第7話
朝の教室のざわめきの中で、私は音森と机越しに向かい合っていた。今日はこちらから音森の席へ出向いたので、彼女の周りに取り巻きはいない。
「私の靴を返してくれないか」
柊に言えば、代わりのものなどすぐに用意してくれるのだろうが、彼の前で、靴を失くした理由を誤魔化せる気がしないのだ。何せ、「白」のトップである院長でさえ、柊に隠し事を見破られずに済んだことはないというのだから恐ろしい。
「何のことかしら」
白々しく、しらばくれる音森の反応は、予想できないものではなかった。つくづく面倒な奴だと、軽く息をつく。
「お前の望みはなんだ? こうまでして私に何を求めている?」
音森は、軽く視線を上げて私を睨んだ。こちらも動じることなく、彼女を見下ろす。
「気が向いたら返してあげるわよ。目障りだから、近寄らないでくれる?」
普段は音森たちの方から近づいてくるくせに、と心の中で悪態をつきつつも、予鈴が鳴り響いたため、自席に戻らざるを得なくなった。
音森は、一言も合崎について口にしない。果たして噂は本当なのだろうか。疑わしく思いながら、自分の席から音森の後ろ姿を眺める。
いずれにせよ、今日も革靴で訓練を受ける他ないようだ。今日も合崎は目ざとく気付くのだろうか。何か適当な言い訳を考えていかねばなるまい。
昼休み開始のベルが鳴り響く。移動教室から教室へ戻る途中、私は普段は避けている中央階段を使っていた。この時間帯は、この階段を利用する生徒が多く、かなり騒がしい。広々とした横幅と踊り場があるため肩が触れるほど狭いということはないが、好んで使う気にもなれなかった。
こんな場所、さっさと抜けて千翔に会いに行くに限る。私はゆっくりと談笑しながら降りていく女子生徒を避けるように、足を進めた。
その瞬間、背後から何者かの手に強く押される。背中に残った掌の感触が、まるで焼きつくように記憶に刻まれていく。
バランスを取る間もなく、私の体は倒れ始めていた。突然のことで咄嗟に体が動かないが、せめて数段先にいる女子生徒を巻き込まないようにと重心をずらす。すべて、ほんの一瞬のことだった。
「――憐!!」
喧騒の中で、聞きなれたあの声だけが耳に届いた。次の瞬間、私は何かに包まれるようにして階段を転げ落ちていく。
どうやら踊り場まで落ちたらしく、目を開ければ何人かの生徒の視線が向けられていた。手足は痛むが、頭や首に何も異常はない。
ふと、抱き留められるように回された腕をみて、はっとする。軽く顔を上げ、なぜこいつがここにいるのだと場違いな驚きに目を泳がせた。
「――合崎?」
彼は、私から手を離すと、酷く呆れたような表情で溜息をついた。男子生徒用の黒い制服から覗く手首が、僅かに赤く腫れている。手の甲にも、軽い切り傷があった。
まさか、あの合崎が、私を庇ってくれたというのか。久しぶりに彼と目が合う。どんな表情をするべきなのか分からなくなって、どちらからともなく視線を逸らした。
「……落ちるなら、一人で落ちろよ、一条。被害を最小限にとどめる努力を怠っただろう」
何を言い出すかと思えば、開口一番に訳の分からないことを言う。私の前に合崎の姿などなかった。彼がいれば後ろ姿でも分かったはずだ。二人の間に流れたこの微妙な空気を払拭するためとは言え、私が巻き込んだと言い張るには少々難がある。
「……身に覚えがないんだが」
「最近、集中力が切れているようだな。人混みで足を踏み外すとは、次期軍師の名も廃れたものだ」
いつの間にか、私たちの周りを取り巻くように生徒たちの群れが出来ていた。その中に一瞬、赤い靴が見えた気がした。
その靴の主を追うように視線を上げると、人混みの中に栗色の髪が見えた。朝の腹いせだろうか。派手にやってくれたものだ。
「何だ? どうした?」
そうこうしているうちに、教官がやってきた。この騒ぎを聞きつけてきたのだろう。人混みを掻き分けるようにして、教官が私たちの前へ姿を現す。
「またお前らか!? とんだ問題児たちだな……」
教官は嘆きながらも、合崎の手首の傷に目を留める。心底呆れたとでも言わんばかりに、教官は私を見下ろした。
「一条がやったのか?」
「……まあ、そんなところです」
私が合崎に怪我をさせた元凶であることに違いはないのだ。場を収めるためにも潔く認めておく。
「大した怪我ではなさそうだが、救護室へ行け。二人ともだ。午後の訓練には顔を見せるなよ。悪化でもして、君たちの教育係に嫌味を言われるのは御免だ」
反論する隙も与えず、教官は私たちを一瞥すると去って行った。
「うん、一条さんは大したことなさそうね。良かったわね!」
馬鹿みたいに能天気な声で、救護室の主である
「合崎くんが庇ってくれたのね。何て素敵なの!」
誰かから事の成り行きを聞いていたらしく、余計な言い訳をせずに済んだのはありがたかった。まるで、女子生徒と変わらないテンションで話を進められるのにはついていけないが、柚原先生は、察しもよく、生徒からは人気の先生だ。
柚原先生は、とてつもない美人だ。まるで作り物のように整った顔立ちをしている。それでいて、飾らない無邪気な少女のような笑顔を崩さないから親しみやすい。生徒の手当てをするときに鼻歌さえ歌わなければ、まさに理想の養護教諭像なのだろう。
合崎は手首の怪我の他に、足首も軽く捻ったらしく、ベッドの上に寝かされていた。この大袈裟な対処に不満げな合崎は、先ほどから先生の鼻歌を腹立たしそうに聞き流している。
一方で、私は本当に小さなかすり傷だけで、この部屋に留まる必要もないほどの怪我だ。合崎の足首に巻かれた包帯を見ると、罪悪感のようなものが込み上げてくる。
合崎は私を庇ってくれたのだ。彼の優しさは、いつも素直ではない。だから、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言いそびれてしまう。
それに、彼が私を「憐」と呼んで守ってくれたことが、何よりの驚きだ。時折、彼の感情が全く見えなくなる。彼の中の「憐」はもう、とっくに死んだはずではなのに。
「私は、午後からの訓練に救護班として立ち会うから、二人はここでおとなしくしていてね」
救急箱を片手に白衣を羽織り、柚原先生はひらひらと手を振って出て行ってしまった。まだ、訓練開始まで30分ほどあるが、何かと準備もあるのだろう。
ふと、制服のポケットの中に入れた端末が震えた。千翔からのメッセージだ。事情を説明し、今日の昼休みは会えそうにもないという旨を伝えたメッセージへの返信で、私たちのことを案じてくれているようだった。優しい子だ。
端末をしまい、椅子から立ち上がるとベッドの上で横になる合崎と目が合った。「終わりがみえる」というその目は今も、私の終末を見据えているのだろうか。
「昼食を買いに行ってくる」
そう断りを入れて、そのまま私は救護室を出た。午後はずっと合崎と二人きりなのかと思うと、気が重い。言うべき言葉は分かっているものの、果たして私がそれを素直に口にできるのかは疑わしい限りだった。
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