第16話

 そのドアの先は、別世界だった。


 本人認証を経て足を踏み入れた合崎の部屋には、微かに薬品の匂いが立ち込めていた。合崎が寝ているのであろうベッドの傍には、点滴が吊り下げられている。


 柊は合崎の部屋の前まで付き添ってくれたが、私と一緒に中へ入ろうとはしなかった。その方が、きちんと合崎と向き合えるだろうと気を使ってくれたのだ。


 合崎に、どんな言葉をかけるべきだろう。そんな迷いを抱きながら、私はそっとベッドへ近づいた。



 顔が見えるほどの距離に来て、ようやく合崎は私の気配に気が付いたようだった。普段の彼とは、比べ物にならないほど鈍い。普段の意志の強い瞳とは対照的に、虚ろで不安定な視線が私を捉えた。


 思ったよりも辛そうだ。額に薄く浮いた汗から察するに、相当熱が高いのだろう。弱り切った合崎を前に、いつものように皮肉を言う気にもなれず言葉に詰まってしまう。


「……憐、なのか」


 熱に浮かされたように、ぽつりと彼は言った。そうして私が言葉を返す間もなく、不意に私の手を掴んだ。いつもは私より冷たいその手が、今は異様なほどに熱い。


「幻覚じゃ、ないんだな」


 そう言って嬉しそうに笑う彼に、何も言えなくなってしまう。目の前にいる彼は、明らかに合崎よりも記憶の中の「空兄様」に近い人だった。これが彼の素の姿なのか、高熱のせいなのかは分からない。


 彼は軽く体を起こすと、私にベッドサイドの椅子に座るよう促した。手は、変わらず掴まれたままだ。


「……合崎、寝ていた方がいいだろう。手も離せ」


「嫌だね」


 そう言って彼は、翳りのある笑みを見せ、私の手を握る力を強めた。ひどく暗い瞳だった。


「この手を離したら、今度こそ、憐は消えてしまうだろう?」


 ああ、「空兄様」はこんな表情で「わたし」の幻覚に微笑みかけていたのだろうか。同時に、彼にこんな寂しい表情をさせてしまったことに深い後悔を覚える。どうしようもなかったこととはいえ、彼にはこんな表情で笑ってほしくなかったのに。


「……だいぶ、錯乱しているようだな」


 「一条」らしく、からかうように笑ってみせるも、そんな私の表情にさえ微笑みを見せる彼が、痛ましくてならなかった。


わたしが消えてしまった方が、お前にとっては好都合なんじゃないのか?」


 その言葉に、彼は翳った瞳のまま穏やかに笑った。その表情がやけに端整で、寒気が走る。


「……あるいは、そうかもしれないな。憐さえいなければ、ここまで苦しむこともなかっただろうから」


 ほら、やはり、彼は私がいなくなることを願っている。それは、紛れもない事実なのだ。


 思わず、彼の手を振り払おうとするも、痛いほど強く握られて振り解けなかった。目の前にいる彼は「空兄様」のようで、確かに合崎なのだと思い知らされる。こんなにも強い力は、優しい「空兄様」は持っていなかった。


「……なぜ、手を離さない? 私のことが嫌いなんだろう?」


 益々見えなくなっていく彼の心に苛立つように、半ばヒステリックな言い方になってしまった。対照的に彼の瞳は暗く沈んだまま私を見つめていたが、やがてさも可笑しいとでも言わんばかりに笑ってみせる。


「――嫌い? 俺が、憐を?」


 一瞬のうちに胸倉を掴まれ、引き寄せられる。こういう所作の荒いところは、普段の合崎そのものだ。いつになく近い距離のまま、彼は歪んだ笑みを見せ、睨むように私を射抜く。


「……嫌いになれたなら、どんなによかったか。お前にはわからないだろうな、


 深い憎しみのこもった声だった。このまま私の胸倉を掴む彼の手が、首元に伸びてもおかしくはないほどの憎悪だった。それなのに、彼の瞳は酷く悲し気に翳るのだ。


「……あの一か月間、ただひたすらに、会いたいと思い続けるのは苦しかった。憐がどんな仕打ちを受けているのか、考えるだけで気が狂いそうだった。憐の悲鳴を聞いた時には、本気で白衣たちを殺したいと思った。幻覚が見えるようになったころには、たとえ悲鳴でも、憐の声が聴けるだけで嬉しかった」


 彼の熱を帯びた手が、私の首元に伸びる。抗う間もない一瞬の出来事だった。思わず、いつか味わった深い苦しみを思い出して目を瞑る。


 だが、首筋に這うように添えられたその長い指に、力が籠められることはなかった。


 代わりに、彼は私の肩に頭を預けるようにしてもたれ掛かる。その姿は私を殺すまいと抵抗しているようにも見え、彼の葛藤は浅くないことを覗わせた。


「――――憐、君は憐れな子だ。想いも感情も腐りきった、こんな人間に愛されるなんて」


 私の首に添えた手を離すこともなく、俯いたまま彼はそう告げた。言葉と行動がまるで一致しない彼の姿を見て込み上げる感情は、恐れでも愛しさでもなく、ただひたすらに憐れみだった。

 

 きっと、彼の心はぐちゃぐちゃだ。修復不能なくらいに壊され、それでもなお「憐」と向き合うことを強いられて、使い物にならなくなってしまった。


「……可哀想な奴だな、お前も」


 肩に載せられた彼の頭に軽く顔を寄せ、そっとその黒髪を撫でた。幼い頃とはまるで逆の光景だ。


 不意に、彼の髪を撫でる自分の手が震えていることに気づいて、ふっと苦笑が零れる。私も、彼のことは言えないのかもしれない。私自身、どうして彼を受け入れているのかも、震えているのかもわからなかった。


 心の中が滅茶苦茶なのはお互い様のようだ。しかも、ただ一つはっきりと分かっている想いが、互いに「憐れみ」だけだというのだから、私たちはどうしようもない。

 

 けれども、私たちのこのどうしようもなさを、このままでいいのかもしれないと思う程度には心地よく感じるのもまた事実だった。私と合崎が、「好き」だとか「嫌い」で片をつけることが出来るほど、さっぱりとした美しい関係であるはずがないのだ。


 互いを憐れみ合いながら、この醜い関係に縋って生きていく。それもまた一興であろう。実に、私たちらしい。


 やがて、合崎が眠るように意識を失うまで、そう時間はかからなかった。私に寄りかかるようにして眠る彼を再びベッドに寝かせ、肩まで白い毛布を掛けてやる。


 そして、額に張り付いた合崎の前髪を掻き上げ、自分の額を合わせて目を瞑る。依然として熱は高いままだが、眠る彼の息遣いはいくらか安らかだ。


 自然と、微笑みが零れる。久しぶりの、心から穏やかな笑みである気がした。


「……おやすみ、空兄様。いい夢を」


 

 


 


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