第194話(合崎視点)

 白と黒の制服が白行き交う学院の連絡通路の途中、ぼんやりと俺は人を待っていた。ここからは階下のホールがよく見渡せる。昼休みというだけあって、学院内は活気にあふれていた。


 そんな学院の空気と相対するように、俺の心は沈んでいた。ここ最近はずっとそうだ。息をするのも苦しいような、重い空気がずっと纏わりついている。


 保健室で見た、憐の涙を思い出した。透明で、何より綺麗なあの涙に触れた指先をそっと見つめる。憐は、あのときどうして泣いていたのだろう。彼女が涙を見せることなんて、滅多にないというのに。


 自分の知らないところで、自分には分かりえない理由で憐が泣いていたことに、あのときは無性に腹が立って仕方が無かった。彼女の心をあそこまで揺すぶるものは何だろう。知りたいと願うと同時に、その存在を疎ましく思ってしまう。相変わらず狭量な自分の心に嫌気が差した。憐のこととなるといつもそうだ。


 涙の理由を聞こうにも、憐は明らかに俺を避けている。「白」にいても最近は滅多に顔を合わせない。何かを憂うような憐の表情を盗み見たことは何度もあったが、その彼女に寄り添うのはいつだって柊だった。


 憐が柊を頼る姿を見ていると、どうしてか胸が痛む。自分の出る幕はないと悟ってしまうほどに、あの二人は似合いだった。流石、一条邸で4年間は共に暮らしていただけのことはあるのだろう。


 共に過ごした時間ならば、俺の方がずっと長いはずなのに。もっとも、そんな風に不貞腐れてみたところで、憐は離れていくだけだ。日々、焦るような気持ちが生まれていた。このまま憐が離れて行ったら、いつか本当に息もできなくなる。依存だと言われればそれまでだが、今に始まった話ではない。

 

 ああ、早く、あの満ち足りた穏やかな日々に戻りたい。憐と軽口を叩き合うだけの、何でもない平穏な日々が最早懐かしかった。


「合崎先輩」


 もう聞き飽きた、明るく澄んだ声が俺を呼び止める。咲よりも、少しだけ活発な雰囲気を感じさせる声だ。


「お待たせしました」


「……ああ」


 声の方へ振り返れば、ショートの黒髪をきちんと整えた黒川真琴の姿があった。身長は咲と同じくらいで、笑った顔も咲によく似ている。学院の生徒たちによれば、俺は黒川真琴に黒川咲の面影を見ているだけらしいが、それを納得せざるを得ないくらい、真琴には咲の面影があった。こんな出会い方をしていなければ、確かに俺は真琴を可愛がったかもしれない。 


 黒川真琴の登場で、周囲の視線が一気に俺たちに集まるのが分かった。憐の傍を離れ、こうして黒川真琴と親しくするだけで、こんなにも学院の注目を集めてしまうのは予想外だ。息苦しく、不快でならない。大勢の視線はあの「実験」の一か月を思い出すからどうしても嫌いだ。


「今日もお昼はマフィンなのですね」


「そうだな」


 俺と黒川真琴が恋仲であるという噂は、このところ学院内の最注目トピックのようだった。軍人養成校のくせに、意外に俗っぽいところがあるものだと笑ってしまう。


「駄目ですよ、栄養バランスが崩れちゃいます」


「そういう真琴だって、いつもココアを飲んでるじゃないか」


 他愛もない話をしながら笑みを取り繕えば、仲睦まじいと噂されるのだから楽なものだ。これほど事が順調に進むなんて思ってもみなかった。


 ただ、この間仕掛けた決定的な場面が噂になっていないのは不思議だった。わざわざ学院の廊下で恋人同士の真似事をしてみせたあのとき、確かに息を潜める生徒の気配があった。ガラスに映った白いスカートからして、あのキスシーンを見ていたのは女子生徒であるはずなのに、まるで噂は広まっていない。噂が嫌いな珍しいタイプの女子生徒だったのか、周りに信じてもらえるような立場に無かったのか知らないが、これでは体を張った甲斐が無い。俺と真琴は親密な仲なのだと決定づける噂が広まることで、二人きりの場面が増えると思ったのに残念だ。


「見て見て、合崎先輩と黒川さん」

「素敵ね。あの二人だけ、世界が違うもの」

「私は合崎先輩と一条さん推しだったんだけどなあ……」


 こうして歩いているだけでも、嫌でも噂話は耳に入ってきた。わざわざ確認しなくてもいいから助かるが、それにしたって注目しすぎているような気はする。「次期軍師」という肩書が与える影響を甘く見ていたのかもしれない。


「私も絶対一条さんがいい! 合崎先輩と釣り合うのは、一条さんしかいないって」


 噂話で聞く限り、生徒たちの中で憐の評価はなかなか高いようだった。彼女に憧れを抱くものは少なくないらしい。


 優しい亜麻色の髪、白い肌、美しく可憐な声。その穏やかで綺麗な姿に誰もが目を奪われるのだが、一度銃を手にすれば、穢れのない凛とした瞳で敵を狙い撃つのだ。引き金に指をかける仕草さえも優美で、思わず見惚れてしまうほど。それが、「一条憐」なのだ。人気があって当然である。


 加えて憐は人前ではあまり笑わないが、基本的に心優しい。本人は自覚していないのだろうが、訓練中、憐に「大丈夫か?」などと声をかけられた生徒たちは完全に心を奪われている。天然のたらしというのも困ったものだ。


 憐には、人を依存させる才能がある。本人の意識していないところで、次々と周囲の者を依存させていく。現に、俺や千翔、柊がいい例だ。


 あるいは、憐の家系がそうなのかもしれない。怜さんも、「影」の信者たちの洗脳に一役買っているくらいなのだから。信者たちの「アザレア様」に対する崇め方は病的だ。もしもシアンが怜さんのその才能を見抜いて、彼女を一条邸から連れ去ったのだとしたら大したものだと思う。見事、怜さんの才能の恩恵にあやかっているのだから。


 帝国軍が憐を次期軍師にしたのも、もしかすると似たような狙いがあるのかもしれない。「何も忘れられない」という能力だけならば、別に次期軍師でなくともよかったのだ。それこそ、「白」の主となる院長候補として育てたって良かっただろう。憐の能力だけを考えれば、むしろそのほうが筋は通っている。


 でも、帝国はそうしなかった。憐を「次期軍師」として軍の象徴にすることで、憐への依存を忠誠を勘違いさせ、軍人たちの士気を高める。加えて俺や柊を帝国に繋ぎ留めておく切り札にもなる。憎々しいくらい鮮やかな手法だ。その巧妙な策に嵌って、俺はこうして帝国に忠誠を誓うしかないのだから。


「じゃあ、今、一条さんフリーってこと?」

「何……お前狙うつもりなの」

「あんな高嶺の花、お前には無理だって」

「万が一、ってことがあるだろ? 一回でいいから、名前で呼んでみたいよなあ……」


 廊下の壁に寄りかかりながら、数名の男子生徒たちがそんな話をしていた。噂が多いということは、こういった下世話な話も多いということだ。対象が俺や真琴であれば別にいいのだが、憐について語られるのは耳障りだ。神聖なものを穢されているような不快感を覚える。


「……っ」


 不意に、噂をしていた男子生徒たちがこちらを見て言葉を詰まらせていた。その表情には明らかな怯えの色が浮かんでいる。


「――合崎先輩?」


 隣から黒川真琴に声をかけられ、ふっと我に返った。真琴は怪訝そうな表情で俺を見上げている。


「どうした?」


「……いえ、彼らを睨んでいたようなので」


「睨む?」


 無意識の内に、彼らに敵意を抱いていたらしい。油断するとすぐに素が出てしまう。悪い癖だ。


「少し、眩しかっただけだ」


 我ながらよくわからない言い訳をすると、黒川真琴は困ったような表情に笑みを浮かばせた。その笑い方は、咲に似すぎている。独りで過ごそうと突っぱねていた俺を、人の輪へ導こうとしていたときの咲は、よくそんな表情をして笑っていた。

 

「ごめんなさい。先輩が憐と過ごす時間を奪ってしまっているようで」


「何をらしくないことを言っているんだ。真琴の隣にいることを望んだのは、むしろ俺の方なのに」


 笑顔を取り繕えば、黒川真琴もどこか安心したように笑った。その表情は本当に自然で、僅かに戸惑ってしまう。黒川真琴の正体を知っているだけに、そんな自然な表情が出来ることに動揺を覚えてしまうのかもしれない。


「私は幸せ者ですね」


 そう言って微笑む黒川真琴の横顔を見ていると、一瞬だけ、俺のしていることは正しいのかと疑ってしまいそうになることがある。間違いなく黒川真琴だって俺の真意に気づいてるはずなのに、その上でそんな風に笑えるのだから強かな女だ。


 黒川真琴は黒川真琴で、俺の隙を狙っているのだろう。泳がせておくよりはこうして手元に置いておいた方がマシだという、俺と似通ったような理由でこの関係を続けていることは明らかだ。お互いに茶番だと理解しているのに、こうして「恋人」を演じ続けるなんて本当に馬鹿らしい。時折笑い出してしまいたくなる。


 だが、「恋人」という立場は便利だ。学院公認の「恋人」同士に首を突っ込もうとする輩はそうそういない。二人きりの瞬間が増えれば増えるだけ、この密命を果たすチャンスが与えられるのだから、これほど美味しい立場はない。


 帝国軍から直々に受けたこの密命。それは誰にも知られずに、果たされなければならない。最後まで真相は誰にも知られてはいけない。


――いや、正確には、真相を知る生存者を一人も出さなければいいのだ。本当に腐った命令だと、一人自嘲気味に笑う。こんなこと、憐にだって知られたくない。


 早くこんな日々は終わらせてしまいたい。憐の隣へ帰りたい。そう願うのならば、やるべきことはただ一つ。


 出来るだけ迅速に、確実にこの密命を終わらせるのだ。


 あらゆることが手遅れになる前に。

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