β038 玉露とラテアート
「綾織さん、これからどこへ行くのかな? 僕は、自分のドームハウスへ一旦帰ろうと思っているのだけれども」
空港、いや、情が揺さぶられたマルクウにいつまでいても仕方がないと、綾織さんに訊いた。
「それもいいですね。葛葉様は、空中都市βのD区―02にお住まいですね」
神か!
綾織さん。
「綾織さんは、神社にお帰りですか?」
ここへ来る際に、リムジンで乗り付けた場所へ二人で行く。
マルクウを去るのに、方向が違うならとリムジンの手配をするのに軽い気持ちで尋ねた。
「私の神社は、少し遠いの……」
答えは、ぽつんと返って来る。
綾織さんが、こんなに侘しい面差しをするとは、思わなかった。
何て悪いことを話させてしまったのだ。
リムジンを呼んでも帰れないのかな。
僕の所に泊める訳にはいかないが、どこかで元気を出して貰いたい。
「僕のドームハウスは、僕しかいないので遠慮されると思う。どこかでお茶でもしませんか? 旅に疲れて、より鋭気を戻すと、帰るのにいいのかも知れません」
沖悠飛くんのこともあるから、嫌われるかも知れないと思いつつ、そろそろっと顔色を伺った。
すると、怒るでもなく笑うでもなく、淡々としているではないですか。
「葛葉様、お茶ですか。初めてなのですが。どのようなことをなさるのでしょうか」
はっ!
基礎講座ですね。
「うーん。お店で、飲み物をいただきながら、話をしたり……。笑ったりかな。はは。実は、僕もよく分かっていないや。楽しい想い出になるといいと思いますけれども」
僕のかわいた笑いは、更にかわいてしまった。
ははは。
「お茶をなさったことがないって、プロポーズもですよね? 葛葉様」
何ですとー!
「プ、プ、プロ? プロポー? ない! ないですよ!」
僕は、おちょくられていないよな。
誰か、これを真剣交際と呼んでおくれよ!
「なら、いいわ」
おすましさんの顔色は伺いにくい。
いいわ、イコール、ノーよ。
いいわ、イコール、イエスよ。
どっちだ!
どっちなんだ!
「いいわって、遠慮なさるということかな?」
ノーか?
ノーなのか!
焦り気味の僕は、見苦しくないだろうか。
嫌われないだろうか。
「お、OKです」
やっと絞り出した、綾織さんのイエスに、僕は、余命がすり減った気がした。
へなへなーん。
◇◇◇
僕は、いわゆるサラリーマンでも、飲み屋も知らなければ、オシャレなカフェも知らない。
リムジンに二人で乗り込むと行き先を訊かれ、一言絞れたのがこれだ。
「レストランユッキーへ」
目的の店の前で降ろして貰うと、僕は、綾織さんの手にも触れずに、中へ案内した。
このレストランユッキーは、まるで綾織さんの綺麗な白をテーマとしたようなベーシックなデザインが、彼女に似合うと思う。
不思議なことに、空中庭園暦元年創業だとオーナーのユッキー=マッシーが譲らないが、永遠の三十歳、ユッキーは何歳なのだろう。
どうしても思い出してしまうが、別れてしまう少し前、ひなと一緒に一日ランチを食べに行った所だ。
『創兄さん、迷うね!』
楽しい三つのランチから選べないでいたひなが可愛かったな。
――綾織さんにも僕の妄想を聞いて貰おうかな。
「あのさ、このお店は、ランチなのに、昼だけでなく、オープン中ずっとランチを出してくれているんだよ。三つから選べるんだ。それでね、先日、妹のひなと来て、歓談したのだけれども、綾織さんは、CMAβのことで、何か覚えていないかい?」
綾織さんは低温でじっくりといれた玉露をいただいている。
本人には言えないけれど、僕が一日働いた分位のお値段なのだ。
オーナーは、妙にこだわりの人だから仕方がないが。
「……。あ、何か飛びませんでしたか?」
僕は、ひなが贈ってくれるはずだったカフェは、頼まないことにした。
お任せカフェにしました。
僕があまーい気分になっているのが分かっているのか、チューリップのラテアートだったりするのか。
ナイス、オーナー。
「僕も愚かだったよ」
何を話しているんだったかな。
そうだ。
確かに、僕は、白昼夢でもみるかのように、飛ぼうとした。
「パーソナルフォンが、『神聖なる大地の剣』を鳴らして出てみたら、CMAβからの空中散歩のお誘いがあった。いつもの如く、塩辛い魅力に惑わされて、僕の体は、ふわりと浮いたとけれども、妄想も甚だしく、空中庭園国の境界がブラックホールのようになっていてもいいと思った」
綾織さんは、猫舌ではないらしく、そそといただいている。
玉露の似合う女性かあ……。
「現実はレストランのドームの壁にぶち当たったと思ったとたん、おでこをレストランのテーブルにぶつけたのだから始末に負えないね」
ここのテーブルは危ないから、もう誘惑されても飛びません。
「ひなにも随分心配されたよ」
僕は、笑った。
ラテアートって、壊せないから飲みにくいな。
「そんなことがあったのですね」
うん、綾織さんは、佇まいがいいね。
さっきから、うなずいて聞いてくれて、いい人だ。
「僕は、家族揃って、空中庭園国の中央広場でブランコに乗せて貰ったこともあったな」
何か、大切なことに繋がる気がするが。
「ひなが、控えめにヤン父さんの国民服の裾を引っ張って、乗りたい気持ちを伝えていたのが、愛おしかったな。ひなは、欲が殆どない。普通に生きていただけなのにな。急な解雇と誘拐は、思いもしない事件だよ」
とても悔しいことなのに、綾織さんには聞いて欲しかった。
「――これは、そんな最愛の妹、ひなにも話していないことなんだ」
「はい」
綾織さんが、玉露を置く。
「このブランコの日かな? 一つだけ、脳裏から離れない映像がある。幼い僕が、穴のような所に入っていて、文明の始まりみたいに牛の絵を描いた。すると、誰かが、隣に拙い数字を書くと、『これが、自分……』だと、大きな帽子を被って笑っていた」
真剣な瞳で僕らは、意思が通じたような気がした。
「これが何と繋がっているのか、ずっと分からなかった。だが、今なら分かる。誰のかは分からないが、書いたのは……」
書いたのは、βコードだ。
この言葉だけは、飲み込んだ。
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