第59話 活路
立ち上がったヘンリーの全身に力がみなぎる。
先ほどまでの、痛みが嘘のように気にならなくなった。
「力の無い貴様のようなガキに何ができるというのですかああああああああああぁ!!」
クライン本部長は叫び声えを上げると、腰に差した剣を抜き放つ。
完全に本気である。
固有スキルによって自らの足元の摩擦を強化。
クライン本部長の体が急加速を始める。一刀のもとに小生意気なごのガキを真っ二つにしてやる。
それに対してヘンリーの選択は、後ろに飛ぶでも転がって避けるでもなく。
「はあっ!!」
全速力で自分から突っ込んでいった。
接近戦無敵の『摩擦支配』に対するベストな戦い方は、距離を取っての攻撃魔法である。と言うより全ての物理攻撃をそらしてしまうクライン本部長相手にはそれくらいしか勝つ方法がない。とはいえ、ヘンリーの使える攻撃魔法は遠間から特等騎士の防御魔法を貫いてまともなダメージを与えられる威力は無い。しかも、あの加速力にかかればすぐに距離を詰められてしまうだろう。
だからこそ、前に出る!!
そこに活路がある!!
「なっ!?」
まさかの行動に、クライン本部長は目を見開く。
しかし、特等騎士の判断力と反応速度は並ではない。クライン本部長はすぐさまヘンリーの足元の摩擦を減少させる。
大幅に減ったカーペットの摩擦力は、濡れた氷の上よりもなお滑りやすい。
足を取られたところを、加速した自重を乗せた蹴りで仕留める。
しかし。
ヘンリーはそうやってクラインが自分を蹴り飛ばすために片足を上げた瞬間を待っていた。
「全ての基本は『真っすぐに立つこと』!!」
「何ぃ!?」
ヘンリーの足は床を、その上に敷かれたカーペットを踏みはずさなかった。
いや、一瞬踏み外したのだが、ギリギリのところで耐えているのだ。
実はクライン本部長の能力は摩擦力を極限まで減少させることはできるが、ゼロにはならない。ゼロでないなら、上手く踏むことができれば立つこともできるし、少しだけなら進むこともできる。
もちろん、普通にやってできることではない。しかし、ヘンリーの師匠はリックであり、そのリックが最も重視して叩き込んだのが、地面を正確に捉える技術である。
何より……。
ヘンリーは今まで諦めなかった。
皆に訓練でついていけないと痛感したときも、ワイト教官に完膚なきまでに痛めつけられた時も、必死で鍛えたのに先輩の女騎士に容易くあしらわれてしまった時も。
強くなることを決して諦めなかった。
『なあ、ヘンリーまだ寝なくていいのか?』
『はい、もう少しだけ。僕は皆より弱いですからね』
そんなやり取りを、何度リックとしただろうか。
リックに基礎中の基礎と教えられた、接地感覚を掴む崖下りの訓練を誰よりも徹底的に根気よく行なったのはアルクでもガイルでもない。ヘンリーなのである。
磨き上げた接地感覚は滑る床を正確に掴みとり、弱弱しいながらもその体を前に送り出す。
ヘンリーは完全に意表をつかれたクライン本部長の足元に飛びついた。
そして、クライン本部長の履いている靴底。踏み出そうとして一部が浮いていた靴底に手を入れてすくい上げる。
クライン本部長は現在、自分の靴底の摩擦を上昇させている。そのため、掌を当てただけでまるで接着されているかのように、手に引っかかってくれた。
思わずバランスを崩し、その場に転倒するクライン本部長。
「くそ!!」
その瞬間をヘンリーは逃さなかった。クライン本部長を巻き込むようにして一緒に倒れこみ、馬乗りになる。
さらにクライン本部長の上着のボタンの隙間を掴みこんだ。普通に持っても滑らされてしまうため、ボタンの隙間に入れた指を輪の形にする。ちょうど、輪っか同士が重なり合っている形である。
重なった輪っか同士なら、いくら滑りやすくても離れない。
そして。
掴んだ手でクライン本部長の体を引きつけながら、右拳を握る。
物理攻撃は効かないのだから、初めから狙いはこれだった。
「貫け、疾風!! この拳から旅立ちの号砲を!! 第一界綴魔法『エアショット』!!!!!!」
略式詠唱で放たれたヘンリーの『エアショット』が、クライン本部長の顔面に直撃した。
ゴシャアアアアアア、という肉を打つ音が響き渡たる。
クライン本部長はとっさに全身から魔力を放出することで防御したが、第一界綴魔法とはいえこの至近距離での直撃である。
打ったヘンリー自身が反動で吹っ飛び、床を転がる。
「へへへ、見たかこの野郎」
ヘンリーは床を転がりながら、そう呟いた。
直撃したクライン本部長の頭部は床に深々とめり込んでいた。
元々、魔力的素質は低くないヘンリーである。その威力は十分すぎるものだった。
アルクはポカンとしてヘンリーを見る。
「……本当に、特等騎士を倒すなんて」
「なんだアルクさん。信じてなかったんですか? 『任せろ』って言ったじゃないですか」
「……なんなのよ、もう」
その瞳から再び大粒の涙がこぼれる。
「そんなこと言われたら、辛くなる度にヘンリーに頼りたくなっちゃうじゃない」
「いいよ、頼ってよ。君のためなら僕は頑張れるから。それと……」
「なに?」
「女の子らしい喋り方もするんですね。そっちが素かな。凄くかわいいと思うよ」
「……バカ」
アルクは顔を赤くしてうつむくとそう呟いた。
ヘンリーは両手をついて何とか立ち上がると、アルクの方に歩み寄る。
「待ってて、今手枷を外すから」
そう言った瞬間。
アルクがヘンリーの背後を見て叫んだ。
「ヘンリー!!」
「え?」
「調子に乗るなよおおおおおおおおおおおおおおおお、クソガキがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
クライン本部長がそこに立っていた。
ヘンリーの一撃により歪んだ顔面に、幽鬼のごとき形相を浮かべながらその右腕をヘンリーにふるった。
「ごっ!?」
ベキベキ、と。鈍い音がヘンリーの肋骨から聞こえた。
ヘンリーの体が凄まじい勢いで吹き飛んで、壁に激突する。
クライン本部長は普段の穏やかな面の皮を完全に捨てて、罵倒するように叫ぶ。
「魔力が込められているとはいえ風系統の魔法は、カテゴリーとしては物理攻撃なんだよぉ。だから、俺の固有スキルで威力を軽減させられる。たまたま、ちょっと一発いいの入れたからって勝った気でいるんじゃねえぞ六等騎士風情が!!!!!!」
クライン本部長は、床に崩れ落ちるヘンリーの姿を見る。
手ごたえはあった。今度こそ死んだか、そうでなくとも起き上がることはできまい。
「ははは、いくら威勢のいいことを言っても現実は……」
しかし。
ゾワリ、と。
クライン本部長の背筋を冷たいものが走った。
「なぜだ……なぜ立ち上れる……」
ヘンリー・フォルストフィアが二本の足で地面を踏みしめ、こちらを睨んでいた。
その強い意思を持った瞳に気圧されるクライン本部長。
アルクもそれは同じだった。しかし、どう見てもヘンリーが動ける限界を超えてしまっているのは確実だ。
「ヘンリー……もう……」
「……その先は、言わないでくれ」
ヘンリーは今にも消えそうな、しかし強い口調で言う。
「一番苦しいのは……『頑張れ』って言われることじゃない……『もういい』と諦められることだから……」
フォルストフィア家の屋敷で、ずっと閉じこもっていたのは。きっとそれを言われるのが怖かったから。
そんな自分を変えたいと思っていた。
そして今、思うだけでなく変えてみせると決意したから。
ヘンリーが一歩踏み出す。
クライン本部長が一歩後退する。
ヘンリーがもう一歩踏み出す。
クライン本部長がまた一歩後退する。
クライン本部長の脳内は混乱の極みの中にあった。
なんだ、これは。
わけがわからない。なぜあのダメージで動けるのだ。
いや、それよりも、何よりも。
なぜ心が折れないのだ。
圧倒的な力の差。絶望と恐怖。
過去の大戦争でクライン本部長が味わったものだ。
地方貴族の三男として生まれたクライン。今でも父から言われた言葉は鮮明に覚えている。
『金は二人分しか用意できなかった。だからお前は戦場に行くんだ』
そうして、クラインは戦場に放り込まれた。
時は帝国と王国の大戦争。しかも、完全に泥沼化していた時分である。
すぐさま戦場に投入するために人権すら無視した地獄の訓練、そして送り込まれた戦地での血で血を洗う日々。
元々は気弱で要領もよくなかった末っ子のクラインには過酷というものを通り越していた。
しかし、どれほど泣き叫ぼうが教官は容赦しない。同僚たちも足を引っ張るやつは徹底的に叩く。当然、敵の兵士や武器は命を狙って襲い掛かってくる。
怖かった。ひたすらに怖かった。
怖さに立ち向かうことなど考えもしなかった。とにかく逃げ回るだけの日々。
あれに晒されればどうすることもできない……はずなのだ。どんな綺麗ごとも、どんなカッコつけも虚勢も全て無様に消し飛ばされるはずなのだ。
そして戦争は終わり、クラインは金を求めた。
再び、あの日々にさらされることがないように。
金を、ひたすらに金を。
それなのに、目の前の少年は……。
「なんなのだ……なんなのですかアナタはあああああああああああああぁ!?」
「はっはっはっはっ、アンタの負けだな。クライン・ガレス・イグノーブル」
その時。
本部長室の入り口から声が聞こえた。
「お前の絶望と恐怖は、たった今、ヘンリーの意志に完全に凌駕されたぞ」
扉に前に立つリック・グラディア―トルは、嬉しそうに笑いながらそう言った。
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