第193話
「……綺麗」
最上階は街を一望できるように、開放的な造りになっていた。壁や窓はなく、バルコニーのように四方が柵で囲まれており、そこから身を乗り出せば街行く人の姿が見える。高さで言えば「白」の方がずっと高いが、「白」周辺には中枢機関ばかりが集まっているので面白みのある建物は一つもなく、このように身を乗り出して街を見下ろせるような開放的な造りの部屋もなかった。
それに比べてここは絶景だ。真琴に案内してもらった噴水も見える上に、巨大な「白」を正面から見ることもできる。ふわふわと漂う電子広告もまた、この景色に花を添えていた。空気が僅かに流れを作っているようで、亜麻色の髪がふわりと揺れる。
「憐、向こうに水族館も見えるよ」
「本当だ。遠くから見るとあんな形なんだな」
水族館はまるで魚を模ったような曲線的なフォルムをしており、帝国にしては可愛げのある建物を作ったものだとふっと笑ってしまう。「白」の本当の姿や「影」との戦いの最前線さえ知らなければ、この帝国は確かに理想郷なのかもしれない。そう思えるほどに、今日巡った街は優しく満ち足りた世界だった。
時計塔の巨大時計を見上げれば、もうじき17時になろうとしていた。もう、夕刻なのか。夢のような一日は、あっという間に過ぎていく。
「憐は、時計塔のジンクスを知ってるかい?」
私に倣うように柵に身を預け、柊が悪戯っぽく笑う。思わず、目を見開いてしまう。意外だ。柊がこんな非科学的な話を持ち出すなんて。
「昨日、柚原先生から聞いた」
「なんだ、先を越されたか」
柊は苦笑するように街行く人を見下ろした。たったそれだけのことでも、この横顔は絵になるのだから困る。
「ハルは学生時代、女子から散々ここに誘われていたようじゃないか。それを断っていたんだって?」
「余計な話までしたな、あいつ……」
小さく溜息をつき、柊は私の方を見つめた。その長い指が、亜麻色の髪に伸ばされる。
「あの頃は、家で可愛い天使が二人も待っていたからね。寄り道なんて滅多にしなかった」
本当に私たちは溺愛されていたようだ。よい「兄」を持ったものだとつくづく思う。けれど同時に胸を締め付けるものがあるのも確かだった。
「勿体ないな。ハルはこんなに素敵なのに」
「憐にそう言われると照れちゃうな」
一瞬の間、遠くで光る電子広告を眺めながら、私はぽつりと呟いた。
「……本当は、舞さんといつか来たかった?」
自分から踏み込まないようにしていた領域に、初めて触れる。一瞬の間が、ふわりと空気と共に流されていく。
「……どうだろう。あのまま一条家に何も起こらず、平穏な学院生活を続けていれば、あるいは、いつか……」
その言葉は最後まで紡がれることは無かった。柊は儚げな笑みを浮かべて、私の顔を覗き込む。
「憐こそ、ここに一緒に上りたい人はいないのかい?」
まあ、いたらいたで妬けちゃうんだけど、と小さく笑う柊の横顔に、私は告げた。
「ハル、かな」
「え?」
「私がジンクスを聞いたうえで、ここに一緒に上りたいと……そう最初に思い浮かんだ相手は、ハルだった」
私は柵から身体を離し、柊に一歩詰めよる。あれほど私の心を悩ませていた感情を口にしようというのに、私は驚くほど穏やかだった。きっと、自分自身でもう割り切れているからなのだろう。
柊は私の真剣な表情を見て何やら察したのか、彼も同様に柵から身体を離して私に向き合う。私は更に一歩詰めより、彼の両手にそっと触れた。そっと彼の顔を見上げれば、色素の薄い瞳がどこか戸惑ったように揺れていた。
ああ、綺麗だな。本当に、きれいで、やさしくて、何物にも代えがたい。
「ハル、私は恐らく……お前に恋をしているのだと思う」
その言葉と共に脈が早まるが、不思議と言葉だけは平静だった。ひどく驚いたように目を見開く柊に、私は笑うように続ける。
「柊が、教育係として私の目の前に姿を現したあの日……なんて綺麗な人なんだろう、って思ったんだ。きっと、そこからずっと憧れていたのだと思う。ハルの優しさに触れて、慈しまれる喜びを知って……憧れは段々と形を変えていった」
自分で言っていて、そうだったのかと気づく。そうか、私は再会したあの日から、この優しくて綺麗な人に惹かれていたのだ。
「……ハルと血が繋がってないと聞いたとき、どうしてか私は安心したんだ。この想いは許されるものだった、と。……そこから、気づき始めた。この想いの正体に」
「……憐」
柊が困惑の表情を浮かべた。それはきっと、私の目に涙が浮かんだからだろう。温かい手が頬に添えられる。
このまま、このままこの先を言わなければきっと、この優しい人は私を受け入れてくれる。愛してくれる。でも、でも――――。
「――でも、駄目なんだ……。私はハルに恋している、それは間違いないのだけれど……それ以上に、あいつがっ……あいつが、私の心を蝕むんだっ……」
囚われたまま、息もできない私の心。本当はずっと、苦しくて仕方が無かった。耐えきれないといように、両目から涙が溢れ出す。
「ハルに、恋をして……そのまま恋人にしてほしいと願えたなら、どんなに良かっただろう。そんなに綺麗な心なら、どんなに幸せだっただろう……。こんなにも、ハルに恋をしているのに……私の心は囚われたままなんだ。あいつの、せいでっ……」
柊は困惑の中に慈愛の色を浮かべた。そのままあやすように私の頭を撫でる。その仕草が今の私にはあまりにも温かすぎて、余計に苦しくなる。
「……空の、ことだね」
今にも泣き崩れそうな私を抱きかかえ、柊は驚くほど静かな声で呟いた。それを恋した相手に改めて言われると、胸が痛くなる。現実を見せつけられたようで、息もできなくなる。
私が合崎に向ける感情は、柊に向ける恋心とは比較にならないほど難解で、醜いものだ。間違っても、恋、なんていう美しい感情で片づけられるものではない。そんなにシンプルで素敵なものだったなら、私たちはもっと幸せだったはずだ。
恋しい、憎い、愛おしい、殺したい、消えてなくなればいいのに離れたくない。慈愛と憎悪、恋情と殺意あらゆるものがぐるぐると渦巻き合った、名前の付けられない感情だ。相反するものが多すぎて、時折心が壊れてしまいそうになるほどに強い想いだ。
それが合崎に対する感情だった。いや、私が感じたことのある想いを全て、あいつは奪っていったのだ。それは、心が囚われていることと同義ではないのか。
「ハルが好きだ。でも……空兄様がいる限り、私はあいつから離れられない。どうしても……どうしても無理なんだ」
「分かってる。君たちは、切っても切れない。この先もずっとそうだろう」
柊は言葉通り、全て分かっていたような落ち着きだった。本当は幸せな結末を迎えることだってできたはずなのに、私はこうして嗚咽を漏らすことしか出来ない。
「……僕はね、憐、君のそばにいられるなら、それがどんな関係でも構わないんだ。兄だろうと、教育係だろうと、恋人だろうと、手の届く場所に君がいればそれでいい。君が望む役割で振舞うのが僕の幸せなんだよ。憐が誰と結ばれようと、僕が君を愛していることに変わりはないからね。君が望むならいくらでも恋人としての役割を果たすけれど……こんな歪んだ愛は、君の美しい恋情には見合わないだろう」
改めて、柊の愛の深さを知る。きっと、彼の言葉に嘘はない。私が彼に兄を見ればやさしく触れてくれるのだろうし、教育係を見れば、どこまでも導いてくれる。そして、恋人として見れば、溺れるほどに甘やかしてくれるのだろう。恐らくそれは愛の形としては異常なはずなのに、不思議と何の抵抗もなく彼の言葉は心に入ってきた。
歪んでいるのはお互い様か。どこか自嘲気味な笑みと共に、確かな恋の終わりを確信した。
きっと柊はこのまま私が合崎から逃げても、恋人としていつまでも私を愛してくれるだろう。私はそれで寂しさが満たされるし、関係性に拘らない柊にとっては私を愛する日々が続くだけだ。そんな歪んだ日々を夢見なかったわけではないが、それではいけない、と心の中で何かが叫ぶ。
この恋は、終わらせるべきだ。胸が抉られるように痛むが、それが最善なのだと頭のどこかで分かっていた。
お互いこんなにも深く想いあっているのに、何だか妙な話だ。柊も同じことを想ったのか、どこか寂し気にふっと微笑んでいた。
「泣かないで、憐。君に恋してもらえるなんて、僕はとても幸せだよ。……関係性には拘らないつもりでいたけど、少しだけ欲張ってみたくなるくらいには、嬉しかった」
ぼろぼろと涙を流す私の頬に、柊はそっと口付けた。そっとそれで涙は止まるはずなのに、なぜだか、今日の涙は止まってくれない。柊は再びどこか寂し気な笑みをみせると、そっと私を引き寄せた。私は無我夢中で柊のシャツを握りしめる。
「……っ恋は終わっても、愛は終わらないからな。私はいつまでも、ハルのことが大好きだからなっ……」
「分かってる。僕も君を愛してるよ、憐」
強く、柊の腕に抱きしめられる。私も彼の背中に腕を回した。
同時に時計塔の鐘が鳴り響く。あまりにもドラマチックなこのシーンは、傍から見れば恋人同士が抱き合っているように見えるだろうか。少なくとも誰も、恋の終わりの瞬間だなんて思わないのだろう。
信じられないほど、美しい初恋だった。綺麗で儚い恋だった。この想いだけはきっと、誰にだって奪われない。私だけの、かけがえのない、
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