第31話 暴かれた“禁忌”

「ああもう、ごめんなさい、遅くなっちゃって!」


 ここまで走ってきたのだろう――イザベラは息せき切らせながら、扉を閉じた。差していた傘を畳みながら、頭を下げる。


「……雨、降ってきたみたいですね」


 顔だけ向けて、セシュナは言った。笑っていられたかどうか、自信はないけれど。

 少なくとも驚きはしなかった。“揺り籠クレイドル”で待機しているケーテが、接近を事前に知らせてくれたから。


「とうとう来ちゃいましたよ、嵐。今日は早く帰らないと」


 彼女の言葉を裏付けるように、教会の窓が震え始めていた。大粒の雨がガラスを叩く音が、広い身廊を包み込む。


 セシュナはもう一度、正面にそびえる聖女ミリアの石像に目を戻した。

 祭壇の後ろから、大聖堂の全てを見下ろす美しき女神像。慈悲に溢れたその眼差し。

 その頬を、時に血の涙が伝うことを誰が知っているだろう。


 イザベラは祭壇前まで歩いてくると、セシュナに並んで女神を見上げた。髪から漂う甘い香りが、胸の奥の方まで染み入るような気がする。


「……セシュナ君って、信心深いんですね」


 何気ないその言葉に、頭を振って返す。


「珍しくて。故郷ハルーカでは、こんなに立派な聖堂を見たことなかったから」


 横目でこちらを伺いながら、イザベラは笑みを零した。謙遜だと思ったのかもしれない。


「……それで、話ってなんです?」


 問いを放つ彼女はどこか楽しげで、それが余計にセシュナの心を粟立たせた。


「もしかして、この間の続き・・、ですか?」


 けれど。


「――今から」


 もう、決めていた。決まっているはずだった。

 イザベラの碧く宝石のような眼に、その奥底に向けるような心地で。


「今から僕は質問をします。どうか、本当の事を答えてください」


 彼女の顔からゆっくりと柔らかさが消えていく。恐らくは彼がしているのと同じような真剣味を湛えた表情で頷く。


「……はい」


 セシュナは胸中で祈った。

 慈悲深く、それでいて冷徹な女神に――姉弟の大いなるミリアに。


「いつから――あなたは、いつから自分の力に気付いたんですか?」


 どうか勘違いであってくれと。


「力?」

「人間をモンスターへと変える、あなたの魔法マギアのことです」


 イザベラは――どんな感情も、見せなかった。

 あの、柔らかく鮮やかな唇だけを動かして。


「……セシュナ君。あなたは何か誤解をしているみたいですね?」


 微笑みに良く似た表情をつくり。


「モンスターは、あなた達の方じゃないですか。『ミリアの子供達』」


 微かな嘆息を漏らした。


「どれだけ虐げれば気が済むんです? 黒く美しい精霊・・達を」


 セシュナは、はっきりと実感する。


 それ・・は、禁忌。

 彼女が密やかに抱え続けてきた真実。


 今、自分はそれ・・に触れてしまったのだと。


「どれだけ傷つければ満足なんですか。尊い命の結晶を」


 聖堂に閃いた雷の先触れが、彼女の碧眼に微かな煌めきと憂いを映し込んでいた。

 その裏側から。


 夜闇のような暗がりが染み出してくる。瞳孔がゆらりと歪み、あっという間に眼球そのものを覆い尽くした。


『違和反応値、急上昇っ! 先輩! 当たりです――イザベラ先輩は“禁忌フォビドゥン”です!!』


 思考に直接響くケーテの警告。


(まだ、大丈夫だから。もう少し時間をください)


 眼球のような闇は勢いを増しながら、みるみる渦を巻き顔の半分を覆っていく。

 それは確かに“禁忌フォビドゥン”だった。


 夜と同じ色をした、死と破壊の権化。


(……間違いない。これが“萌芽デュナミス”)


 セシュナはこみ上げる猛烈な吐き気を抑えこんだ。叩きつける頭痛にも、腸に手を突っ込まれるような不快感にも必死で抗った。

 そして、今すぐ膝をつきかねない程の失望にも。


「いつから、ということなら」


 視界のイザベラが赤くぼやけ始める。眼の痛みが、そのまま血涙として流れ出していた。

 彼女はその白い手で、闇がのたうつ左頬に触れる。

 飛沫のように闇が跳ねた。


「私が彼女・・に出会ったのは、多分……キャスリンに、この眼を刳り貫かれた時です」


 指先がなぞると、思い出したように顔が裂傷に歪む。

 その傷さえ、蠢く黒い液体に比べればさして醜くは思えない。


「……キャスリン・ロムは――半年前のあの日、あなたの所に予算計画について確認に行ったと、ヒルデ会長は言っていました。一体どうして、あなたを傷つけるような真似を?」

「あの人、私に言ったんです――『首席の座を渡せ、薄汚い混血児フォウルドめ』って」


 セシュナは予想よりも自分が落ち着いていることに気付いた。


 ジャンが語ったイザベラの秘密。

 彼女が何よりも恥じて、秘めようとした事実。


「未開の原住民ネイティヴ、野良犬の娘、嘘つきのクズ、汚らわしい売女、呪われた悪魔、それから……ああ、そう、この秘密をバラされたくなければ首席を譲れ、って」


 感じるのは、驚きよりもむしろ怒りだった。


 イザベラが原住民ネイティヴの血を引いていることが、何故罵倒になるのか。

 何故脅しになるのか。


 いや、何故イザベラにとっての禁忌なのか。

 半年前、予算計画と共に行われた委員会選挙。そのタイミングで、現役の風紀委員長が、原住民ネイティヴの血を引いていると分かる――それが、どれほどのスキャンダルなのか。


 例えば、これまでの信頼と実績を失ってしまうほどなのか。


 セシュナにもようやく分かり始めていた。

 この学園に付き纏う暗闇の正体が。


 イザベラは悲しそうに眉根を寄せる。


「努力の方向が間違ってると思いません? 人の弱みを探ったり、刃物で脅したり、秘密を漏らしたり。首席って、そうやってなるものじゃないと思いませんか?」


 言葉も無い。

 つまりキャスリンはイザベラの風紀委員長としての立場を揺さぶり、自分の競争相手を減らそうとしたのだ。学年首席を勝ち取り、自らの進路を切り拓く為に。


「イザベラさんが断ると――誰かに秘密を漏らしたんですね。キャスリン・ロムは」

「……テオもね。びっくりしたんだと思いますよ。私の顔を見るなり、汚れた血フォウルブラッド、なんて」


 彼女の声は、あくまで淡々としていた。

 全ての出来事を単なる過去として――あるいは自分には関わりのない事と感じているかのような。


 セシュナは恐ろしさ半分で、ゆっくりと口を開く。


「だから――イザベラさん。あなたは、二人を」

「二人を殺したのか。イザベラ・デステ」


 声がして。

 慌てて振り返りながら、セシュナは呪いの言葉を発しかけた。己の迂闊さに対して。


 いつの間にか聖堂の扉は開け放たれ、湿り気を帯びた風と雨が吹き込んできていた。

 それらを一身に背負いながら、立ち尽くす影が一つ。


『――お姉ちゃん!? どうやってここに!』


 ケーテの思念がセシュナの頭蓋に殷々と響いた。

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