を感じながら、僕も先ほどの爆笑の奔流に引き戻されないよう、下を向いて自分の分を食べた。



そしてくだんの「変顔」写真が登場した時、一旦は押し殺されたその笑いが一気に沸騰し、大爆笑へと変わった。


卒業式典の後、写真を撮った時のことを思い返せば、澄まして写真に収まろうとしていた僕を取り囲んでいた周りの奴らが、「変顔しようぜ!」と言い出したのだった。

ところが、シャッターが切られた瞬間、1番変な顔をしていたのは、思い切った変顔を作った周りの奴らではなく、変顔へのシフトがいまいち間に合わなかった僕だった。


鼻の下は伸び切り、目は半開きで、輪郭はムンクの絵のように歪んでいる。

そんな中、完全に変顔シフトに取り残された右手が、かなり端正な感じでピンと立ったピースサインを出している。


写真を見せながら夏菜子が、

「こんな変な顔して、何がピースじゃあ」

と、僕の意表をつくような言い方をして笑うので、僕たちはまた、拷問にも似た笑いの渦の中でのたうち回るはめになった。



夏菜子が僕に会って写真を手渡す決意をしたのは、この変な顔を本人に見せる目的もあったが、

「鳴海くんってどんな人だっけ」

と、確認したいためもあったのだそうだ。


僕は人並み以上にハンサムなんていうタイプでは全くないのだが、確かにこの顔は酷すぎる。原型をとどめていない。

それを夏菜子に伝えると、

「だよねー、いくら何でもこれは」

と、また明るく笑った。



店のレジに立った、アンドロイドのようなウエイトレスにお会計をしてもらうと、僕たち2人は前後になって店を出た。

レジが置いてあるカウンターの向こうで、白シャツに黒ネクタイの、いかにも年季の入ったバリスタという風格の男性が、ありがとうございました、と目で言いながら、こちらを見て小さく頷いた。


先を行く夏菜子が振り向いて、

「コーヒーすごくおいしかったね、ご馳走さま」

と言った。

「私の好きな味だった。ここのコーヒー、飲みたいと思いながら機会がなかったんだけど、こんな美味しいなんてね。

鳴海くんと待ち合わせしたお陰だね」

僕は、待ち合わせの場所を指定したのは夏菜子だから、全然自分の手柄になっていないのだが、夏菜子がそんな風に喜んでくれて心から嬉しかった。



駅構内に出てきた僕たちは、時間が止まったようなカフェの雰囲気を薄いオーラのように纏って、多分足早に行き交う人々からは、浮き上がって見えるような異質な存在だったろう。

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