第15話

『特殊研究班 経過観察報告書』


 そう書かれた表紙をなぞりながら、嫌な予感がしていた。思わず塔長を見やるも、彼女はこちらのことなど視界に入っていないかのようにお茶を楽しんでいた。


 題名を見ただけで、早くも後悔が込み上げる。これは、手に取るべき品ではなかったかもしれない。手の震えが心なしか大きくなっているような気がした。


 そうは言っても、手に取った以上は読まなければならない。そういう約束だ。呼吸を整え、そっと表紙を捲る。



『この研究は、アイザキ ソラ(以下被験者A)の終末予知能力の精度とその条件を調査することを目的に行われるものである』



 アイザキ ソラ。片仮名で書かれた色味のない文字列に、少なからず動揺している私がいた。悪い予感程よく当たるものだが、これは外れてほしかった。



『被験者Aの持つ終末予知能力とは、予知するその時点での条件が継続した場合、対象の終末がいつになるかを予測するというものである』



 合崎の能力については、私自身詳しく知らなかった。これを読んで、軍が合崎を欲しがる理由も分かった気がする。ある時点での条件が継続した場合の終末を予測できるのならば、条件を変えて敵を殲滅するまでの最も効率的な方法を知ることも、負傷兵の手当てを適切な度合で行うこともできるのだから、とても効率的だ。まさに、軍師にはうってつけの能力だろう。


 何ページかに渡って、合崎の年齢や身長、体重などと言ったデータが詳しく載せられている。それらをぱらぱらと流し見ていると、『経過観察報告』と銘打ったページに行きついた。


 動揺するような内容があるとすれば、恐らくここなのだろう。改めて、深く息を吸って呼吸を整える。今となってはもう、恐怖が好奇心を優に超えていた。できることならば今すぐ読むのをやめてしまいたい。だが、それとなしに注がれる塔長の視線が、それを許すはずもなかった。


 数秒間だけ目を閉じ、少しだけ心を休める。そして、重怠く感じるこの手でページを捲った。



『第1日目

 被験者Aを隔離観察室へ収容。被験者は、時折研究員に微笑んで見せるなどして精神面、身体面ともに良好。本日の終末予知的中率は80%』


 隔離観察室。私が幽閉された部屋と同じような環境だろうか。あの、狂いそうなほど白に染まった部屋で、沢山の管や機械類に繋がれた「空兄様」を思うと、胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。


『第5日目

 被験者Aは疲労が溜まっている様子。食欲も落ち、時折こちらを見上げては視線を伏せるなどと、精神面において、少々不安定な状態が続いている。

 しかしながら、本日の終末予知的中率は87%。引き続き観察を続け、精神状態と終末予知的中率の関係を探る』


『第10日目

 被験者は、身体面、精神面両方において衰弱がみられる。食事を摂ろうとしないため、点滴を行った。

 時折、譫言のように別の被験者であるイチジョウ レン(以下被験者B)の名を口にする。被験者Aの終末予知的中率と精神状態の関係を探る上でも、被験者Bの利用価値はあると思われる。終末予知的中率には変化なし』


『第12日目

 被験者Aの精神状態はさらに悪化。今日も譫言のように被験者Bの名を繰り返し呟いている。本日も終末予知的中率に変化はなし。

 また、「被験者Aの精神状態が悪化するほど終末予知的中率は上昇する」という仮説に基づいて、新たな実験の開始が決定された。』


『第14日目

 被験者Aは塞ぎこみ、虚ろな目で一転を見つめ被験者Bの名を繰り返している。終末予知的中率に変化はなし。

 明日から、被験者Aの精神状態をより悪化させるためのプログラムが開始される』


『第15日目

 本日より、予定されていたプログラムが開始された。被験者Aが不安定になる音を24時間隔離観察室で流し続ける。また、点滴に僅かに薬物を混入させた。

 被験者Aは疲弊し、終末予知についての試験は見送られた』


『第17日目

 本日より、視覚的なプログラムを開始した。単純に嫌悪反応を示すような映像もあるが、サブリミナル効果を利用したものが主である。

 被験者Aは時折「やめてくれ」と口にしており、身体面、精神面、ともに劣悪な状況である。本日も終末予知的中率は89%』


『第18日目

 正式に被験者Bを利用する許可が出されたため、本日より被験者Bが生体実験室で苦悶する音声のみをリアルタイムで流すことが決まった。被験者Aは初めて涙を見せ、一層塞ぎこむような様子が見られた。本日の終末予知的中率は90%』


『第20日目

 被験者Bの音声は、我々の予想をはるかに上回る結果を出した。

 被験者Bの苦悶する声に、被験者Aは酷く困惑している様子が見受けられ、音声を開始して数分で、耳を塞ぎ「やめろ」と絶叫した。その後も、声が枯れるまで叫び続けており、本日の終末予知についての試験は見送られた』


『第22日目

 被験者Aは、被験者Bの音声を流しているときに限らず、被験者Bの名前を叫び続け、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。

 自発的な感情の動きは殆ど見られないものの、被験者Bの影響力はいまだに絶大なものである。本日も、終末予知についての試験は見送られた』


『第24日目

 被験者Aに薬物による禁断症状が表れた。

 幻覚が見えるようで、絶叫の中、時折糸が切れたように黙り込み、何も無い空間に向かって微笑みかける。微かな声で被験者Bの名を呼んでいることから、被験者Bの幻覚が見えているものだと思われる。終末予知についての試験は、最終日まで見送られることが決定した』


『第26日目

 被験者Aは一日中、被験者Bの幻覚に「殺してくれ」と叫びながら訴えていた。

 途中、点滴の針で自傷行為に走り、鎮静剤を注射し眠らせた。首筋に針で裂傷が出来たものの、命に別状はなかった』


『第28日目

 被験者Aは辛うじて意識を保っているレベルにまで衰弱。

 壁にもたれ掛かったまま、殆ど一日中動くことはなかった。時折、俯いたまま微笑みを見せ何かを呟くような仕草を見せるが、音声を聞き取ることは不可能であった』


『第30日目

 一か月に渡る実験を終了。被験者Aの感情はほぼ欠落した様子。

 本日の終末予知的中率は99%。実験は成功と言える可能性が高い』



 報告書の束が、するりと私の手から滑り落ち、床に舞った。それを拾う気力もない。冷え切った指先は思うように動かせず、揺れる掌を見て私は自分が震えていることに気が付いた。


 なんて酷いのだろう。なんと惨いのだろう。


 信じたくなかった。幼い「わたし」があんなにも慕っていた「空兄様」がこんな仕打ちを受けていたなんて。何一つ、認めたくなかった。これが、精巧に作られた塔長の悪い冗談だったなら、どんなによかっただろう。


「憐! ……もう、いい。もう、読まなくていいから」

 柊が寄り添うように私の肩に触れる。その温かな感触さえ、遠い世界のもののように感じてしまう。


「まあ、肝心の部分は読んだようだしな。そのくらいで許してやるか」

 塔長は空のティ―カップをテーブルに置くと、床に舞った報告書の内の一枚を拾った。


「……一条を虐めたかったわけじゃないんだ。私だって、これを初めて読んだときは酷く動揺した。久しぶりに吐き気を催したのを覚えているよ」


 塔長は長い睫毛を伏せて、表情を翳らせる。その言葉に嘘はないように思えた。


「でも、一条には知っていてほしかったんだ。……なあ、これを読んでもまだ、合崎が君のことを嫌っていると思うか?」


 分からない。合崎の心がますます見えなくなる。この報告書だけを見れば、合崎は私に執着しているようにも思えるが、彼はこの後、私と再会し、やがて私の首を絞めるのだ。


「……わからない、わからないよ、空兄様……」


 ここにはいない彼に呼びかけるようにして、私は頭を抱えた。心の中がぐちゃぐちゃだ。ありとあらゆる感情が溶けて混ざっていく。


 私はいま、どんな表情をするのが正解なのだろう。彼の負った傷を悲しむべきか、この帝政の理不尽さを怒るべきなのか。けれども思いつく感情はすべて、相応しくないような気がしてならなかった。


「合崎は、今も苦しんでいるよ」

 ぽつりと塔長は呟く。


「彼を救えるのは、恐らく、君だけなんだろう。一条」

 

 私が、合崎を救うだなんて、今まで一度も考えたことはなかった。そんなこと有り得るのだろうかと疑う気持ちはやはり晴れない。


 それでも、私は会いに行かねばならぬのだろう。彼の話を、きちんと聞かなければいけないような気がした。


「……部屋の前まで一緒に行こうか、憐」


 最後の迷いを捨て、私は柊の言葉に大きく頷いた。まだ僅かに震える手を、柊の大きな手がそっと包み込んでくれる。


 知ってしまった今、逃げることは許されない。数年ぶりに、彼と向き合うときが来たのだ。


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