第32話 精霊と語らうもの

「……ヒルデ? いつから、そこに?」

「答えろ、イザベラ。二人を……キャスを殺したのか」


 ヒルデが発する声は、どこか深い場所から響いているように重く息苦しかった。


「駄目だヒルデさん! 来ないで!」

「そこをどけ、セシュナ!! これは私とイザベラの問題だ」


 彼女の視線を遮るようにセシュナは立ち塞がった。

 “禁忌フォビドゥン”と対面にさせる訳にはいかない。

 イザベラの声は、やはり浮世離れしている。


「ねえヒルデ。精霊・・は私に教えてくれたんですよ。人の心は移ろうもの。でも、例えば一度眠ることで、気持ちが変わるように――命の夜・・・を経ることで、やり直せるんだって」


 その言葉は――控えめに評して、意味が分からなかった。


 単なる言い逃れにしては余りにも淡々としている。

 林檎を手放せば大地に落ちる。それぐらいの何気ない調子で。


「人は生まれ変われるんです。『夜』を受け入れたら、新しい自分になれるんです」

「……君は何を言っている。『夜』とはなんだ? 生まれ変わったというなら、キャスは今どこにいる? そんな戯言が、本気で通じると思っているのか!!」


 ヒルデに躊躇いはない。意志だけで押し潰そうとするかのように。


「本当です。聞いてください。彼女達はモンスターなんかじゃない・・・・・・・んです。あれ・・は人が新しい世界を目指すための形なんです。ただそれを、頑なに認めない人達がいるだけで」


 二人の間でセシュナは首を振り、喉を震わせる。


「駄目だ……駄目だ、二人共!」


 これ以上、話をさせる訳にはいかない。

 “禁忌フォビドゥン”を、知ってはならない。語ってはならない。

 真実を知ったものは、皆同じ末路を辿ることになる。学園から放逐されるのだ――人のままか、人の形を失った挙句なのか、違いはあるにせよ。『ミリアの子供達』は――アレクサンドラは容赦しないだろう。


 彼女には正義がある。鉄槌を振るうのに充分な理由が。


「……セシュナ。君がどんな隠し事をしていようが構わない。私にはもう関係がない」


 ヒルデは静かに近づいて来る。

 イザベラの顔が、その左眼から溢れ出す暗闇が見える距離まで。


「ただ――お願いだ。これ以上、私の邪魔をしないでくれ」


 セシュナは、眼から滴る血液を手の甲で拭った。


「……駄目なんです、ヒルデさん。僕にはまだ、やらなきゃいけないことがあるから」


 言いながら、左手首に填めた銀の鎖に手を当てる。

 古代魔導文明の遺産、転送器テレポート・デバイス。装着者を転送するだけでなく、何かを引き寄せることも出来る。


「……やっぱり、そうなんですね。セシュナ君。あなたも『ミリアの子供達』。聖母の使者を騙り、精霊・・達を弑する罪深き背徳の徒」

「どけ、セシュナ! 私は――殺す! そいつに、その混血児フォウルドに味わわせてやる! キャスが味わった痛みを!」


 最早、語る言葉はなく。


 光り輝く転送器テレポート・デバイスから引き抜いた長剣は、冷え冷えと刃を鳴らした。

 アレクサンドラから与えられた、名匠の手による逸品。つむじ風ワール・ウィンドとは、出来過ぎた銘だと彼女は笑っていたが。


「全て、あなた達が行ったんですね。『夜』を迎えたキャスリンを、テオを、その他全ての人達の命を――『ミリアの子供達』が奪った!」


 激昂するイザベラを見据えて。

 ふと、残った彼女の右眼が、まるで靄がかかったように煙り始めていることに気付いた。


 セシュナは分かっていた。

 狩りをした森の奥で、彼女が曖昧な表情を見せた時から、ずっと。


(彼女は絶望してるんだ。避けられない、逃げられない、どうしようもなく理不尽なものに)


 初めて“禁忌フォビドゥン”を眼にしたセシュナと、同じように。


「私は――あなた達にこそ知ってほしいんです! この『夜』が持つ本当の意味を!!」


『座標補正、完了。転移シークエンス――完了』


 ケーテの念話は、無情な通告だった。

 光は一度だけ、白く弾けて。


「少々お口が過ぎているのではないかしら? “禁忌フォビドゥン”」


 彼女達・・・はもうそこにいた。

 イザベラのこめかみ――丁度漆黒に染まった面を狙う銃口は、無慈悲に光る。


 そしてもう一つ。

 イザベラの背後から翳されたニザナキの掌は、散弾銃よりも余程冷徹な殺意だった。


「……ようやく姿を見せてくれましたね。『ミリアの子供達』」

「なんだ貴様らっ――」


 セシュナが背後を振り返ると、やはりそこには、いつの間にか黒衣の人影がいる。

 一人はもがくヒルデの腕を容赦なくねじり上げながら、片手で彼女の口を塞いでいた。もう一人は身の丈ほどの錫杖を携え静かに佇んでいる。


「跪きなさい。そして祈るのです。苦しまずに逝けることを」


 傘のような長銃を構え、アレクサンドラは淡々と言い放った。

 セシュナは思わず吠える。


「まだだ――やめろっ! まだ話は終わってない!」

「黙っとけ。オノレから破裂させんで」


 イザベラを狙っていたニザナキが、こちらへと掌を向け直す。その手に宿る光は、威嚇にしては明々とし過ぎていた。


「……脅しなんて。意味が無いですよ、『子供達』」

「そのようですわね。残念ですわ、本当に。わたくし、あなたを友達だと思っていたから」


 手袋の黒革が、銃把の木目に擦れる音。


「ごめんなさいね――イザベラ」


 銃口から吹き出したオレンジの炎が一気に膨れ上がり、飛び出した小さな鉛の群が、イザベラの頭蓋全てを滅茶苦茶に蹂躙していく。

 その様が、セシュナには全て見えた――そんな気がした。


 だが。


「――言ったじゃないですか。意味が無い・・・・・って」


 イザベラは変わらなかった。顔の半分を漆黒に染めたまま、あの聖女のような微笑みで。

 微動だにせず、そこに佇んでいた。


精霊・・の加護の前には、あなた達の歪んだ悪意なんて、無意味なんですよ」


 少女の頭など容易く粉砕できるはずの散弾は、全て宙に浮いたまま――ひしゃげて消滅する。

 黒衣の、『子供達』の反応は敏速だった。


「閉ざせっ、空虚の檻ヴォイド・ケイジ!」


 少年の叫び声と共に、広がった輝きは少女をすっぽりと包み込んで――一度だけ、腹の底に響く重苦しい音を上げた。

 その後に続いた静寂は、酷く冷たい。


 くぐもったヒルデの呻きが騒々しく感じるほどに。


「貴様ら……何を、したっ――んぐ」

「汚いなもう! 唾飛ぶから、あんま喋んないで!!」


 アシュは言い捨てて、ヒルデの口を塞ぎ直した。ヒルデが全力で抵抗しはじめると、流石のアシュも手こずるらしい。


 やがて、光のドームが消えるに連れて会堂内の大気が激しく動き始める。爆音に近い響きをあげながら、ドームが包んでいた空間を埋め直すように。


(まさか……結界の中に真空を?)


 魔法で作り上げた障壁で相手を包み、内部の大気を奪う。そんな事が可能なのか。

 もし可能だとすれば、それは実に情け容赦のない殺人に他ならない。


 しかし光が晴れても、イザベラは寸分違わなかった。それこそ毛の一本に至るまで。


『どうして分からないのかしら』


 それが声だと気付くのには、少しだけ時間がかかった。


『悲しいわ、イザベラ。は今、とても悲しい』


 それは空気を震わせない。耳には届かない。

 ただひたすらに――心の底にだけ響く音無き言葉。


「――”静寂の言葉ウユララ”? そんな――“禁忌フォビドゥン”が?」


 錫杖を抱えた黒衣――ミロウが呟く。

 細やかな声に込められた驚愕。


『あなたがこんなにも訴えているのに、彼らは聞く耳を持とうとしない。それは何故? 彼らが蒙昧だから? 彼らが傲慢だから?』


 イザベラが頭を振った。揺れる金の髪が、堂内に点った灯りに照らされて美しい。


「いいえ。いいえ、違います――誰だって、知らないものは分からないんです。分からないものは怖いんです。でも、知らないのなら知ればいい。少しずつでも本当の事を。偽善者テスラの教えとも、愚鈍な原住民ネイティヴどもの言い伝えとも違う、世界の真実を」


 彼女の言葉は、はっきりと精霊・・へ――どこからか聞こえる”静寂の言葉ウユララ”へと向けられていた。


 だからこそ、聞こえない者には理解が出来ない。


「……おい、イザベラ。君は今、誰と話している・・・・・・・


 ヒルデの疑念。

 しかしイザベラは意に介さず、形なき言葉へと語り続ける。


「彼らにも分かるはずなんです。きっと。あなたの声を聴き、あなたの姿を見られたなら」

『そうね。きっとそうだわ。あなたと同じように、夜を覗き込んだなら』


 彼女の顔は、いっそ安らかと言っていいほどの微笑みを湛えていた。

 黒く塗り潰された左半分もまた、笑うように僅かな波紋を立てると。


『きっと分かってくれるわ』


 ――波はそのまま、衝撃へと変わった。

 イザベラの顔が歪んだように見えたのは、大気そのものが変形したからで。


 その事実に気付く頃には、セシュナの身体は大きく吹き飛ばされていた。低い軌道を飛び、そのまま石床を刮げるように転がっていく。


「うわっ、ちょ、セシュナっち! 大丈夫!?」

「放せ貴様っ――セシュナ!」


 二つの悲鳴。アシュが動揺した隙を突いてヒルデが拘束を解いたのが、視界の端に映る。


 なんとか勢いを削ごうとする努力も虚しく、最後に一度大きく跳ねて、セシュナは背中から石壁に叩きつけられた。会堂全体が俄に震えるほどの激しさで。

 いくつか内臓が潰れたのではないかと、嫌な予想が頭をよぎる。


「――この魔法マギアに触れたことがきっかけで感染する、ということかしら」

「デタラメにも程があんな、この構成――ヒトが考えるモンちゃうわ」


 続け様に響く銃声と魔法マギア詠唱。

 その余波にさらされて、セシュナはようやく壁から剥がれた。


 自分が床に触れたのを視界の揺れで理解する。

 痛覚が麻痺したのか、さほど痛みは感じない。ただ己の感情だけを力に、床に爪を立てる。震える腕を使って、身体を起こす。


(まだだ。諦めるには、まだ早い)


 今すぐに立ち上がらなければならない。イザベラを止めなければならない。


 あの呪われた黒い怪物を彼女から引き剥がし、滅却しなければ。

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