第17話
久しぶりに、気分の清々しい朝を迎えた。白いベッドの上で伸びをしながら、欠伸を噛み殺す。特別、何かに決着がついたわけではないのだが、なぜだか心が随分と軽い。不思議なこともあるものだ。
端末を確認してみれば、一時間ほど前に柊からのメッセージが入っていた。どうやら朝から執務室に呼び出されたようだ。すぐに向かうという旨の返信をして、朝の支度を整えた。
白いワンピースに袖を通し、カーディガンを羽織る。制服を着るよりはずっと楽だ。端末をポケットへしまい、白い廊下を歩いて執務室を目指す。
「おはよう、憐。今日は顔色がいいね」
柊は執務室に入室してきた私を見るなり、にこにこと微笑む。
「空と、何かあった?」
昨日と同じ質問だが、その声音は随分と違うものだった。私は苦笑いして、革張りのソファーに座る。
「別に。私たちはどうしようもないと改めて思っただけだ」
「でも、その思いがいい方向に転がっているようだね。今日は空の調子もだいぶいいんだ」
道理で柊も上機嫌なわけだ。過保護な彼のことだから、心配でしょうがなかったのだろう。
「それで? 休日の朝から何の用だ?」
「これを空に届けてほしいんだ」
そう言って柊は、装飾の施された皿に乗ったチョコレートマフィンと、揃いの柄のティーセットを指し示す。まだ湯気がたっているから、運んできたばかりなのだろう。
「ここに運ぶくらいならば、直接合崎の部屋に届ければよかったじゃないか」
「何かしら理由をつけなければ、憐は見舞いに行かないだろう? 空はまだ朝食を摂っていないようだから、一緒に食べるといい」
まったくお節介な教育係だ。私は軽く溜息をついて、チョコレートマフィンとティーセットの乗ったトレーを両手で持った。
「ありがとう。助かるよ、憐」
柊の嬉しそうな笑みを見ていると、睨む気もなくなるから不思議だ。上手く彼の掌の上で転がされているような気がしてならないが、今日に限ってはそれも悪くないだろう。私はティーセットの中身が零れぬように細心の注意を払いながら、合崎の部屋へと向かった。
本人証明をパスして、遠慮なく合崎の部屋へ入り込む。薬品の匂いは、殆ど消えていた。ベッドサイドに吊るしてあった点滴も、撤去されたようだ。
「……一条か」
普段通りの無愛想な面で、合崎は私を認めるなり呟く。昨日の熱に浮かされた姿は幻だったのではないかと疑うほどに、彼は「いつも通り」だった。暇を持て余しているのか、ベッドの上で読書をする始末だ。
「柊に頼まれたから、朝食を持ってきてやった」
「相変わらず可愛くない奴だな。病人相手にもそのふてぶてしい態度じゃ、治る病も治らないぞ」
「感謝の一つもできないようなら、一生寝てるがいいさ、愚か者め」
本当に、拍子抜けするほど「いつも通り」の私たちだ。トレーをベッドサイドのテーブルに置き、睨むように合崎を見つめる。この様子だと、彼は昨日のことなどきれいさっぱり忘れているらしい。
「……忘れるとは、まったくいいご身分だな」
「何の話だ?」
怪訝そうにそう言ってから、ふと、合崎が私から目を逸らす。珍しく、その視線は泳いでいた。
「……まさかとは思うが、昨日は俺たち会ってないよな」
「会ったぞ」
合崎が、曖昧な笑みを見せ、そっと私の様子を窺う。やたらと焦るような素振りを見せる彼は新鮮だった。
「一条に、何か言ったか……?」
「ああ、言ったとも。それも、普段のお前ではとても言えないようなことばかり口にしていたなあ」
明らかに優位に立っているこの状況は満更でもない。口元がにやけるのを押さえることは出来なかった。
「お望みならこの私が、一言一句違えず繰り返してやろうか?」
「……頼むから、忘れてくれ」
「無理難題を押し付けるなよ。それができるなら、私は今頃こんなところでお前とお茶なんかしていないさ」
深い溜息をついて、合崎は頭を抱え込んだ。言い争いで彼に勝つことはなかなかないので、良い気分だ。ポットから紅茶を注ぎ、角砂糖を入れてゆっくりと味わう。実に清々しい朝だ。
ひとしきり、頭を抱えて羞恥に悶えていた合崎だったが、何とか朝食を食べる気になったらしく、チョコレートマフィンを口に運んでいた。食欲もあるようで何よりだ。
一方の私はいつになく上機嫌で、油断すれば柄にもなく鼻歌でも歌ってしまいそうな勢いだった。そんな私を、時折憎々し気に合崎が見つめるものだから、ますます優越感に浸ってしまう。
「……そういえば、髪切ったんだな」
チョコレートマフィンを完食した合崎は、ぽつりとそんなことを言う。私は、肩のあたりで少し跳ねた亜麻色の髪をつまんだ。
「お前にしてはよく気付いたな。褒めてやるよ」
「よく似合ってる」
普段の会話のリズムで吐き出された突然のその言葉に、思わず口をつぐんでしまう。まだ熱が引いていないのだろうか。
「幼稚園児みたいに、些細なことで優越感に浸る一条の精神年齢にはぴったりだな」
いつになく爽やかな笑顔でそう言ってのけると、彼は紅茶を口に運んで、見下すように私を見た。その余裕綽々という言葉の良く似合う所作が、いちいち鼻につくのだ。
ここに銃があれば、銃撃戦に発展してもおかしくないほどの苛立ちを覚える。本当に憎たらしい奴だ。思えば、あの合崎がただ私に一方的に冷やかされて終わるはずがなかったのだ。油断した私も悪い。
「傷も、ほとんど消えたようでよかったじゃないか。見目だけが唯一のとりえなのに、跡が残ったら目も当てられないもんな」
そう言って馴れ馴れしく私の頬に触れる合崎の手は、私よりも冷たい。ちゃんと熱は下がったようだ。
その反動なのか、私に対する皮肉はいつもより切れ味を増している。トレーの上に乗った銀のナイフで刃傷沙汰になる前に、この場を去ったほうがお互いのためだろう。
「随分と調子がよさそうだな。もう、見舞う必要もないだろうから私はこれで失礼するぞ」
「ああ、そうしてくれ。一条と無益な争いを繰り広げるよりは、読書でもした方が行く行くは帝国のためにもなるというものだ」
「愛国心が強いようで何よりだ。洗脳の賜物かな?」
「『白』で口にするには随分と軽率な言葉だな。精々、物理的に首が飛ばないように祈っておいてやるよ」
にやりと笑う合崎に、一睨みを利かせ彼に背を向けて歩き出す。つくづく腹立たしい奴だ。あの清々しい気分を見事に打ち消してくれた。
「ああ、そうそう。言い忘れてた」
「まだ言い足りないか? 痴れ者め」
調子がいいどころか、絶好調ではないか。白いベッドの上でふっと笑う彼には、最早呆れて言葉もない。
「――――ありがとう、憐」
屈託のない笑顔で不意にそういうことを言うから、本当にこいつはずるい。病的なほどに素直じゃない。その一言を言うために、どれだけの憎まれ口を叩いたのだ。
「ああ、どういたしまして!!」
半ば投げやりにそう返して、私は足早に彼の部屋を出た。今日も彼には敵わなかった。部屋に入るなり、白いベッドの上に体を投げ出して、慣れない彼の素直な言葉に火照った頬を冷ますようにして、枕に顔を押し沈めた。
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