閑話1 空と海
「うみ?」
ある休日の午後、合崎の部屋で読書をしていた私は、隣に座った合崎が放った聞き慣れぬ単語を繰り返した。
「そう、海。スノードームの外の世界には、どこまでも広がる塩分濃度の高い水たまりがあるらしい」
「何のためにあるんだ、そんなもの……」
塩分濃度の高い水など、どういう用途で用いるのだろう。確かに生命の維持に塩分は必須だと理解しているが、塩水として摂取しようとは思わない。
「詳しいことは書かれていないが……」
合崎は立ち上がりキッチンの方へ向かったかと思うと、ガラスのコップに入った水と塩の入れ物を持ってきた。開かれた古書を参考にしながら、何やら水に塩を入れて溶かしていく。
「まあ、だいたいこんな物か。海とやらとだいたい同じ濃度の塩水がこれだ」
「……お前は思ったより知識に貪欲だよな。柊と気が合うんじゃないか」
案外、合崎は次期軍師なんていう酷な運命を背負わされていなければ、第二帝国学院へ入学して研究者なんかになっていたかもしれない。叶わなかった未来を想像しながら、そっとコップに口をつけてみた。
「……っ美味しくない」
「そりゃそうだろ」
飲むとは思わなかった、と言いたげな目で合崎は私を見てくる。当たり前だが塩辛いことこの上なかった。合崎に手渡された別のコップに入った水を飲みながら、一息ついた。
「憐は本当に馬鹿だな」
言葉とは裏腹にどこか愉し気な笑みを浮かべる合崎は、私がコップを持つ手に自らの手を重ねながら、不意に距離を縮めてきた。少しだけ驚いたように合崎を見つめれば、彼は不敵な笑みを見せる。
「何だ? 離してほしいのか?」
もちろんそうだ。妙に近いこの距離感は、あまり落ち着かない。普段銃を向け合っている仲なのだから当然だろう。
合崎は間近で私の顔をじっと観察していた。毎日見ていて飽きているだろうに、まるで初めて見るものに向けるような丁寧な視線に戸惑ってしまう。不思議な魅力のある黒い瞳から視線を逸らせば、合崎がふっと鼻で笑うような気配がした。
「照れているのか。憐は制服を着ていないといくらか素直なようだな」
私は唇に触れる合崎の手を振り払いながら、小さく溜息をつく。
「お前は距離が近くなったよな。それもこれも真琴と付き合ってから……」
自分で言いかけて、その先を言い淀んでしまった。もう、あの少女はこの世にいないのだ。合崎の手で、命を奪われたのだから。
今更それを蒸し返して合崎にどうこう言うつもりはない。あれが合崎の使命だったことも痛いほど理解している。それでも、真琴を失った感傷は時折私の心を苦しめて、言葉を奪うのだ。
「確かに、それは否めない。曲がりなりにも一度恋人を得たことで、人に触れる抵抗感が無くなったのかもしれない」
さらりと問題発言をする合崎を横目に、盛大な溜息をついた。これではまた合崎の信者が増える一方ではないか。今でさえ、悪趣味な女子生徒たちが合崎に憧れの眼差しを向けているというのに。
「成程な。いいことを聞いた、私も参考にさせてもらうとするよ」
心が合崎に囚われているからといって、合崎と何を約束したわけでもないのだ。学生らしく、恋人の一人や二人作ってみるのも人生経験かもしれない。それならば柊に告白したときに押し切ればよかったのではないかと言われればそれもそうなのだが、一度柊の手を取ってしまったら離れられる気がしなかった。戯れの相手にするには彼はあまりにも中毒性がある。
「……参考? 待て、何する気だ?」
不意に合崎に左手首を掴まれ、彼の顔を見上げる。先ほどまでとは打って変わって真剣味を帯びたその表情の理由が分からない。
「別に、何もしない。ただ、学生らしく恋人でも作るのも悪くはないと思っただけで――」
「相手は?」
「え?」
「柊か? 学院の生徒か?」
「何だよ、急に」
「答えろよ」
合崎の瞳の奥に、仄かな怒りを見た気がして一瞬言葉に詰まる。咄嗟に言動を振り返ってみるも、彼の気に障るようなことを言った覚えが無かった。このまま喧嘩になったら厄介だ。私は今、完全に部屋着の白いワンピース姿で、銃はおろかナイフすらも持っていないのだから。素手で合崎に勝てるわけがない。
「……落ち着けって、何も休日まで争わなくてもいいじゃないか」
「誤魔化すな、答えろ、憐」
支配者の風格を醸し出してくる合崎に、ますます訳が分からなくなる。本当に、休みの日まで厄介な奴だ。
「もしも憐の相手が学院の生徒なら、是非とも手合わせ願いたいところだな。俺に負けているようでは、憐の隣に立つ資格はない」
「お前……学院首席がそれを言ったら誰も敵わないだろ。大人げない奴だな」
戦闘技術では上級生をも凌ぐ合崎なのだ。教官でさえも、合崎に勝てるとはとても思えない。
「『兄』らしく妹の心配でもしているのか? 全く、お前がその調子では私は学院内で恋人など望めそうにもないじゃないか……」
仮に恋人になりたいと思える相手が現れたとして、合崎に目をつけられていてはあまりに可哀想だ。第一帝国学院に入学している以上、将来は帝国軍で働くことを希望している生徒が大半のはずなのに、その未来の上司に睨まれていては先が思いやられる。
「つまり、そういうことだ」
合崎はどこか満足げに笑うと、ようやく私の手首を放した。思わず再び溜息をついてしまう。
「……これでは私に恋人など一生できないかもしれないな」
別にそれでも構わないが、合崎が経験していることを私が経験していないというのは何だか悔しい気もする。下らない競争心だと言われればそれまでなのだが、何となく不貞腐れてしまった。
「そんなに恋人がほしいのか?」
機嫌が治ったように感じた合崎の声が再び曇る。それどころか、先ほどより悪化している気がした。これは面倒なことになりかねない、と慌てて合崎の方を振り向く。
「いや、別にそういう訳でもない。ただ、経験の差でお前に見下されるのが腹立たしいだけだ」
合崎はどこか納得いっていないような目で私を見つめると、不意に私を引き寄せて笑った。
「相変わらずの負けず嫌いだな、憐は」
「煩いな、お前も充分わかってることだろ」
学院に入って来た時からずっと、私は合崎に勝とうと必死なのだ。負けず嫌いは今に始まった話じゃない。
「憐はそのままでいい」
「何だよ、急に」
休日の私は素直だと合崎は言ったが、彼も大概じゃないか。合崎は言動こそ制服を着ているときと変わらないが、行動は随分違う。普段は無闇に私に触れてくることは無いが、休日はどうもこうして触れ合う機会が多い気がしてならない。悪い気はしないが、こちらの身にもなってほしいものだ。
「海と空は同じ色をしているらしいぞ」
不意に、合崎がそんな突拍子もないことを言い出した。開いた古書の影響だろうが、海も空も何なのかよく分かっていない私に言われても、反応に困ってしまう。
「何のためにもならない知識だな……」
無駄な知識などないとはいえ、この先一生使わなそうな雑学だ。何なら外の世界に関することだから、公の場では口に出来なさそうな類の知識じゃないか。
そもそも、空兄様と同じ名前を持つ「空」とやらが何色をしているかも知らないのだ。そこに更に「海」なんてものの知識を加えられても戸惑うだけなのだが、「空」と同じ色を持つというのは何だか羨ましく思えた。
「……私の名が海だったら、合崎に似合いの次期軍師だったのかもな」
「海」という文字も「空」と同様に意味の無い文字だが、名前に使われていることは多い。憐という名前は柊がつけてくれたのだから勿論気に入っているが、もしも合崎と同じ色を持つ名前だったなら、彼のことをもう少し理解してやることが出来たのではないだろうか。名前に意味などないと分かっているのに、そんな非科学的なことを考えてしまう。
「名前なんてどうだっていい。心配しなくても、俺の隣に立てるのは憐だけだ」
「それは随分な買いかぶりようだ。せいぜい訓練を怠らないよう気を付けるとするよ」
言葉では可愛げのないことばかり言ってしまうが、私を相方として認めてくれているのは、素直に嬉しい。合崎ほどの実力者に信頼されて喜ばない学院の生徒はいないだろう。私も例外ではなかった。
「何も戦場に限った話はしていないんだが……」
どこか不満げな合崎の声に、軽く顔を上げて彼の瞳を見つめる。
「他に何かあるのか?」
合崎は軽く溜息をついて私をしばし見つめると、軽く頬をつねるようにして私を引き離した。頬に走った鈍い痛みに僅かな苛立ちを覚える。
「これだから鈍感は厄介だ」
そう言って合崎はテーブルの上のコップに手を伸ばした。瞬時に記憶を辿ってどちらが「海」と同じ濃度の塩水か判断し、咄嗟に声を上げる。
「っ合崎!」
それは塩水の方だぞ、という言葉は紡がれることはなかった。合崎が苦々しい顔をして、私に視線を向ける。
「あと一秒早く言ってくれないか、憐」
「無茶を言うなよ」
お互いの視線が絡み合い、僅かな沈黙が訪れたかと思うと、やがてどちらからともなくくすくすと笑い出した。とてもじゃないが、平日は銃を握っている人間の行動とは思えない。可笑しくてたまらなかった。
でも、たまにはこんな休日も悪くないかもしれない。思いがけず未知の「海」とやらに笑わせてもらった。相変わらずその姿形も色のよくわからないままだが、スノードームの外に今もあるであろう「海」とやらにひそかに感謝しながら、また一つ合崎との思い出を完全な記憶の中に刻み付けたのだった。
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