バグダッド・カフェ

Nashirah(ナシラ)

はじまりの場所

夏菜子が死んだ。


僕にとっては眩しいほどに美しく、その存在が奇跡のようで信じられなくて、彼女が視界に入ると、いつもはっとして二度見した。

夏の汗ばんだ首筋に心地よく吹きつける風ののように、爽やかな笑顔が僕を癒してくれた。

こんな女性が僕と結婚し、一緒にいてくれる幸せを、何度噛み締めたことだろう。


彼女が病に侵されていることが分かり、そしてあっという間に死神にさらわれてしまうまで、たったの6ヶ月だった。

しかもその6ヶ月間、どんどん痩せていく彼女を少し変に思いつつも、妻が死にゆく身だと僕が知ったのは、その最後の2週間ほどだった。


仕事が忙しくて、と言う妻に、僕はすっかり騙されて、帰宅が遅いのも最近痩せてきたのも、すべてそのせいなんだと思っていた。

けれど、振り返って考えてみると、彼女は日中に仕事を抜けて、病院に通っていたのだろう。

仕事の帰りが遅かったのは、夜の時間にその分の穴埋めをしていたのだろう。



「鳴海くん」と、結婚しても彼女は、僕を上の名前で呼んだ。

学生時代に知り合って、付き合い出したのは卒業してちょっとしてから。

お互いが社会人になって数ヶ月、卒業式に撮った写真を渡したいから、と夏菜子の方が電話で連絡してきた。

「鳴海くんの変顔、本人に見せたくて」

いたずらっぽいその声は、僕の思っていた控えめな夏菜子のイメージと結びつかず、耳の奥がくすぐられた感じがして、僕は軽く首をすくめた。


2回生までクラスメイトだったとは言え、その後の大学生活で、2人にそれほどの接点はなかった。

顔を合わせれば挨拶をする、知り合いという程度の存在で、卒業式で写真を撮ったのも、同じクラスのよしみで、多くの友人たちと集合写真を撮ったというだけのこと。

しかもカメラマンを引き受けた夏菜子は、代わりに撮ってあげると声を掛けたクラスメイトの1人に首を振り、私はいい、と小さいがはっきりした声で答えた。


他のクラスメイトにはメールで送ったが、僕のところに送ったものはなぜか戻ってきた。だから現像したものを直接渡す、ということだった。

確かにその頃、他の人々とのやり取りでも、そういうことが頻発していて、辟易していたところだった。


変顔、と聞いて、それなら別に欲しくもないと答えるところだったが、思い直した。

受話器の向こうから聞こえてくる夏菜子の、小さいが意志の強そうな声が妙に懐かしく、この声の主の存在をもう一度感じてみたい——自分でもその時のことは思い出せず、言葉にするのは難しいのだが、多分そんな風に思ったのだ。



仕事帰りに、夏菜子の勤める会社の最寄り駅の構内にある、静かなカフェで待ち合わせた。

そこは夏菜子が指定した場所だったが、ガラスの向こうを行き来する通勤帰りの人々はやけに忙しそうなのに、店内だけしっとりと時間が止まったような、不思議なカフェだった。


茶色やこげ茶、ワイン色がベースの、いささか重厚な内装だが、時代遅れの感はない。

店内に人はまばらで、駅の改札からたくさんの人が吐き出され、切符売り場に多くの列ができている様とは対照的だった。

もしかしたらこの少し高級感のある感じが、敷居の高さを連想させ、忙しげに行き交う人々が横目で見るだけで通り過ぎる原因なのかもしれなかった。

あるいは、彼らは単に忙しく、腰を落ち着けてお茶を飲んでいる暇はない、と思っているのか。


先に入ってコーヒーを注文し、駅構内に面したガラスの壁際の席に座った僕は、ゆったりと落ち着いた気分を味わいながら、日頃は自分もあの外側の人たちと同じなんだよな、と考えて苦笑した。

そして夏菜子のことを考えた。

彼女がどんな女性だったかを。



中背ながらすらりとした体型、大人しそうでいて目の光は生き生きした顔立ち、小さいのにはっきりとよく通る声。

夏菜子のことを1つ1つ考えてみると、最初の控えめなイメージを払拭する長所が、必ず浮かぶのだということに思い当たった。


その性格も、控えめだが消極的なわけではなく、むしろ責任感が強かったような。

むろん、その頃は夏菜子の中身をよく知っているわけではなかったから、その感想は推測の域を出なかったが。



ふいに、ガラスの向こうを、レモンイエローにグリーンの混じったワンピース姿の女性が通り過ぎた。

吹き抜ける一陣の風を見たような、そこだけが光って周りから浮き立っていたような、奇妙な感じがした。


しかし、その驚きがよぎったのは、ほんの一瞬のことだったので、僕はすぐにまったりとした人間観察モードに戻った。

待ち合わせの時間までは、まだ20分ほど間があったからだ。


そして学生、特に同じクラスだった1・2回生だった時の夏菜子がどんな女の子だったのか、思い出す作業に没頭した。

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