後編
「あのさ宮野さん、この場所、ここは夜になると猫が集まるんだ」
その蟠りを腹に抱いたまま歩き続けていると、いつしか住宅街の外れ、以前には家が建っていたらしき空き地に辿り着いていた。周囲には雑草が生い茂り、家があった頃の名残なのか庭石のようなものがいくつか見える。
そこに猫の姿がある。
白黒が一匹と灰色の縞が一匹、同色のもう少し小さいのが一匹。白黒の方は首輪をしていたから、ここに集まる猫は野良猫ばかりではないようだった。
「黒猫はいないみたいだ」
空き地を見渡した彼の言葉に、頷いて返す。
この場所はここで過ごす猫達にとっていい環境なのか、今いる三匹は心置きなくくつろいでいた。いつも彼らがこのように集っているなら、近所の人達も猫がいることを悪い方に思っていないのかもしれない。しかしこの場所にも、自分が探す猫の姿は見えなかった。落胆が足元に落ちそうになるが、住宅街で一人で突っ立っていた時より進捗はしているはずだった。
「宮野さん、次の場所」
「あ、ああそうだな……ありがとう、行ってみよう」
空き地にぼんやり立つ自分に、少年はぶっきらぼうに告げる。でもその顔に少し不安が見えた。けれどもそれは彼が不安に思っているからではなく、こちらが不安な表情をしていたからなのだと思う。
ルカを見つけたい。
強くそう思っている。やり方が分からず曖昧で茫洋としていたあの時から、そう思っている。しかしその見つけたい思いの中に、自分でも分からない別の感情がある。
起きているのに眠っている。自分の頭の中のどこかが、そんな感じであるような気がしていた。
「宮野さんて、普段は何してる人?」
猫の集い場を出て歩き始めると、少年が訊ねていた。
頭上の陽は翳りを濃くし、夕刻の気配も増して、先程の不安も心の底で蘇る。
それを払拭して、隣を歩く少年に答えた。
「リサイクルショップの店員だよ。ほら、君の通ってる高校の近くにオレンジ色の看板の古い店があるだろ? あそこで働いてる」
「ああ、そこなら知ってる。入り口の横にでっかくて渋い熊の置物がある店」
「そうそう、その店。あの熊、店長が仕入れてきたんだけど、一体どこでどう手に入れたのか、その思惑も買い付け値も俺には未だに謎だよ。それにみんなのご想像どおり、当然未だに売れる気配は全くない」
「うん、分かる。でもあれ、いい目印にはなってるよ。友達の間では熊の店って呼んで、たまに待ち合わせ場所に使ってる。女子の間では口に手を入れて、奥の牙に
そう告げた少年の顔に初めて微か笑みが浮かぶ。笑うと少し幼く見えて、可愛らしくも見える。
隣を歩く少年はぶっきらぼうだが、見かけや表面的な言動と違って意外と世話好きで、多分優しい。いや、見ず知らずの人間の猫探しを進んで手助けしてくれるくらいだから、きっと多分ではないのだろう。
誰もいない住宅街の通りで、彼が戻るかどうか考えていたことは、もう遠いことのように思える。実際は半日も経っていないことだが、彼と他愛ない話をしながら歩いていると、先程の意味不明な鬱々とした気分も僅か晴れる。
空き地を出て、今度は住宅街の外を巡り、町の中心を流れる川の
川は大きなと言うほどではないが、小さなと呼ぶものでもない。
両岸には背の高い草が群生していて、川と岸の境目も分からない。流れの速い水面を覗き込もうとして、「危ないよ」と少年に止められた。
「宮野さん」
「何? 永原君」
川の急流を見ていると、不安がまた蘇ろうとしていた。川底の見えない流れは、大事なものを失くしてしまったような感情を呼び覚ます。
冷たい風が吹いて、川辺の草を大きく揺らす。
少年の声が背後から届いた。
「もし、探してる猫が死んでたら、もう一度蘇って戻ってきてほしいと思う?」
「え?」
思いがけない質問だった。
ルカが死んでしまっているとは今も思っていないし、思いたくもない。でもその可能性は皆無ではない。しかし蘇って戻ってきてほしいとは思わなかった。シロが死んだ時、あの時も戻ってきてほしいとは思わなかった。それは二度と繰り返したくない生前の病気が大変だったからではなく、死んでしまったものは死んでしまったものだからだ。
戻ってきてほしいと願うことは罪ではない。けれど本当にそんなことがあったとしたら、それはいいことなのだろうか。
過ぎた時間は決して元には戻らないし、生きているものには必ず終わりが来る。だから人も猫も限られた日々の中をできるだけ精一杯生きている。
「いいや、起きた事実はもう変えられない。その望みが自分の中に全くないとは言わないけど、それは多分誰のためにもならない」
再び冷たい風が吹いて川辺の雑草と少年の髪を掻き乱す。
背後の少年は今の言葉を納得したような、全てを受け取ったような表情でその場に立っていた。
「宮野さん、もう一度、さっきのあの空き地に行ってみようか」
少年の言葉が川風と共に届いた。
それに頷いて笑みを見せると、彼も微か笑みを見せる。それを真正面から見届けると、少年が戻った時のような安堵を再び感じて、なんだかよく分からなくても何か正解を手にした気がして、これでいいような気がしていた。
歩みが遅かったのか、空き地に着いた時は陽がかなり陰っていた。
猫の数は増えている。
でも昼と夕闇の間にいるせいか視界が曇って、猫達の姿をよく捉えることができない。
しかしその中でも覚えのある黒い毛色を見つけることができた。
あの青い首輪。
一緒に住んで七年になる
「ルカ」
呼びかけると一度辺りを見回して、ルカはこちらを見る。
空き地の雑草を踏んで近づく黒猫に、自分からも歩み寄る。
地面に跪き、傍にいる相手を抱き上げようとするが、その時に気づく。
ルカを抱き上げることはできない。
自分は実体を持ってはいない。もうこの世に生きてはおらず、『こちら側』で猫を探したいと強く思っているだけの思念だった。
けれども本当はもうそれに気づいていた気もする。
それにもう心残りはない。
少年の助けでルカを見つけることができた。傷心していた滋は、きっとこれで元気を取り戻すだろう。そう思いながら隣の少年を見上げると、彼は予測どおり少し困ったような微妙な表情をした。
「分かってるよ。猫は俺が捕まえて、宮野さんの家に連れていく」
「悪いね、永原君」
彼は初めから分かっていたのだろう。
なぜ自分に声をかけてきたのか、猫探しを手伝ってくれたのか、それを知ることはないが、別に構わなかった。彼は自分が何であるかを知った上で、手助けをしてくれた。それでよかった。
「それじゃ、頼むよ永原君」
「分かったよ宮野さん。さよなら」
「うん、さよなら」
そう告げた先にあったのは何もない白い世界。それを見るのは二度目の気もするが、『あちら側』にはもう戻らない。
終わってしまったことは悲しいが、何にでも終わりは来る。
これから行く場所ではシロに会えるかな。
それじゃ、またいつかどこかで。
******
奇妙な昼下がりの最後は、見知らぬ人を訪ねることで終わった。
キャリーバッグの中の黒猫。訪ねたアパートの住人で黒猫の飼い主でもある人物は、
猫を手渡すと無論その理由、(彼自身他に向けた猫探しの行動をまだ起こしていなかったため)なぜここに連れてくることができたのかを訊ねられた。しかしその辺りはいつものことと慣れた手管で適当にごまかしてすぐに帰るつもりだったが、彼に引き留められ、夕暮れになってもまだ自分はアパートにいた。
二人暮らしにはちょうどいい広さの部屋の片隅には、先程まで一緒にいた男の遺影と花が飾られている。彼は一ヶ月と少し前に胃癌で亡くなったそうだ。
今目の前にいるのは彼の同居人であり、恐らく恋人だった。彼が死に、まだそれほど経っていないが、闘病期間もあったせいなのかいくらか落ち着いているようにも見える。でも人の内面は外側からは分からない。帰ってきた飼い猫を抱いて何かを堪えるような姿を見ていると、『彼』がここに戻ってしまった理由が分かる。
「本当にありがとう、永原君。どう感謝していいか」
「いえ、お礼を言われるほどのことはしていないので」
死んだ人が見えるというあまりありがたくもない特性が自分にはあるが、子供の頃からであるのでもう慣れている。
見過ごしていいものまで首を突っ込んで関わってしまうことには、溜息が出ることもあるが、何もなかったことにして全てを断じてしまえば、それはそれで違うという思いがある。関わり続けることに危惧はある。でも今日のようなことがあれば、また彼岸と現実の境を綱渡りしてしまうかもしれない。
「永原君、お茶のおかわり、どう?」
「あ、はい、いただきます」
隣室に向かう背を目で追うと、床に降りた黒猫も見ている。
まだ身近な死というものを自分は味わったことがない。いくつもの死を見てきたが、死そのものに対しては、まだ漠然としている。しかしその先にあるものが安らかであればいいと思う。残された人もそう願いつつ、これからも続く現実を生きていく、そうあればいいと思う。なんとなくそう思いながら「な」と隣に声をかけると、こちらを見上げた黒猫がニャァと鳴いた。
〈了〉
曇り、猫、帰る。 長谷川昏 @sino4no69
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