第191話

 翌日。


 いつもは制服のネクタイを結ぶときにだけ見る姿見の前に、私は昨日買った水色のワンピースを着て立っていた。翡翠色の刺繍は照明があたるときらりと光る技巧の凝らされたもので、スカートがふわりとなびくたびに人目を誘う。私に似合うかは別として、単純にこのデザインは気に入っていた。


 いつか真琴に贈ってもらった髪飾りをつければ、そこに普段の殺伐とした私の姿はない。姿見に映るのは、これから始まる一日に思いを馳せる、どこにでもいる一人の少女だった。


 そっと姿見に触れ、鏡の中の自分と目を合わせる。今日、私はこの想いをはっきりとさせることができるだろうか。この胸の内を、柊に打ち明けることが叶うだろうか。


 ふと、来客を知らせる電子音が鳴る。柊が迎えに来たのだ。私はもう一度だけ服装と髪形をチェックして、それからドアの方へと駆けだした。







 一日ぶりの街は、当然昨日とそう変化を見せることもなく、今日も平穏な日常が溢れているようだった。街の中心部に浮かぶ巨大な電子広告も、柚原先生が説明してくれた翡翠というモデルのままで、整然とした街並みが続いていく。


 それなのに、昨日と何も変わらないはずなのに。私は妙に早い脈を落ち着かせることで精一杯だった。その原因は、隣を歩く「兄」にある。


 今日の柊は白衣も黒衣も纏っておらず、シンプルなシャツ姿で首元も少しだけ開けていた。彼の鎖骨辺りに刻まれた番号のことを考えると、襟の付いた服以外は着られないのかもしれないが、それでも堅苦しい印象を与えることなく、柊の持つ優し気な雰囲気を最大限に引き立てていた。それに、休日らしく第一ボタンを外しただけなのに、色気がすごい。もともと人の目を引く容姿をしているというのに、余計に目が離せなくなってしまう。


 それは道行く人も同じようで、柊は人々の視線を根こそぎ奪っていた。昨日も似たような光景を見た気がするが、やはり昨日よりは女性の視線を強く感じる。柊と柚原先生が並んで街を歩いた日には、一体どうなってしまうのだろう。遠くから見る分には面白そうだが、そんな場面には絶対に立ち会いたくないと思った。


「やけに静かだね?」


 隣を歩く柊が、私を見下ろしてふっと笑う。もう駄目だ、今日の柊は何をしていても素敵だ。顔を覆いたくなるような衝動に駆られるが、ワンピースをぎゅっと握って我慢する。


「い、いや……人が多いな、と思って」


 まさか、私服姿の柊が素敵すぎて見惚れていたなんて言えるはずもなく、誤魔化しにしてはあまりにも下手な言葉を口にした。


「今日は休日だから、みんな外出するんだろうね。……やっぱり、人混みは苦手かい?」


 どこか心配そうな意味合いを含んだ柊の視線に、私は首を横に振った。得意ではないが、彼に気遣ってもらうほどでもない。


「大丈夫。今日は、ハルがいるからな」


「嬉しいことを言ってくれるね」


 不意に柊の手がそっと私の頬を撫でると、そのまま手を差し出された。


「はぐれたら困るから手を繋ごうか?」


 どこかからかうような調子だったが、私は迷うことなくその手に自分の手を重ねた。今日くらい、いや、今日だけは、次期軍師としてではなく一人の少女としての感情を優先させたい。


「じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 繋いだ柊の手は温かく包み込むようで、緊張するはずなのに安心感も覚えてしまう。柊は私が素直に手を握ったことが意外だったのかしばし驚いたように私を見ていたが、すぐにどこか嬉しそうに顔を綻ばせた。その笑みは、溜息が出そうなほどに綺麗だった。







「……すごいな!」


 私は巨大水槽の前で目一杯顔を上げて、半ば興奮気味に口を開いた。ガラスの向こう側には、優雅に泳ぐ巨大生物の姿がある。


「こんなに大きな生き物がいるなんて!」


 そう口にすると、隣で私を見守っていた柊がくすくすと笑った。水槽の青く仄暗い光が、彼の非現実感を一層助長していた。


 私たちがまず向かっ先は、帝国唯一の水族館だった。昔、柊が私の両親に連れられてやってきたのもこの水族館だ。柊にとっては思い入れの深い場所らしい。


 この水族館は、建物自体が大きな水槽のようなもので、その中にガラス張りの通路が張り巡らされているといった構造だ。休日ということもあって、水族館はかなり混んでいたが、それが気にならないほど魅力的な生物が展示されている。生きている魚など初めて見るだけに、魚たちの予想外の泳ぎ方や、照明を反射して煌めく鱗の色が私の目を楽しませていた。


「あれはクジラという生き物みたいだよ。僕も、初めて見たときは興奮したよ」


 隣で解説してくれる柊の目に、一瞬だけ懐かしむような色が混じった。恐らく、私の両親のことを思い出しているのだろう。私の両親の死は、今も柊の心に深い傷跡を残しているようだ。それはこの先も変わらないのだろうということは、簡単に予想できた。


 思わず、柊の頬に触れる。触れなければ消えてしまいそうな儚さが、彼にはあった。目を離したら、どこかへ行ってしまいそうだ。


 柊と目が合うと、いつものように慈しみのこもった目で微笑まれる。柊は彼の頬に触れた私の手を取ると、別のブースに向かって歩き始めた。


「向こうへ行ってみよう。確か、とても可愛い生き物がいるはずだよ」


「ああ」


 柊に導かれるまま、私は非日常の光の中を歩いた。このまま、この時間がいつまでも続けばいい。そんなありきたりな願いを抱くくらいには、私は柊との「デート」を楽しんでいた。







「これは……なんて愛らしいんだ!」


 ガラス張りの壁の向こうに展示された、白くふわふわとした毛並みの小さな生き物を見て再び興奮してしまう。くりっとした黒目がまた庇護欲をそそるものだ。胸の奥がきゅっとなる。


「これはアザラシの子どもみたいだね。僕はこれを見て、可愛いってどういうものなのか知ったよ」


 それはいい。この生き物は「可愛い」の代表格ではなかろうか。こちらを見ていても、ころりと寝そべっていても、何していても可愛い。帝国の安寧と平和が、この生き物の生存を許しているとするならば、柄になく帝国を称賛したい気分になってしまう。


「憐は……相当気に入ったようだね?」


「ああ、これは誰だって気に入るだろう。魔性の生物だな、これは」


 テンションが上がっていたせいか、柊との距離を気にせずに彼の方へ向き直ってしまう。予想以上に至近距離に彼の顔があり、一気に頬に熱が帯びた。慌てて一歩引こうとするも柊の手が頬に添えられてしまい、逃げる間もなく頬に口付けられた。


「っハル! べ、別に今私は泣いてないだろう!」


「いやー、近くに憐の顔があったから、つい」


 悪びれる様子もなく、柊は余裕たっぷりに微笑む。彼にとっては何気ない行動なのかもしれないが、私にとっては「つい」で済まされる問題ではないのだ。本当に、柊は私の心を搔き乱すことを得意としているらしい。ずっとこんな調子では、いつか私は溶けてしまうのではないだろうか。

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