第18話
白い軍服調の制服に袖を通し、姿見の前で青いネクタイを締める。入学直後は上手く結べなかったネクタイも、今ではすっかり見られるようになった。
肩のあたりで跳ねた亜麻色の髪を手櫛で直し、余裕を持って部屋を出る。「白」から学院までは歩いて15分ほどの距離にあるが、今日は30分以上の余裕があった。
いつもはなんやかんやで合崎と登校時間が重なり、共に学院に向かうことが殆どだが、流石の合崎もこんなに早く支度しているわけがない。今日は一人で優雅に向かおうと廊下に出た矢先、目に飛び込んできたのは学院の黒い制服姿の彼だった。
朝から紙媒体の書類に食い入るように見入っている。病み上がりの彼の横顔には、まだどことなく疲労が残っていた。目の下にもうっすらと隈が残されている。あれだけの高熱を出したのだから、二日で完全回復というわけにはいかなかったのだろう。
寝不足ならば、時間の許す限り眠っていればいいものを。何を思って早起きしているのかは知らないが、顔を合わせてしまった以上は一緒に登校する他になさそうだ。
「朝から浮かない顔だな、何の書類だ?」
紙媒体ということは非公式のものなのだろう。学院からの通知というわけでもなさそうだ。
彼は私の声にようやく顔を上げると、不機嫌そうな顔でその紙を破り捨てた。そうして、睨むように私を見据える。
「……別に、何でもない」
合崎は、いつかの私のようなことを言ったかと思えば、背を向けて歩き出してしまった。あいつの心の動きはいつも読めないが、今日はいつもにも増して酷い。まだ体調が万全ではないせいもあるのだろうか。
破り捨てられた書類の残骸の一部を拾おうと、屈みこんだ瞬間、ふっと影が落ちる。見上げれば、白衣を羽織った柊が、端整に微笑んで私を見下ろしていた。もっとも、どことなく含みのある笑みだったが。
「おはよう、憐。それは僕が片づけておくから、空と一緒に行くといい」
有無を言わせぬ言い方だった。やむなく私は姿勢を正し、柊を見上げる。
「二人して、私に何を隠しているんだ?」
「隠しているって程ではないけど、この件は空に任せたくてね。憐は何も気にしなくていいよ」
柊にそう言われてしまっては、聞き出しようがない。すっきりとしない気分のまま、私は足早に合崎の後を追った。
昼休みの開始を告げるベルが鳴る。喧騒に包まれた教室の中で、私は一人溜息をついた。
手首に白い包帯を巻いた音森の取り巻きたちが、今朝から事あるごとに私を睨んでいる。流石に手負いの状態で私を迫害する気にはなれないのか、珍しく今朝は何事もなかった。
大方、次は何をするか考えている最中なのだろう。この間の件で、おとなしくなるかと期待しないわけではなかったが、憎々し気に私を見る彼女たちの様子から察するにその可能性は限りなく低そうだ。
そんな中、音森が立ち上がったかと思うと珍しく一人でこちらに向かってきた。取り巻きたちが動けないのなら、彼女一人でも事を起こすつもりのようだ。その行動力を、もう少しプラスの方向に活かせなかったのだろうか。
今度はどんな言いがかりをつけてくるだろう。視線を伏せて、どのような対応を取るべきか思い巡らせた。
「憐」
不意に響いたその声は、喧騒を切り裂くようにして私の耳に届いた。本来ならば、ここでは聞くはずのない声だ。驚いて顔を上げれば、教室のドア付近に背の高い男子生徒の姿がある。
「……合崎? なんで、ここに」
「一緒に昼食を摂るぞ」
ともに昼食を摂ることなんて、いつものことだ。だが、合崎がわざわざ私の教室にまで足を運んだことなど、今まで一度もなかった。次期軍師として名を馳せている合崎の突然の登場に、私を含め教室中が戸惑いを隠しきれていない。
何よりも、合崎が公の場で私の名前を呼んだことが、私にとっては最大の驚きだった。どことなく、恥ずかしくもある。それに、こんな光景を見せつけられては音森が黙っていないだろう。
「……わざわざ迎えに来なくても、今から向かうところだったのに」
「迎えに来なきゃ、憐が何されるかわからないだろ」
彼は、軽くドアに寄りかかるようにして意味深な笑みを見せた。たったそれだけで、教室の空気が凍りついたように静まり返る。その視線は、まっすぐに一人の少女を射抜いていた。
「なあ、そうだろう? 音森楓さん?」
低く冷たいその声は、まるで死刑宣告のように響き渡った。合崎と共に過ごしてきた時間が長い私でさえ、僅かに寒気を感じるほどだから、クラスメイトたちは震えるレベルだろう。
合崎は今、間違いなくこの空間の支配者だった。彼が姿を現してからほんの数十秒で、教室にいる人間は完全に彼の目に捉えられてしまったのだ。
合崎は支配者としての稀代の才能を持っている。悔しいが、それは紛れもない事実なのだ。
「……妹に、何か用かな」
鋭い視線で相手を見つめたまま、冷笑を浮かべ追い詰めていくそのスタイルは柊譲りだ。嫌な部分ばかり似たものだ。
「妹に話があるなら、訓練室で聞こうか。……無事に戻れるかは、また別の話だけどな」
音森の取り巻きの何人かは、既に今にも泣きだしそうなほどに怯えていた。流石に音森本人は、そのような情けない姿を晒すことはせず、唇をキュッと結んで悔しさに耐えている。
「それから、靴も返して貰おうか。今日の午後の訓練までに、完全に元の状態にして、だ」
彼は、どこまで把握しているのだろう。そうな疑問が過ってふと、今朝合崎と柊が私に隠したがっていた書類のことを思い出した。まさかあれは、一連の私に対する嫌がらせについての報告書だったのだろうか。調査したのだとしたら、柊と彼の手のものだろう。仕事の合間を縫って二日でここまで調べ上げる柊の有能ぶりには、ただただ感心することしかできない。
「……これ以上、妹を傷つけないでくれ」
そう言うなり、合崎は私の方へ歩み寄り、何の前触れもなく手を取ると教室を後にした。痛いくらい強く握られた右手から、彼の低い体温が伝わる。私たちの姿は廊下でも注目を集めていたが、彼はそれすらも目に入らない様子で人気のないラウンジを目指した。
「……合崎、もういいだろ。離せ」
ラウンジへ繋がる階段の途中で、二段上を上る彼の背中に告げた。彼はその場で足を止めると、ようやく手を離し私を見下ろす。ただでさえ身長差があるのに、階段のせいで余計に彼との目線の差が際立った。
「今朝の書類は、音森たちについてのものだったんだな」
それとなく視線を逸らす合崎は何も言わなかった。恐らく、その沈黙が答えなのだろう。
やがて口を開いた彼は、ぽつりと尋ねた。
「……憐、なぜ言わなかった?」
今度は私が言葉に迷う番だ。私が隠していた理由なんて、彼にとってはほんの些細なものなのだろうが、どうしても全てを話す気にはなれない。
「もう子どもじゃあるまいし……いちいち報告することもないだろう。それに、あのくらい何てことはなかった」
同じ次期軍師なのに、彼の境遇とあまりにかけ離れていることを知られたくなかったとは言えなかった。結局のところ、彼にこうして庇ってもらうことでしか事態を収束できなかった自分の不甲斐なさを噛みしめる。
合崎は、一段降りて私の頬に手を伸ばすと、三日前に負った傷をなぞった。まだうっすらと跡は残っている。彼の冷たい手の温度が、少しくすぐったかった。
「まあ、もうないと思うが、次があったらちゃんと教えてくれ。……これでも、心配したんだ」
まさか、この学園に合崎に逆らってまで私を虐めようとする命知らずはいないだろう。次があることを想定するなんて、杞憂でしかない。
「お前が私を心配するとはな。余計なお世話もいいところだ」
軽口をたたきながらふっと笑うと、傷跡の残る頬を思いきりつねられた。この切り傷よりも赤く跡が残るのではないだろうか。まったくもって乱暴な奴だ。
「……その様子なら、大丈夫だな。心配して損した」
ようやく彼の手が離れた頬に触れ、軽くさする。切り傷よりよほど痛むではないか。
「それから、音森のことについては、また別件で話がある。『白』に帰ったら時間をくれ」
一方的にそれだけ伝えると、彼はさっさと階段を上り始めてしまった。紳士の片隅にも置けない奴だ。こんな奴が学院の人気者であるだなんて、やはり腑に落ちない。
きっと、この学院の価値観が狂っているのだ。そう思い込むことにして気持ちを切り替えると、彼の後を追うようにラウンジを目指した。
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