第20話 白い紫陽花の花言葉

 ひなげしとひとしきり食事と会話を楽しんだマラダイは、名残惜しそうに帰って行った。

 独り残されたひなげしは、自室に入ってまた夜空を見上げる。


「はぁ、楽しかった。マラダイさんと話すのって、なんて楽しいんだろう。年だって結構離れているのに、ううん、だからなのかな。包んでくれるみたいに話を訊いてくれて、話題を探して話が途切れて気まずい思いをすることもない…。こんなの初めて」

 まぁ、男女の相性というのはそういうものじゃからな。

 見た目よりもむしろ中身がタイプでないと、長くは続かないものじゃ。

 もちろんアッチの相性も、合うに越したことはないがの。


 さて、しばらく夜空をぽわんとした表情で眺めていたひなげしは、ハタと気がついた。

「そうだ、日記」

 サイドテーブルに置いてあった日記を手にして、期待に満ちた表情でひなげしはページをめくる。

「こ、これ…」

 眼を大きく見開いたまま、ひなげしが固まった。


「ぶ~ん(アンナ様ぁ、見ちゃいましたよ、ひなげし。紫陽花あじさいの押し花で『私の想いを贈ろう』って書いてあったら、まるで私は浮気しますって宣言しているようなもんじゃないですかぁ)」


「…白い紫陽花あじさい

 ひなげしは突然、何か思いつめたような表情になったかと思うと、その眼には涙が浮かびはじめた。


「ぶ~ん(ほら、言ったこっちゃない、アンナ様ぁ。やっぱり絶倫の浮気男なんだって思って、悲しくなっちゃったんですよ)」


 しかし、ひなげしは溢れて零れる涙を拭こうともせず、そっとつぶやいた。

「お父さん…」

「ぶん(お父さん?)」


「マラダイさんは、きっとこの花が持つ別の花言葉を知っていたのだわ」

「ぶん(別の花言葉?)」


「お母さんが教えてくれた、紫陽花あじさいの素敵な花言葉…」

 そう言うとひなげしは、日記をぎゅぅッとその胸に抱きしめた。

「やっぱり、あの人はお父さんに似ている…。大好きなお父さんに」

 さらに、はらりはらりときれいな涙をこぼしながら、ひなげしが夜空に向かって呟く。

「こんな偶然、信じられない。もしかしたら、これは…運命?」

 冴え冴えと浮かぶ三日月に向かって、ひなげしはそっと問うた。

「好きに…なっても…いいですか?」

 夢見るような、それでいて真剣なその横顔を、美しい月が見守っているようじゃ。



 一方、ヴィはますます混乱しておった。

「ぶ~ん(ななな、何?訳がわからないっ!アンナ様っ、アンナ様ったら、どういうことですかっ?)」

 そう叫んだと思うと、ヴィは高速転移して東の森に帰ってきた。

 まあまあ、ヴィよ。落ち着いて、これを見なさい。

 わしはヴィに、過去へも自在に時間を戻すことができる霊玉を示した。そこには数年前の、日本でのひなげしと母親の姿が映っておった。



✵ ✵ ✵


「ひなげし、見て。お父さんから誕生日の贈りものよ」

 踊りのお稽古を終えて母親が縁側に出た丁度そのとき、セーラー服姿のひなげしが学校から帰ってきた。

 微笑みながら母親が見せてくれたのは、白い紫陽花あじさいの鉢だった。

「…これ、紫陽花あじさいよね、お母さん?」

「そうよ」

 嬉しそうな母親に、ひなげしは怪訝な表情で訊ねた。

「ねぇ、お母さん、もしかして紫陽花あじさいの花言葉を知らないの?」

 心配そうな顔で訊く娘に、母親はおっとりと微笑んで見せた。

「ひなげし、あなたの言う意味はわかるわ。一般的に、紫陽花あじさいの花言葉は『移り気』ですものね?」

「うん」

「でもね、紫陽花あじさいには、もっとたくさんの花言葉があるのを知ってる?」

「そうなの?」

 ひなげしは驚いた表情で、母親に問う。


「白い紫陽花あじさいにはね、『辛抱強い愛』という花言葉があるのよ」

「辛抱強い…愛?」

 母親は大きく頷いて、娘の頬を軽く撫でた。


「お父さんはね、あなたも知っての通り、3 人の前妻とたくさんの子供がいるでしょう?」

 言いにくいことをさらりと言う母に、ひなげしは戸惑いながらもうなずく。

「お母さんは、お父さんは結婚には向いていないと思うの。だからあなたやまきが生まれても、籍を入れなかった」

「それは、やっぱりお母さんの意志だったの?」

「そうよ」

 母親は美しい顔に、凛とした芯の強さを覗かせて続けた。

「結婚という形で、お父さんを縛りたくなかった。だって、お父さんは…」

「一人の女の人じゃあ、満足できないから?」

 そうはっきり訊ねた娘に、少し驚いたような顔を見せた母親だったが。

「知っていたのね、お父さんの…その…」

 娘の前で、さすがに父親の性欲の強さは口にできない母親は口ごもった。

 ひなげしは答える代わりに、微かにでもしっかりとうなずいて見せた。


「でも、お母さんとはもう随分長い…」

 ひなげしがそう言って、母親の顔をそっと見やると、母親はまた母親はおっとりと微笑んで見せた。

「お父さんはね、言ってくれたの。あたしが、いつか結婚しようと思うまでいつまででも待つって。そのとき初めて、白い紫陽花あじさいの別の花言葉をお母さんは教えてもらったの」

 ひなげしは何も言わずに、母親を見つめた。

 そんな娘を、母親は愛おしそうに見つめ返す。

「お父さんが最初に贈ってくれたのは、白い紫陽花の押し花だった。『辛抱強い愛』って花言葉を添えてね。いまでも大切に日記に挟んであるわ」

 母親は再び、とても嬉しそうに紫陽花の鉢植えを眺めた。

「それを、もう一度思い出してってお父さんは言いたいのかも」

 ひなげしの言葉に母親は大きくうなずいて、ふたりは並んで紫陽花の花をしみじみと眺める。


「お母さん、結婚するの?」

「…そうねぇ。あたしはもう、このままでもいいんだけど。もともと結婚という形にはこだわらないし。でも、ひなげしはどう思うの?やっぱりちゃんと籍を入れたお父さんとお母さんの方がいい?」

「わからない」

 ひなげしのその言葉は、嘘偽りない気持ちだった。


「でもね。あたし、お父さんが好きなの。もちろん、複数の元奥さんや子供がいるって知ったときはショックだった。だけど、お父さんを見ているうちにわかってきたの。お父さんが、お母さんのことをどれだけ強く想っているかってこと」

「ひなげしがお父さんのことを好きでいてくれて、お母さんは嬉しいわ。お父さんは正直なだけ。お母さんはそれを受け止めたいって思ってる。ちょっと大変だけどね」

 茶目っ気たっぷりにそう言った母の言葉に、ひなげしは顔を赤くした。

 受け止めることが何か、わかったのじゃろう。


「ねぇ、ひなげし。この紫陽花あじさいは庭に植え替えるわ。お父さんが次に来たときに、見せてあげましょう?手伝ってくれる?」

「うんっ。お父さん、きっと喜ぶと思う」

 母娘は、うきうきとした表情で立ち上がった。



✵ ✵ ✵

 

 どうじゃ、ヴィ。

 わしの深慮からのアドバイスが、これでわかったじゃろう?

「ぶ~ん(いや、たまたまですよね?アンナ様は絶対、ひなげしがねて、マラダイさんが慌てふためく様子を見たいと思っていましたよね?)」

 ななな、なにを言う。

 わしはそんなに人が悪くはないぞ。慈愛溢れる占い師じゃぞっ!

「ぶ~ん(へ~ぇ、そうですか)」

 こ、これ、ヴィ!なんじゃ、その言い方はっ!これ、待ちなさい。勝手に1人で転移して、どこへ行こうとしておるのじゃ。ヴィ、ヴィよ!!

 戻って来なさい、アカシアの蜜があるぞ、スモモのジャムも領主館からくすねてきたぞっ。

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