第23話

「遅かったじゃないか」


 合崎の部屋に入るなり、レモンティーの香りが鼻腔をくすぐった。部屋の主は空中に半透明のディスプレイをいくつか表示させて、ソファーに座りお茶を嗜んでいる。


「柊のところへ文句を言いに行っていたんだ」


「相変わらず、仲がよろしいことで」


 彼はティーカップを持っていない手でディスプレイを操作しながら、片手間に私と会話をしていた。まったくもって失礼な奴だ。


 私は彼の隣に隙間を空けながら、ソファーに腰を下ろした。ディスプレイには、音森財閥研究所の見取り図や、「企業見学」の日程表が表示されている。


「……それで? 何かわかったのか?」


「思ったより厄介だな……」


 彼はそう言って、ディスプレイを私の目の前へと移動させた。


「明日、俺たちは、この『自由見学時間』で作戦を実行することになっている」


 合崎の長い指が、ディスプレイ上の日程表を指した。時間にしてちょうど1時間、各班での自由行動と記されている。


「柊は、この自由時間開始から5分後に講演会を行う。――監視カメラのハッキングもその講演会と共に開始される」


「つまり、私たちが比較的自由に行動できるのは、自由行動開始5分後からの10分間か……」


 改めて口にしてみると、短い。最上階を目指す私たちにとっては絶望的な数字だった。


「10分あれば、恐らく、最上階に辿り着き、メインコンピュータのあるデータ管理室に侵入することは出来るだろう。データ管理室のドアを開けるパスコードは、ハッキングで手に入ったらしいからな」


 「白」の技術者は大したものだ。民間企業とはいえ、音森財閥は帝国有数の大企業なのだ。当然、セキュリティも帝国トップクラスの水準だろう。それを破ってみせるとは、見事としか言いようがない。


「データのコピーと送信には、どんなに長く見積もっても5分程度しか掛からない。だが、柊が研究員たちの気を引いてくれるのは先ほども言ったように、自由時間開始5分後からの10分間だけだ」


 合崎の深い色の瞳と目が合った。事の重さを改めて実感する。


「つまり、データ管理室からの帰り道は、生ぬるいものではないと言いたいわけだな」


 極端な話、データ管理室から退室するまでに、音森財閥が信者の巣窟であると認定され、私たちに射撃許可が下りていた場合には、銃撃戦になる可能性すらあるということだ。


「……そういうことだ。データ管理室自体は、基本的に無人のようだから問題ないとしても、管理室から出るときは大問題だ」


「最終的にはどこを目指すんだ?」


「2階だ。連絡通路は2階にしかない」


「……随分、閉鎖的な造りだな」


 普通、20階以上の高さのある建物には、大体5階毎くらいの頻度で連絡通路がある。高層ビルの持ち主は大企業であることが多く、子会社が周りに立ち並ぶため、行き来を円滑に行うための工夫だ。


 音森財閥研究所は、最上階が30階である。一般的な例に倣えば、5つか6つほどの連絡通路があってもおかしくはないのだが、たった1つしかないとなるとますます怪しく思えるというものだ。


「データ管理室から出た後は、研究員たちの目を盗んで安全なエレベーターまで移動する必要がある」


 彼は、管理室から最寄りのエレベーターまでの道のりを指で追った。曲がり角なども存在するので正確な移動距離は分からないが、直線距離にすると100メートル程度だ。


 この程度ならば、仮に銃撃戦になったとしても私たちであれば何とか逃れられる距離ではあるのだが、ある懸念を抱いた。


「研究員たちの目を上手く盗んで移動できたのならともかくとしても……既に研究所のどこかで銃撃戦や何らかのアクシデントが発生していた場合には、エレベーターは危険じゃないのか?」


「ああ、俺もそう思う。このエレベーターは中央エレベーターと名前がついているくらいだから、相当目立つだろう。乗れたとしても、降りるときに狙い撃ちにされてはたまらない」


 合崎はそう言いながら、別の見取り図を表示した。5階の様子が描かれている。


「だから、降りる階の工夫も必要だろう。5階は幸いにも、大きなプロジェクトが終了した後のようで、人が少ない。エレベーターで直接2階を目指すことはせずに、一旦5階に立ち寄るのが賢明だ。少々危険だが、5階からは階段を使えばいい」


 確かに、階段でも移動はできるだけ避けたいポイントだ。高低差があるだけに、銃撃戦になると思わぬ負傷をする可能性が高まる。30階から階段を利用するのはあまりにも危険だが、5階からならば多少リスクは軽減されるだろう。


「賛成だ。……ちなみに、他のエレベーターの候補はないのか? 5階で降りるといても、目立つ中央エレベーターはリスクが高すぎる」


 合崎は再び最上階の見取り図を取り出し、順番に指を指していく。


「今ある候補としては、5つある。1つ目は、今言った中央エレベーターだ。距離は近いが、目立つ欠点がある。2つ目は、司令官室前。ここは人が多いので避けたい」


 彼は、入り組んだ研究所の構造の中で指をスライドさせていく。


「3つ目は緊急管理室前、4つ目は警備室前。……これらも同様に駄目だ」


 そうして彼は、管理室から少し離れたスペースで指を止めた。


「そして5つ目。休憩室内の職員用エレベーターだ。ここが最も利用されていないようだ。精々、清掃員たちが一日に一度乗る程度で、研究員たちは滅多に使わない。しかも幸いにも、明日は清掃も『企業見学』前には済んでいる」


「……これしかないな」


「ああ、決まりだな」

 

 管理室から職員用エレベーターまでは直線距離にして500メートルほどだ。通路が入り組んでいることが幸いだった。死角が多くなれば、素人相手ならば人の気配に敏感なこちらが圧倒的に有利だ。


 彼は、明日辿るべきルートを赤線でなぞり、端末に取り込んでいた。程なくして、私の端末にも見取り図が送られてくる。


「……帝国は、生徒の命を何とも思っていないらしいな」


 ふと、合崎はディスプレイ上に表示された見取り図を見据えて笑う、ディスプレイの淡い光は、彼の深く暗い瞳を一層際立たせていた。


 彼のその不安定さから目を逸らしながらも、私も同じ思いだった。ターゲットがはっきりとしている私たちでさえ、この労力だ。巨大な数々のフロアの中から、たった一つの部屋を見つけるべく奔走する第一班から第三班は、一体どうなるのだろう。


 私は3階から地下にかけての見取り図を表示させ、ざっと流し見する。空き部屋、または物品庫とされている場所を怪しいとみるならば、全部で6か所あった。


 仮に10分間で目的の部屋を捜し出すことが出来たとしても、帰り道はどう考えても危険だった。礼拝所とされる部屋を私たちが見つけたと知ったら、信者である研究員たちはどうするだろう。嫌な予感ばかりが脳裏を過る。


「他の奴らの心配でもしているのか?」


「……そこまでの力量じゃない。それに、優秀な人たちばかりだ。そう簡単に死ぬまいよ」


 私は吐き捨てるようにそう言って、ディスプレイを消去した。今放った言葉に嘘はない。私には、他の人を気遣えるほどの力量はないのだから。


 不意に、視線を感じて顔を上げると、合崎と目が合った。抗う間もなく、その瞳の暗い光に捕らえられる。


「――憐は、優しいな。軍人なんか勿体ないくらいに」


「……なんだよ、急に」


 その真っ直ぐな視線から逃れるように、私は苦笑いしてみせた。こうして不意に名前を呼ばれるのは、何度繰り返されても慣れない。


「明日、不安じゃないと言えば、俺は嘘つきかもしれない」


 ふっと、彼の表情が痛々し気な笑みに変わる。深い歪みを感じさせる表情だった。


「――戦場の痛みや悲しみが、憐を壊してしまうことが何より怖い」


 返す言葉もなかった。彼は、私自身見て見ぬふりをしてきたことを躊躇いもなく指摘したのだから。


 軍人として生きていく以上、痛みも悲しみも、時として仲間の死さえも避けられない運命にある。


 それが一秒も欠落することなく降り積もっていったのならば、私の心はどうなるのだろう。ただでさえ乏しい感情や思いを、これ以上失うのは怖かった。


 けれども、そんなことをどうして口に出せるだろうか。私の一生は、「軍師」として生きることに定められている。どうせ抗えはしないのだ。


 それならばいっそ、たとえ強がりに過ぎないとしても、毅然として立ち向かっていたかった。そんな思いを胸に抱いて、私は無理やり笑ってみせる。


「……馬鹿だな。何だよ、そんなこと。もうこれ以上堕ちる場所もないだろう」


 自分でも白々しく思えるほどの言葉を、作り笑いで騙る私は、彼の目にどれだけ醜く映っているのだろう。静寂が私たちを包み込んだ。


 彼は一瞬、苦し気な表情を見せたかと思えば、やがて曖昧に笑ってみせる。


 憂うような彼の目と、その暗い光が、痛いくらいに目の奥に焼き付いていくようだった。

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