第60話 超人

 リックは本部長室の中に入り、ゆっくりとヘンリーに歩み寄る。

 その姿を見て張り詰めていたものが切れたのか、ヘンリーの体から力が抜けた。


「おっと」


 リックは素早く駆け寄り、そのヘンリーの体を支えた。


「なっ!?」


 その一連の動作を見て驚いたのはクライン本部長である。

 部屋の入り口からヘンリーのいる奥の壁の前まで、部屋の端から端まで15メートルの距離を一瞬にして、たった一歩で移動したのである。摩擦力を支配して行う自分の動きにそっくりの現象であった。

 リックはそんなクライン本部長の反応を他所に、自分の腕に力なくもたれかかる勇敢な少年に向けて言う。


「ボロボロだな、ヘンリー」


「すい……ません。模擬戦の時みたいに……また、助けてもらっちゃって……」


 ヘンリーは息も絶え絶えになりながらそういうと。


「……でも」


 スッと顔を上げて、右こぶしを握ってこう言った。


「一発はいいの入れてやりましたよ。リックさんから教えてもらったあの技で」


 ヘンリーは誇らしげな笑顔と共にそう言った。

 それを見てリックは頷く。


 ……そうか、この少年も。


 踏み出せたんだな、あの時の自分のように。たった一歩を、はじめの一歩を。

 それは、実は一番大事で一番難しいことだから。

 リックはヘンリーの握った拳に自分の拳をコツンと当てて言う。


「かっこよかったぞ、ヘンリー」


「……っ、はい!!」


 ヘンリーの瞳から熱い涙が滲み出した。


「アルク、ポーションだ。ヘンリーに飲ませてやってくれ」


「ええ、分かったわ」


 リックはヘンリーをアルクの隣に座らせる。


「さて」


 クライン本部長の方を向いた。


「自分を信じてくれてる生徒を騙して誘拐して小遣い稼ぎとは、狡い野郎め。ペディック教官の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぜ……覚悟はできてるだろうな?」


「ふん。何を強気になっているのやら。先ほどはそこのガキに油断して一撃もらいましたが、私が特等騎士であることは変わりませんよお。何より、アナタにとって私の固有スキルは天敵」


 そう、リックの基本は圧倒的な体力と身体操作による物理攻撃である。

 つまり、クライン本部長の固有スキル『摩擦支配』と恐ろしく相性が悪い。先ほどはヘンリーに意表を突かれた形になったが、クライン本部長は紛れもない特等騎士。超一流の戦闘技能を持った騎士である。そう何度も奇襲が通じる相手ではない。

 クライン本部長は先ほど落とした剣を拾い上げると上段に構える。


「死に晒すがいい、『摩擦支配』プラス!!」


 クライン本部長の靴底と床の摩擦力が跳ね上がった。

 強化されたの靴と床の摩擦はロスなく蹴る力をクライン本部長の体に伝え、たった一歩でクラインの体をリックの懐まで潜り込ませた。

 そして、上段に構えていた剣を斜めに振り下ろす。

 『王国式剣術』攻撃五型・『捻じり袈裟』。アルクが模擬戦で使った技であるが、そもそもの振り下ろす力も踏み込みのスピードも桁が違う、そのうえ、技の完成度までアルクより上ともなれば、さすがは特等騎士と言ったところだろう。

 驚くべき速度と威力で打ち込まれたその一撃を、しかし。


「よっと」


 リックは命中するギリギリで、小さく後方に跳んで当然のように躱してみせた。

 その、明らかに剣筋を完璧に見切った動きに、クライン本部長はやはりかと内心で納得する。

 入学時の検査で魔力量に乏しく、まともに魔法が使えないことは分かっていた。しかし、そのうえでこの男はクライン本部長たち特等騎士や魔導士協会のトップである特級魔導士と同じ、『超人』のレベルに到達している。

 模擬戦での戦いを見て商品たちから遠ざけようとした判断は正解だったようである。


(……とはいえ)


 ニヤリとクライン本部長は笑う。

 この自分を相手に、『後ろに跳ぶ』などという馬鹿な選択をした時点で終わっているのだが。


「『摩擦支配』マイナス!!」


 クライン本部長は空振りした剣を、再び上段に振りかぶりながら叫んだ。

 その瞬間、本部長の立っている部分を除いた、半径7メートルの床の摩擦係数がほぼゼロになった。

 床に転がっている調度品の欠片を指先で少し押せば、どこまでも滑っていってしまうほどの引っかかりの無さである。

 当然、真後ろに跳びのいたはずのリックもバランスを崩し……。


 バキィ!!

 と鈍い音が響き。クライン本部長の体が吹っ飛んだ。


「ごっ!? はあぁ!!!!」


 クライン本部長は何が起こったのかを理解できなかった。

 リックは当たり前のことしかしていない。

 後ろに跳びのいた反動を使って地面を蹴り。

 前に跳んで上段から剣を振り下ろそうとするクライン本部長の懐に潜り。

 掌底をその無防備な腹に叩きつけたのである。

 常識外れなのは、これら一連の動作を、摩擦のほとんどない床の上でさも当然のようにやってのけたということである。


「あ、あり得ません……いったい何がどうなって」


「アンタの能力はあれか。モノを滑りやすくしたり滑りにくくしたりできるモノみたいだな。確かに俺の踏んだ床が急に全く引っかかりが無くなって驚いたぞ」


「ならばなぜ……」


 先ほどヘンリーがやった、真っすぐに踏んで体をなんとか上に押しあげるのとは訳が違う。

 濡れた氷の上に立つだけなら、バランス感覚の優れたものならできるだろう。その状態で少しずつ進むことも一度だけジャンプすることも不可能ではないはずだ。だか、濡れた氷の上で勢いよく前後に飛び跳ねるというのは、いくらなんでも不可能というものである。


「俺が踏んだのは、この床じゃなくて同じ柱に繋がってる「下の階の床」だからだ」


「は?」


 リックの言葉にクライン本部長は間抜けな声を上げる。


「この階の床は下の階と同じ柱で支えられてる。だから、その柱の繋がりを『上手く踏んで』お前の能力の効果範囲の外にある下の階の床から反発をもらったんだ」


「……」


「ちなみに、全ての攻撃を滑らせるはずのアンタを殴れたのは『真っすぐに殴った』からだぞ。まあ、身体操作の技術の一つだな」


 リックの言葉に、クライン本部長は理解不能といった様子で、しばらく唖然とする。


「な、なにを言っているんですか、貴様は。身体操作でそんな魔法のようなことできるわけ……」


「おいおい、アンタも特等騎士だっていうなら、これくらいのことやってのける奴に一度くらいは会ったことがあるだろ? 俺に身体操作の技術を教えてくれた二人のうちの一人は、その辺で拾った小枝で鋼鉄を両断できるぞ?」


 確かにリックの言う通り、クライン本部長は魔法の域に達する身体操作技術を持つものを一人だけ知っている。クライン本部長の知る限り、あのお方こそがこの地上に存在する全ての生物の中で最強。無謬にして絶対の剣技を持つ、まさに『超人』を超えた『領域』に足を踏み入れている王国最強の騎士に他ならない。

 そして、目の前にいる男がそれと同じ『領域』レベルの技を使っているのである。

 現実に見せられても、ハイそうですかとすぐさま納得できるモノではなかった。

 しかし、それでも状況は動く。


「ふっ!!」


 強烈な踏み込みと共に放たれる突き。

 もはや床の滑りやすさなど、全く意に介していなかった。


「あまり、調子に乗るなああああああああああああああ!!!!」


 リックの拳をクライン本部長は剣で迎え撃つ。

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