第2話
「ふう…。疲れた…」
会社の玄関から出てきた春子は、小さく伸びをして空を見上げた。夕方の空はどんよりしているものの、まだ雨は降っていない。
(本当に、今日は大変だった…)
嫌味な上司とちょっとした衝突があり、春子はいつもより疲れていた。
ちくちくと嫌味を言われるのは、直接怒られるよりもきつい。遠回しの悪意よりも、正面から投げかけられる悪意の方が受け止めやすい。思考が嫌な上司に流れそうになるのを、小さく首を振って阻止する。
「よし、ちょっと歩いてかえろう」
もやもやした気持ちを発散するために、春子は速足で歩き始めた。
*
速足で歩くこと約5分。どんよりとした空から、ぽつぽつと雨が降り出した。
あらかじめ用意していた折り畳み傘を広げる。雨上がりの空のような色のそれは、春子の一番のお気に入りの傘だ。
春子は、傘をさして雨の中を歩くのが結構好きだ。雨が傘にぶつかる音と、雨にけぶる世界はこの世に自分しかいないような錯覚を起こさせてくれるから。
(金丸って、意外と夢見がちなんだって言われたな)
学生時代、気になっていた男の子から言われた一言。何の気ない一言の中の、意外とという言葉にショックを受けた記憶がうずいた。
てくてくと、誰もいない道を歩く。いつの間にか霧雨になっていた雨の中を歩いているのは、春子1人だ。
霧雨に、ぼんやりと明かりが浮かび上がっている。無心で歩いているうちに、駅に着いたらしい。
街灯に、少し古びた駅と秘密の庭のアジサイが、優しく照らされている。
青く色づいたアジサイが、霧雨に濡れる様に春子は思わず見惚れた。
「あの…大丈夫ですか?」
「!!!」
ぼんやりと見惚れていた春子は、突然かけられた声に驚き勢いよく振り返った。ブンっと音がしそうなほどの勢いで振り返ると、背の高い男性が目を丸くして春子を見つめていた。
「えっと、あの…。大丈夫です…」
「そうですか、よかった。何か困ったことがあったのかなと思って…」
しどろもどろな春子をみて、男性は優しく微笑んだ。
確かに、雨の中立ち尽くす女性は端から、見たら何か訳アリのように見えるだろう。端的に言うと結構怪しい。
自らの怪しさに気づいた春子は、言い訳をしようと急いで口を開いた。
「あの、秘密の庭のアジサイを見ていて。決して怪しいものではありません…!」
「秘密の庭…?」
焦りのあまり、自分の中の呼称を口走ってしまった春子は後悔した。
(秘密の庭って…。すごく怪しい人だ…)
怪しさの上塗りに落ち込みかけた春子に、意外な一言が降ってきた。
「ああ、あの庭のことですか。素敵な呼び名ですね」
「え…」
「秘密の庭…。そうか、そういう見方もあるんですね…」
ふむふむと感心したように頷いている男性に、あきれた気配は微塵もない。それどころか、むしろ楽しそうに見える。
「あなたの世界は、とても楽しそうですね」
ごく自然に投げかけられた言葉は、じんわりと学生時代のささくれを包んだ。
(きっとあの時、こう言ってもらいたかったんだなぁ。私は)
なんだか、思いがけない場所で報われなかった思いが癒された気がして、春子は思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。…ああ、もうこんな時間か!」
男性はいつの間にか取り出した懐中時計を見て、驚いたような声を出した。つられて春子も腕時計を見る。思ったよりも時間がたっていた。
「すみません。俺、もう行かなくては。また会いましょうね」
春子がはいと答えるや否や、男性は笑顔を一つ残して霧雨の中に消えてしまった。
そのあまりにも唐突な退場に、春子は目を白黒させた。
(また会いましょうって…)
根拠は全くないのに、自信に満ちた言葉に春子は笑顔になる。
「…また、会いましょうね」
こぼれるような呟きは、霧雨の中に溶けていった。
6月の魔法使い すずめ @suzume0406
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