第6話
夕食を終え、入浴も済ませて就寝準備を整えた私は、毎朝飲む紅茶の角砂糖を補充してもらい、部屋へ戻るところだった。この時間帯になると、出歩く白衣の研究者たちも少なくなってくる。
「やあ、憐。もうお休みかい?」
廊下でそう声をかけてきたのは、柊だった。彼は数枚の書類と分厚い本を持って、どこかへ向かう様子だった。柊は昼夜問わず忙しい。彼のメインの肩書は、もちろん「次期軍師教育係」だが、何かと他の部署の仕事が回ってくるらしい。帝国も、優秀な人材には随分と無理をさせるものだ。
「柊は……まだのようだな」
「この通りだよ。次代の支配者には、もう少し常識的な価値観で人事を決めてほしいものだよ」
無理をするなと言いたいところだが、柊の仕事量は無理をしなければとてもじゃないがこなせない。時折目に隈を作ってまで働き続ける彼が、心配になる。
「立ち話したついでに、頼まれてくれないか?」
その言葉と共に、分厚い何冊かの本を手渡される。古びた紙の匂いがした。
「この本を、空に渡しておいてほしいんだ」
それは、何の他愛もない、まだ「外」の世界があったころの洋書だった。柊は本当に忙しそうであるし、頼まれない理由もない。
「わかった。部屋に戻る前に届けるよ」
「助かるよ、憐」
それじゃあ、おやすみと私に声をかけて、柊は去っていった。私は角砂糖の瓶を洋書の上に乗せて抱えると、そのまま合崎の部屋へ向かう。
合崎の部屋のベルを鳴らしても応答がなかったので、本人証明をパスして、自動的に開いたドアの先へと足を踏み入れる。入浴でもしているのだろう。そうであれば、この本を机の上に置いて帰ればいいだけだ。
だが、私の予想は外れたようで、この部屋の主は、読書用の眼鏡をかけたままソファーに寄りかかるようにして眠っていた。彼の傍には、眠る直前まで読んでいたであろうページが開かれたまま、無造作に置かれている。
私は無言で洋書を机の上に置き、そのまま戻ろうとしたが思い留まってしまう。こんな体勢で朝まで眠ってしまっては、体が痛みそうだ。明日の勝負は貰ったなと思いつつも、どうしても、そのまま立ち去るのは気が引けてしまう。
完全に空調管理が施された部屋で風邪をひくということはほぼないが、完全にないという訳でもない。私は小さく溜息をつきながら、ソファーにかけてあったブランケットを合崎の肩にそっとかけた。そうして首のあたりにクッションを差し込み、多少は楽な体勢を取れるように計らう。疲れているのなら、本など読まずにベッドで休めばいいのに。
ぐっすりと眠る合崎の横顔は、やはり整っていた。黙っていれば、学院の女子たちが彼を噂するのも確かに納得できる。
私は彼の傍に置いてあった本を取り、ぱらぱらとページを捲った。これも、まだ「外」の世界があったころに書かれたものだ。私たちが「外」の世界を知る術は、かつての作家たちが綴った風景描写しかない。それも、帝国の認めた本以外は出回っていないのだ。専門的な知識は、特別に学ばないと知ることは出来ず、その権利もごく限られたものだった。スノードームで「外」の世界についてよく知っている人間は、殆どが敵対組織「影」の対策に当たる部署に所属している。
「影」はスノードームの撤廃を求める過激派の組織だ。「外」の世界が死んでいるのならば、人間もまた共に死ぬのが自然の理だと主張し、帝国と完全な対立関係にある。スノードームが出来たばかりの頃、帝国の司令部に所属していたある研究者がそのような考えに至り、帝国と敵対し逃亡の末、「影」と呼ばれる組織を作り上げたのだという。
「影」の殲滅は帝国軍の最も重要な任務と言ってもよい。学院でも、「影」の思想の異常性、残虐行為の数々を叩き込まれるように教えられ、一部の熱心な生徒はその命を賭してでも、「影」を滅ぼしたいと意気込んでいる。
ただ、自分たちの主張を罷り通すためにテロ行為を散々繰り返す「影」の姿勢には呆れるが、その主張には一部頷ける部分もあるのかもしれないと思うこともあった。もっとも、次期軍師である私がこんなことを口にした日には、幽閉され、死は免れないはずなので口が裂けても言うことはないのだが。
私や合崎は、次期軍師という身の上のため、一般の帝国民よりはある程度自由に「外」についての本を手に取ることが出来た。合崎の読んでいるこの本も、一般には出回っていない禁書扱いのものだ。
そこには私たちの知らない世界のことが綴ってある。「空」や「月」、「雲」などと言われても、想像もできない。ただ、響きがよいので今も人の名前には残っていることが多い。合崎がいい例だ。ただし、残ってはいるものの、殆どの人が、それらが「外」の世界にあるものなのだということを知らずに一生を終える。
汚染された「外」の世界に残る「空」や「月」は、この本に書いてあるように、今もまだ、美しいままなのだろうか。
私は本を持ったまま、合崎を眺めた。彼は、「外」の世界のことを知りたがる。それが単なる知識欲を満たすためなのか、他に理由があるのかは分からない。軍師になる身の上としては、知っておいて損はないのだろうが、いずれ学べばよいと思っていた私は、考えが甘かったのかもしれない。
合崎が開いていたページに戻して、栞紐を挟んで本を閉じ、持ってきた洋書の隣に並べた。面倒だが、眼鏡も外してやって本の上に乗せておいた。こんなことをして、私自身、何をしているのだろうという気持ちになるが、この穏やかな時間を壊す気には、どうしてもなれなかった。
ここにいるのは「合崎」で、「空兄様」ではないのに。
それでも、時折見せる合崎の優し気な表情に、思わず私も微笑んでしまうのだ。その後には決まって、心臓を抉るように胸が痛むのに。
「――おやすみ、空兄様」
ぽつり、そう呟いてから、どうしようもない虚無感を覚える。きっともう、彼は忘れてしまっただろう。「憐」という「妹」がいたことなんて。
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