第30話 流れる涙が止まったら
夜はいつの間にか部屋を隙間なく満たしていた。星明かりも月影も通さない暗闇は静けさと圧力を備えている。夜の底に沈んだ全てを押し潰して、なお有り余るような。
それによく似たものを、セシュナは見たことがあった。
人の底から湧き上がり溢れ出る、死と破壊そのもの。
その姿を見ることは許されない――いや、それは闇そのものなのだから、見つめることも見透かすことも、出来るはずがない。ただ目を背け、耳を塞ぎ、全てを忘れて背を向けるしかない。
――何かが頬を撫でた。
その感触が無明の生んだ錯覚でないと気付くには、時間がかかった。
闇の中で微かに踊る白い影。ジェインが手ずから編んだ白いレースのカーテンだった。
ベッドから腰を上げる。
これ以上気を滅入らせた所で、得るものなど何も無い。
出窓から吹き込む風は湿った気配を孕んでいた。嵐が来る。今夜は開け放ったままでは眠れない。
カーテンを掻き分け、窓の留め金に手を伸ばそうとして。
「……キーラ」
セシュナは一瞬、息を止めた。
窓の外、柵に留まっているのは大きな鷹だった。
広げた灰白の翼が月を浴びてぼんやりと光を放つ。
改めて間近に見るその姿は、確かに神々しかった。
黒真珠のように滑らかな眼差しは、真実どころか真理さえ見抜いているように見えた。
まして一度死に瀕し復活を遂げた
セシュナははっとして、出窓から身を乗り出す。
振り向くとミロウがいた。
隣の部屋の窓から同じように顔を出し、雲の向こうに消えた月を見上げるように。
「ミロウさん」
こちらに気付いていたのかどうか。彼女は呼びかけより僅かに早く、視線を向けてきた。
「……今日。何か、あったの?」
抑揚の少ない言葉は、質問というより確認に近かった。
「え……わ、分かる?」
「だって。セシュナ君、笑ってない」
意表を突かれた思いで、問を返す。
「そんなに、いつも笑ってるかな。僕」
「笑ってる、というか、ニヤニヤしてる」
彼女はにべもなく頷いた。
軽く、ほんの少しだけ、セシュナは言葉を失った。
「……結構ショックなんだけど、それ」
そんなに気の抜けた表情をしていただろうか。もしかして、知らない間に零れ落ちていたのだろうか――彼女と言葉を交わす喜びが。
「で?」
ミロウは少しも取り合ってくれない。ただ短い質問を重ねるだけ。
「あ……うん。その」
「イザベラ・デステのこと?」
彼女に隠し事は出来ない。セシュナは改めて実感した。
「昨日の狩りが終わってから、ずっとそんな顔をしてる」
「う、ん」
しかし、だからといって、全てを話せる訳ではない。
彼は考えあぐね、束の間ミロウから目を背けた。
夜の向こうから密かに押し寄せる嵐の気配が、実感として頬に張り付く。細くしなやかな風の音が、後ろで括った長い髪を玩んだ。
口にすれば、それが真実になってしまうような。
特に、ミロウに話してしまえば。
「……イザベラさんが……その。“第二感染源”なんじゃないかって思って」
確信に似たものは既に持っている。だが、それを受け入れられていない。
「……そう」
それを知ってか知らずか、ミロウは首肯するだけだった。
「風紀委員の調書を見たんだ。キャスリン・ロムだけじゃなく、被害者の調書はほとんどイザベラさんが作成してた。彼女が取り調べた相手だったんだ」
学内での問題行動、強引な面会に陳情、風紀委員の執行妨害。
罪状のどこまでが真実なのか分からない――記録を作ったのがイザベラなら、いくらでも誇張や捏造は出来る。どちらにしても、彼女と摩擦があった人物だという証拠になる。
「それに、イザベラさんは。イザベラさんには――多分、
ミロウの無言に甘えて、セシュナはただ語る。
「もちろん、それだけじゃイザベラさんが“第二感染源”だっていう証拠にはならない。確かめないといけない。本当の事を」
そして、もしもイザベラが“第二感染源”だったなら。
「……出来るの?」
端的な問いかけだった。
こちらを見つめるミロウの瞳は、真夜中と同じ色をしている。今、彼女の眼は間違いなく真実を見通していた――セシュナの裡に潜む何かを。
「あの人が“第二感染源”だったら。セシュナ君に、出来るの」
「今日、ケーテが見つけてくれたんだ、
「……本当に、それで上手くいくと思う?」
口を開く。
「それ、は」
「……確立されてない治療法に私達の命を賭けようなんて、アレクサンドラ先輩が考える?」
声が出ない。
「でも。でも……」
――不意に、何を言っても意味が無いように思えて。
理由は百でも挙げられる。どんな答えを出すにしても、材料は揃っている。学園と街の平和、学生達の未来、『ミリアの子供達』にしか裁けない罪、選ばれた者としての責務、自身の生活と未来、あるいはイザベラへの愛や恋や、その他。
(でも、それが何だって言うんだ)
一つの答えを選ぶ時、どんな言い訳になるのか。
「僕、なんで……何の為に、こんなことを調べたんだろ。どうして、こんなこと知りたいと思ったんだろう」
どういう訳か、こみ上げてきたのは笑いだった。
顔や喉が引き攣れて、くしゃくしゃになった結果としての。
「知らなきゃ良かったよ。そうしたら、こんなに色々考えずに済んだのに」
「うん」
それは同意とも、否定とも、何とでも聞こえるような返事。
「……ごめん。ごめん、ミロウさん」
セシュナは腕で顔を隠し、彼女に背を向ける。
「別に」
ミロウはあくまでも、どこまでも静かだった。それはやはり暗く穏やかな森に似ていて。
「……人前で泣くのは、
セシュナは唇を噛み締めた。
強く、血が滲むほど。
「そして、涙が止まったら、戦うべきものと向き合う。それも――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます