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 まさしく痛みのうただった。

 きずに震える男のさえずり。

 止まらぬ愚者の苦痛の喘ぎ。

 ぽたりぽたりと垂れた血は、地面を湿らせ腐らせた。

 風に吹かれた嘆きの声は、癒しを得られず朽ち果てた。

 絶望の淵で抱いたものは、まごうことなき怒りと憎しみ。

 闇へと向けた咆哮は、やがて虚無へと呑まれて消えた。



 ダイアン・クロウにとって、その日は久方ぶりの有意義な一日となるはずであった。

 それと言うのも、終戦間際に受けた砲撃による重傷で入院して二ヶ月余り。ようやく連絡のついた妹が本日、見舞いに訪れる予定だったのだ。

 唯一の肉親であるアンジーは、凡庸を自負するダイアンにとって、なにより大切な宝物だった。無骨で器量の悪い兄と比べ、やや歳の離れた可憐な少女は、いつも眩しく輝いていた。烏羽からすば色の髪と褐色の肌こそ共通していたが、ダイアンとはちがい、アンジーのそれには生来の艶があり、色付きがあった。内面においても陰気な兄との差は歴然で、朗らかな妹は人からとても気に入られた。

 まわりからは似ても似つかぬ兄妹だと、よくからかわれた。しかし、それが誇らしかった。中にはダイアンへの悪意を込めて嘲笑した者もあったが、そんなことは気にならないほど、彼は妹を溺愛していた。

 ダイアンが成人を迎える少し前に、両親が事故で他界した。彼はなによりも、アンジーの涙に心を痛めた。自分が妹を守らなければ。すでに働きに出てはいたが、決して生活に余裕はない。アンジーの幸せを願う一心で、彼は従軍を決意した。

 別れて暮らすことは身を裂かれるように辛いが、軍に所属すれば納得いく収入が見込める。さらに万一、自分の身に最悪の事態が起きても、補償制度によって得られる金銭で妹を支えることができる。ダイアンに他の選択肢はなかった。

 アンジーをとなり町の教会に預けて戦地へ赴き、数年が経った現在。写真でしか知らない、成長した十六歳の妹に会えるのが待ち遠しかった。

 となり町での生活はどうだ。無理を言って連れ出してしまい、すまなかった。

 半年前の誕生日に贈ったプレゼントは、気に入ってくれたか?

 とにかく、話すことがたくさんあった。

 しかし、すでに時刻は夕方近い。先週末に電話で話したとき、アンジーは今日の朝のうちには顔を見せると言っていた。ここは田舎からずいぶん離れた僻地だから、向かう途中でなにかあったのではと、心配になってくる。

 おかしなことは他にもあった。共用の病室に並んだベッドは普段すべて埋まっているのに、今日に限って自分以外の入院患者の姿がなかった。

 幸か不幸か、戦場を生き延びた傷病兵たち。看護師の尻を追いかけるばかりの軽薄な青年や、殻に閉じこもって一言も発さない少年兵。そして、いまだに自力では立ち上がることさえ難しいダイアンより、遥かに重傷を負っている壮年の兵士。たしかに昨日までいたはずの彼らが、朝起きてからずっと見当たらない。一体どこへ行ったというのか。

 気になって病院側へ訊ねても、やたらと歯切れの悪い言葉しか返ってこなかった。いつもは愛想のいいヤブ医者も、尻と声のデカい看護師も、ひきつった笑みを浮かべるばかりだ。奇妙で、気味が悪かった。

 しかし日が暮れだした頃、ダイアンは同室の兵士たちを気にするどころではなくなる。待ちかねている妹とは別の、ひとりの来訪者があったのだ。

「よおぉ、ダイアン。思っていたより元気そうじゃないか」

 妹の身を案じ、看護師に通話許可をもらおうか悩んでいたときだった。ふいにかけられた声に反応して、病室の入り口を見た。

 なにに気を取られていようと、どれだけ重傷に苛まれていようと、ダイアンは戦場帰りの男である。当然、人の気配には敏感だ。眠ってさえいなければ、周囲の変化を瞬時に察知できる自信があった。それなのに、いつのまにか戸に背を預けて立っていた男の姿を見て、ダイアンは背すじが冷たくなるのを感じた。

 虚を突かれたことと、男の存在そのものに対してと。両方の理由で。

 浅黒い肌をした男は、真っ白い歯を見せて笑った。すこぶる野性味あふれた、凶悪な笑みだ。

「お前と会うのも話すのも、随分と久しぶりだな。同郷のよしみで見舞いに来てやったぜ」

 そう言いながら、男は足音ひとつ立てず、しなやかな所作で近づいてくる。

「ああ。……本当に、久しぶりだ」

 緊張と嫌悪をひた隠して愛想笑いを浮かべることで、ダイアンは仮初かりそめの、不器用なりに最大限の友好の意を示した。


 パイプ椅子に腰かけた男は、自らをウェルダン・ザ・プッシーハンドと名乗った。それがこれからの通り名だと、嬉々として付け加える。

「なかなかイカしていると思わないか?」

「……そうだな。中まで火の通った、あんたみたいなタフガイにお似合いの名前だ」

 その実、男を幼少期から知るダイアンは、幼稚な愛称だと思った。自称ウェルダン氏がいかにもなコードネームを付けてごっこ遊びに興じているようにしか、彼の目には映らなかったのだ。

 建前たてまえを真に受けて、ウェルダンが上機嫌で手を叩く。

「うれしいぜ。お前とこんな風に語らう機会はなかったが、案外と気が合うじゃないか。この名前、自分でも気に入ってるんだ」

 ダイアンは黙って頷いた。

 故郷を同じくする、この男のことが元々苦手だった。より正確に言えば、恐れていた。

 ウェルダンは地域の大人たちから信頼篤い牧師の父を持ち、自身も快活で、多くの者に好かれる少年だった。しかしダイアンはその明るい言動に、たびたび作為めいたものを感じていたのだ。

 己を偽ること自体はなにも問題ない。多かれ少なかれ、誰でもやることだ。ただウェルダンに対しては、ねじけた仮面の裏で脈打つ、尋常ではない悪意への予感があった。ダイアンが同年代であるウェルダンとは対照的に、人付き合いが苦手で孤立しがちだったがための、俯瞰的目線から生じた偶然の気づき。故に理解者はおらず、このことを誰にも話せずにいた。

 不穏への確信を強めたのは、少年期の半ば。地域で悲惨な事件が起きたときだった。

 無害でのろくさい庭師を装っていた戦争帰りの老人が、あるとき、ひとりの少年を襲い、嬲り、最後には絞め殺した。まさしく、人間の皮をかぶっていた怪物。欲望を吐き出したけだものの所業であった。

 客観性に助けられた洞察力においてのみ、ダイアンは他の者より優れていた。すなわち、その事件をある程度、予見していたのだ。

 早くから察していた、一見柔和な庭師を演じる老人の、昏い目の奥の狂気。感覚的な気づきをまわりに説明できる言葉を持たなかったダイアン少年は、事件が起こるまで、ただ怯えて老人を避けつづけた。老人もまたダイアンには興味を示さなかったので、妹さえ遠ざけておけばよかった。怪物の存在自体が恐ろしかったし、いずれ誰かしらの犠牲が出るだろうと思っていたが、自分とアンジーが無事であればよかったのだ。

 そうして過ごすうち、怪物がついに本性を見せる。そして、それを仕留めた者が現れた。被害者の同級生だった、少年時代のウェルダンだ。

 被害者の両親は涙を流して感謝し、誰もがウェルダンを称賛した。勇気を振り絞って怪物退治をやってのけた小さな英雄への、真っ当な反応。

 だがダイアンは知っていた。ウェルダンが老人のもとへ足しげく通い、ライフルの撃ち方を学んでいたことを。

 確証を持てない考えが、頭をよぎる。相手が怪物と知りながら、あえて歪んだ欲望を刺激し、日々挑発してきたのではと。ならば老人は知らぬうち、腹の中で、より凶悪な存在を育てていたのかもしれない。人々に囲まれ喝采を受けるウェルダンを遠巻きに眺めながら、ダイアンは身体の震えを抑えられずにいた。

 事件後は、老人にそうしていた以上に、ウェルダンから妹を遠ざけるべく気を配った。あからさまにはならないよう慎重に、さりげなく。愛しい妹が怪物に喰い散らかされる姿など、考えるだけで怖気が走った。

 自分より少し早く、ウェルダンが従軍牧師として戦地へ赴いたと知ったときは、心底安堵したものだ。その後も戦場で彼と会うことはなく、何年もが経ち、その脅威を忘れかけていた。

 しかし男はいま、目の前に座っている。短く刈った髪と、こめかみの刺青。整った顔立ちと生気あふれる雰囲気は、記憶にある姿よりも、ずっと洗練されていた。魅惑的と言っていい。戦場という非日常に解き放たれ、血生臭い多くを経験した、怪物かもしれない男の現在形。ダイアンは剽悍ひょうかんさを内包して伏せる、野生の大型獣を連想した。

 ダイアンの緊張とは裏腹に、ウェルダンは得がたい仲間と商売を始めただの、首尾よくいっているだの、そんなどうでもいい話題を浮き浮きと言い連ねている。

 表立って反目していたわけではないものの、ほとんど交流のなかった相手からの自慢話だ。それだけでも十分苦痛だが、疑問の方が遥かに大きい。

 なぜこいつが、わざわざ俺の見舞いに?

 戦場帰りの同郷者だからと親近感を抱いたのか。わからなくもない。

 しかし自分がこの病院に入っていることをどうやって知ったのだろうか。アンジーを預けている教会には、牧師であるウェルダンの父も出入りしていない。となり町の教会まで連れていったのは、それが理由だった。故郷から自分の情報が伝わるとは考えにくい。

 そもそも、なぜ、このタイミングで。よりによって、妹の訪問日に。ダイアンはアンジーが予定通りに現れなかったことを幸運に思った。下手をすればウェルダンと鉢合わせしていたかもしれないのだ。

 ほっと息をつく。不吉な予感から目を背け、気づかないふりをしながら。

「そういえば」

 ひとりでベラベラと喋りつづけていたウェルダンが、をはめた左手をもう一方の手で撫でながら、なんでもないことを言うようにつぶやいた。

「うん?」

 顔を上げた拍子に目が合う。そしてうっかり、声を上げそうになった。瞳の奥に、ちろちろ揺れる燐火のようなものが見えたのだ。昏い闇の中で輝く、奇怪な光。ダイアンは目をそらすこともできず、ぎこちない笑みを浮かべたままで、つづきを促した。

「お前の妹は、いくつになったっけな」

 砲弾の影響でいまだに痛みを訴える背中や腰が、電流を流されたように硬直した。あまりのことで咄嗟に声が出ず、ダイアンはただ、ウェルダンを見つめた。

 この男の口から妹の話題が出る。それだけで恐怖だった。

「……どうだったかな。もう、何年も顔を見ていない」

 ようやく絞り出した声でしらを切ると、ウェルダンがさも親しみ深いような笑みを作った。瞳の奥の火は、より一層強くなっている。

「とぼけるなよ。溺愛している大切な妹だろう」

「……戦場に出てからは一度も会っていない。従軍牧師だったあんたはどうか知らんが、俺はいつも激戦地でドンパチしていたからな」

 それゆえの負傷であった。もちろん高額の報奨を期待し、自ら志願してのことだ。

「あんたはどこで――」

「綺麗な娘だった」

 ウェルダンは話題を変えることを許さなかった。アンジーの姿を思い返しているのだろう、うっとりとした表情を浮かべている。恐れと苛立ちで鳥肌が立った。

「健康的な肌が実に俺好みでな。日に照らされてキラキラ光っているのを遠目に見たとき、あの子は天使かと思い違いをしたもんだ」

「どうでもいいだろう、妹のことなど」

「あと、無垢な笑顔が印象的だった。ああ、そうだ。そういえば、よく笑う子だったな」

 怒気を孕んだ制止の声など聞こえないかのように、男は喋りつづける。とにかく、どうにかしてアンジーの話を切り上げたい。過去最大の、猛烈に嫌な予感がした。

「うっすら青みがかった黒髪もつややかでなあ。ずっと触ってみたかったんだが……」

「……ウェルダン」

 初めて口に出して、男をその名で呼んだ。内心では馬鹿にしていたはずの、風変わりな愛称。しかしいつのまにか、普通ではないこの男にぴったりの異名だと思うようになっていた。

 ダイアンの言葉に、ウェルダンが笑みを深める。そしてふいに真顔となって、よく通る声で言った。

「お前、いつもアンジーを俺から遠ざけていただろう?」

 全身が強張る。身体中に流れていた脂汗が、一瞬で冷めたくなった。

 ダイアンは声が震えないように、顔と首に力を込めた。

「なんのことだ」

「いやいや、いいんだ。いまさら隠さなくていい。さほど特別なことじゃない。お前が俺になにかを感じていたように、俺もお前のやっていることに気づいていたってだけの話さ」

 カラカラと笑うウェルダンは、本心から楽しそうだった。一方、ダイアンは愕然とするばかりだ。

「お前のやってきたことは、たぶん正しい。あの庭師のじいさんに対してもそうさ。下手に事を荒立てたって、いいことなんてない。自分と自分の大切なものさえ守れたんなら、それが正解だ」

 ダイアンは入院してすぐのとき、看護師から愛銃を取り上げられたことを悔やんだ。銃さえあったなら、この身体が自由に動いたなら、いますぐこの男に一発かましてやるものを。

「だけどな。遠のけられると、逆に欲しくなるのが人間の心理ってもんだぜ」

 もはやウェルダンは獰猛な牙を隠そうともしていなかった。ダイアンが敵意を剥き出しにしているのと同じように。

「なにが言いたい?」

 自慢の妹。可憐な少女。なにより大切な宝物。今日、見舞いに訪れるはずだったアンジー。

 

 疑問の答えはすぐ目の前にあった。

「ああ、本当に。つくづく綺麗な娘

 瞬間、ダイアンは身を起こした。ほとんど全身を巡っている傷の痛みなど忘れていた。強引にウェルダンへ飛びかかる。正確には、飛びかかろうとした。

 どういった原理が働いたのか。ほんの少し胸を押されただけでダイアンの身体はふわりと浮かび、ベッドに倒れ込んだ。スローモーションのように、ゆっくりと。呆然となる。戦場を駆けぬけた兵士が彼我の力量差を悟るには、十分すぎる一撃だった。

「落ち着けよ。話の途中だぜ」

「妹はどこだ」

 絶望を打ち消さんと、唸るような声でダイアンは言う。燃える瞳でウェルダンをめつけ、半身を起こしたまま拳を震わせた。

 銃なりナイフなりを隠し持っておかなかったことを心から後悔していた。予期せぬ特異な技か、あるいは規格外のフィジカルかを持つこの男に通じるかは別として。

「まだ、俺たちが始めた商売の内容を教えていなかったな」

「妹はどこだ」

 のんびりした口調のウェルダンに、質問を繰り返す。答えろ。答えろ。質量すら持ち得そうな怒気が、全身から溢れ出た。

「名目上は一応、畜産業ってやつを営んでいるんだ。そう聞くと故郷の牛や豚が懐かしくなるだろう? しかし俺たちの場合、扱うブツが特殊でな」

「妹はどこだ」

 破顔して語る男と、殺意の塊となって詰問する男。いびつなコントラストが場の狂気を膨張させる。

「こいつがまた、意外と需要のある代物なんだ。従業員一同の趣味と実益を兼ねた、冴えたビジネスなのさ」

「妹はどこだ」

 頑ななダイアンを、ウェルダンが鼻で笑った。一向に答えが来ぬまま、話はつづく。

「除隊してすぐ、まず景気づけに、メンバー五人に所縁ゆかりのある商品を仕入れようと考えたんだ」

「妹はどこだ」

 肌に伝わる凶事への予感を信じない。そうだ、ちがう。アンジーは無事だ。いまも顔をほころばせながら、俺との再会を楽しみにしてくれている。

「初めは仲間の妹をさらった。そもそもこのビジネスを思いついたのも、そいつが妹の皮膚を自分の身体に移植したいと言い出したのがきっかけでな。で、みんなで仲良くパーツを分け合った後、ひとつ残らず売っぱらった」

 イカれた怪物たちの、怖気おぞけ立つ宴。その顛末。正気ではない。男も、男の仲間たちも。

「俺の妹はどこだ」

「次が別のメンバーの元女房だ。そいつは元女房の刳り貫いた眼球だけじゃなく、あけた穴でも楽しんでいた」

「アンジーをどうした」

 聞いていたくなかった。想像したくもなかった。自分の妹も、なったなど。それでも、訊かずにはいられなかった。

「そうやって仲間同士の絆を深めていった先、最後が俺だ。彼らとちがって、特に思い入れの強い相手なんていなかったんだが……ふと思い出してな。そうだ、あの子がいた。目敏めざといお兄ちゃんに守られた、かわいらしい女の子が……ってな?」

「……ウェルダンッ」

 ダイアンは今度こそ殴りかかろうとした。しかし機先を制される。ことり、と音を立てて、ベッド脇のキャビネットの上に置かれたものがあったのだ。ダイアンはそれを見て目を見開いた。見覚えのある、銀細工の小さなブローチ。

「十六歳の誕生日プレゼントだってな。戦地にいながら、よくそんなことを気にする余裕があったものだ。アンジーもうれしそうに語っていたよ」

「俺の……」

 俺の妹に、なにをした……?

 荒い呼吸が一層、激しくなる。喰いしばった力で、奥歯が砕けそうだった。気が触れそうな怒りで、もはや言葉を紡ぐことさえ難しい。

 ウェルダンが、さも同情するかのような表情になった。長年仮面をして生きてきた男の演技は、芝居くささを滲ませた大仰な仕草が加わることで、見る者の怒りを深めた。

「会いたかったか? そうだよな。売却前に、一部だけでも持ってくるべきだった。本当にすまない。俺たちは完璧な猟犬だから、喰い残しは出さないんだ」

 この話が目の前の男の妄想であったなら。ブローチという物証が幻であってくれるなら。ダイアンは喜んで命をもドブに捨てるだろう。だが現実だった。唐突に突きつけられた、悲惨な現実。

「ああ、そうだ。幸い、アンジーは全員でパーツを共有したから、それでよければ会わせてやることはできるぞ。髪と皮膚。目玉。指。乳房。それらを移植した仲間をここに呼んでやろう」

 やさしげ。親しげ。そしてなにより楽しげな口調だった。

「もし別の人間のものと間違えても、そう気落ちすることはない。それぞれ異なるフェティシズムのコレクションだからな。素人に見分けは難しい。とにかく我が〈誘拐犬バンダースナッチ〉カンパニーにとっての、素晴らしい余興になる」

 ダイアンは心の中で、神に向かって吼えた。なぜ、こんな男の存在を許すのかと。

「心配するな。シスコンのダイアンお兄ちゃんなら、きっと切り取られたものを探し当てられる。それに喜べ。俺が移植したパーツは彼女のものだけなんだ。これに限っては、失敗しくじりようがないのさ」

 ウェルダンが左手を掲げてみせた。そちらの手にだけはめられた、真新しい黒の革手袋。金の鎖が手の甲で、小さく音を立てて揺れた。

「アンジーの前にも、試しにいろんな国をまわって物色してきたが、こいつは最高の逸品だった。まさに求めていたオンリーワンだ。お気に入りのかわいい子猫プッシーキャットさ」

 言葉の意味を汲み取れず困惑するダイアンに向かって、ウェルダンは真白い歯を剥き出しにした。

「仲間が来るまで待つつもりだったが……。やはり、いま見せてやろう」

 こらえきれなくなった様子のウェルダンは、手のひらを向けてみせた。そして手袋の中央に付いた、銀色のジッパーをじらすようにゆっくりと引き下ろす。

 その中にあるものを見て、ダイアンはかつてないほど目を見開いた。そして喉が裂けんばかりに絶叫した。

 ウェルダン・ザ・プッシーハンド。その名の由来。移植されたかわいい子猫プッシーキャット。切り取られた女の部分。

「ほら、どうした喜べ。感動の再会だぞ」

 ダイアンは視界が歪むのを感じた。猛烈な吐き気に襲われた。彼にとってのすべてが、いまこのとき、永遠に失われたのだ。

 それからの三時間余り。どれだけ大声を出そうが泣き喚こうが、ウェルダンと、後から来た彼の仲間たちが哄笑を上げながら去っていくまでのあいだ、やたらと愛想のいいヤブ医者も、尻と声のデカい看護師も、けっして誰ひとり、この病室に入ってくることはなかった。



「あのとき、俺の人生は終わった」

 薄暗いバーの片隅で、ダイアンは隣に座る老人に言った。

「妹だけが、俺の人生だった。唯一守りたいものだった」

 老人がグラスに入った安酒をあおり、つまみを口に放り込んだ。普段は無口なダイアンが、こうなると延々喋りつづけることを知っているのだ。

「あいつらは俺のすべてを奪った。アンジーを奪った。いや、実は俺が差し出したんだ。下手に奴から遠ざけたりしたもんだから、逆に怪物を引き寄せちまった」

 この数年、何度となく口にしてきた言葉。誓いを守れなかった惨めな男の、哀れな懺悔。

「後からすぐ現れた男どもも、みんな身体に妹のを付けてやがった。それぞれ、どこがどう気に入ったかを俺に語って聞かせるんだ。ご親切にも、解体したときの音声を流しながら」

 老人が眉間の皺を深めた。聞くに堪えないという表情だ。

 ダイアンは身を震わせて思い返していた。あのときの地獄を。

「ずっと疑問だった。連中が、なぜ俺を生かしておいたのか」

 喰い残しはない。現場での目撃者も出さない。すぐれた五匹の〈誘拐犬〉。なのにダイアンの命は奪わなかった。

 普通ならば反応を楽しんだあと、消すべきだと誰もが考える。いや、奴らに普通という価値観をあてはめようとすること自体、馬鹿げているが。

 老人が口を開いた。

「お前さんは、商売を始めたばかりだった連中に広告として利用されたのさ」

 ダイアンは頷いた。それが苦悩の果て、導き出した答えだった。

 痕跡は残さず、しかし惨劇に嘆く被害者は存在するという混沌。ダイアンの苦痛は、凶悪な獣たちにとって恰好の宣伝となったのだ。そしてアンダーグラウンドに巣食う者たちの気を引くレクリエーションは、実際に成功を収めた。バンダースナッチ・カンパニーは、この都市でいまも実務に励んでいる。

「奴らは怪物だ」

 ショックで半ば白くなった頭髪を撫でつけながら、ダイアンは言った。老人が相槌を打つ。

「そいつは疑いようもない」

「なあヨーク。どうやったら、俺はあいつらを殺せるんだろうな」

 老人――ヨークに訊ねる。自然とねだるような、懇願するような口調になった。

 ヨークは退役軍人の情報屋だった。全身に刻まれた皺と白髪、小さな体躯からは判別しにくいが、すぐれた戦闘技術を有している。この歳でも鍛錬を重ね肉体を錆びつかせていないのは、弱いというだけで命取りになることを重々知っているからだ。頼りになる古強者は、ダイアンの貴重な相棒だった。

 ウェルダンたちへの復讐心に駆られてこの都市に辿りついたとき、味方はひとりもいなかった。協力を仰いだ多くの人間から袖にされた。悲嘆にくれるダイアンに唯一手を差し伸べてくれたのが、この老人だったのだ。

 ダイアンはヨークの温情にすがった。彼も同情し、力になってくれた。ヨークの情報と制止がなければ、仮にウェルダンらを見つけても、間違いなく返り討ちに遭っていただろう。

 バンダースナッチ・カンパニーに所属するメンバーの経歴。機械化実験部隊ギニー・ピッグの精鋭たち。従軍牧師にすぎなかったはずのウェルダンは、そこで部隊長にまでなり、数々の武功を挙げていた。

 取るに足らない一兵士だったダイアンが敵うはずはない。なにより恐ろしいのは、奴らが群れで行動するということだ。五匹の猟犬の牙をかいくぐる方法など、存在するのだろうか。

 力ずくでは太刀打ちできぬと悟っても、ウェルダンらの処罰を法的機関に委ねる気はなかった。そもそも警察や委任事件担当官が有能であったなら、猟犬たちがのさばることもなかった。妹に悲劇は起こらなかったはずなのだ。

「連中の起こす事件がさほど目立たないのは、より危険な悪魔の存在に、みんなが注目し、そして怯えているからさ。でなきゃ警察も、もうちょっとマシな仕事をする」

 ヨークの言う悪魔がなにを意味しているのかは、すぐにわかった。この都市に来てからたびたび耳にする、凶悪な傭兵の噂だ。

「また例の都市伝説じみた奴らの話か? カトル・カールとかいう」

 暗殺、拷問、誘拐、脅迫――暗黒の業務の〈四分の一カトル・カール〉をこなす謎の集団。まことしやかに囁かれる逸話は、どれも信じがたいほど残虐で、容赦のないものばかりだった。

「少し前にも、売り出し中の委任事件担当官たちが、奴らとぶつかったって話だ」

 くだらん。ダイアンは内心で毒づいた。ヨークらしくもない。そんな与太話になんの意味があるのか。水をかけられ、すっかり酔いが醒めてしまった。

「へえ、そうかい。どっちにしろ、俺は噂に尾ひれの付いた小悪党だと思ってるがね。あの糞犬ども以上にイカれた連中なんて、いるはずがない」

 ヨークが強張った顔で「さあ、どうだろうな」と言いきる前に、ダイアンは立ち上がった。

「今日は帰るよ。新しい、使える情報が入ったら知らせてくれ」

 出口へ向かおうとしたところで、後ろから声を投げかけられる。

「思ったのさ。怪物に怪物をぶつけるって手もあるってな」

 振り返ってヨークを見つめる。くすんだ顔に付いた目は、真剣そのものだった。

「近いうち、また会おう。そんときゃお前さんの喜ぶ話を聞かせてやれるかもな」

 ダイアンは答えず、そのまま店を出た。

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