第5話
笑い声と共に床にばらまかれる筆記用具を、私は無表情で見つめていた。何が楽しいのかは正直よくわからないが、知りたくもないのが本音だ。
視線を伏せがちにする癖があるせいか、音森の赤い靴はよく目に留まった。白地に青いラインの入った軍服調の制服には似合わないはずなのに、音森が身に着けると妙にしっくりとくるから不思議だ。
「あら、ごめんなさいね? 一条さん」
今日も白々しい言葉を吐いて、音森たちは教室から出ていく。誰一人として私の方を見向きもしない。私は無言で筆記用具を拾い上げ、落とされた衝撃で壊れてしまったボールペンをゴミ箱へ投げ捨て、教室を後にした。
購買のチョコレートマフィンは、今日はまだ3袋ほど残っていた。私は1袋のチョコレートマフィンとパック入りのレモンティーを手に、ラウンジへと向かう。
最上階、ガラスで仕切られた壁の向こうには、既に二人分の人影があった。今日は合崎も来ているらしい。
「先輩! こんにちは」
私がラウンジに姿を現すなり、千翔は華やいだ声を上げる。その隣では、今日も無愛想な合崎がチョコレートマフィンを食していた。
「今日は早いんだな」
「はい。先輩は、少し遅かったようですが、何かありましたか?」
まさか、音森たちに嫌がらせを受けていたから遅れたのだと言えるはずもなく、私はチョコレートマフィンとレモンティーを見せて誤魔化した。
「購買が少し混んでいたんだ。そのせいかな」
そう言いながら、千翔の隣に腰を下ろして、チョコレートマフィンの袋を開ける。
「先輩も、班長も本当にチョコマフィンがお好きですね。本当のご兄妹のようです」
昨日、柊に持ち出されて胸が痛んだ「兄妹」という言葉も、千翔から聞けば不思議と穏やかな気持ちになれた。それは、彼女も「兄妹」の一人だからだろうか。
私たち三人が暮らしていた孤児院では、年上の子どもには「兄様」、「姉様」と親しみを込めた敬称をつけて呼ぶのが習わしだった。いずれ里親が決まる子どもがほとんどとはいえ、孤児院にいる間は皆、天涯孤独であることに変わりはないのだ。偽りでも家族のように近しい仲間が出来れば、という創設者の願いから、「兄様」、「姉様」と呼ぶ伝統が出来たのだと聞いている。
そのため、千翔も入学前は私たちのことを、「憐姉様」、「空兄様」と呼んでいた。無邪気に私たちの名を呼ぶ彼女は本当の妹のように、可愛らしく思ったものだ。だからこそ、入学を機に、「先輩」、「班長」と呼び方を改められたときは少々寂しかった。
「教育係が甘党だからな。自然と好みも似るというだけの話だ。私としては、千翔のような可愛らしい妹がいることの方が誇らしい」
「可愛らしいかどうかは分かりかねますが、私はずっとお二人の妹ですよ。里親がいる、今も、です」
殆ど盲目的と言ってもいい程に、彼女は私たちを慕ってくれている。彼女のその真っ直ぐな思いを、いつか素直に受け取ることが出来るような人間に私はなれるのだろうか。
午後からの訓練に向け、訓練服に着替えた私は、ブーツを取りにロッカーまで来ていた。靴まで変えるのは正直面倒だが、動きやすさは格段にブーツの方が良い。合崎に勝つ可能性を少しでも高めるためには、仕方のないことだった。
ロッカーの扉を開け、ブーツを取り出そうとした手を、不意に下ろす。昨日の訓練終了時にしまったはずのブーツが無かった。
1秒も欠落しない記憶を辿ってみるが、確かに昨日、私はブーツをここに収納している。冷たいロッカーの感触も、ブーツの重さも、そのままに蘇ってくる。何度繰り返しても慣れないこの感覚に寒気を覚えながら、仕方なくロッカーの扉を閉めた。
ふと、ロッカーの影からくすくすと笑い声が聞こえて、何となく察してしまう。影から一瞬見えた赤い靴の色が、やけに目に焼きついた。
音森たちも、随分と古典的な嫌がらせばかりするものだと、一人、溜息をついた。
「一条、訓練始めるぞ。急ぎなさい」
ロッカーの横を通りかかった教官の呑気な声に、渋々足を進める。今日は革靴で訓練を受ける他ない。
私は教室の十倍以上はある広い訓練室へ足を踏み入れながら、辺りを見渡す。一つ上の階から見下ろせるように設計されているこの部屋の仕組みは、感情を殺されたあの日々のことを思い出させるから嫌いだ。
既にウォーミングアップで、軽く撃ち始めているペアに注意しながら合崎を捜す。男子生徒の中でも、背の高い彼はすぐに見つかった。彼は待ちくたびれたように私を見つめると、大袈裟に溜息をついてみせた。
「最近、行動が遅れているようだな。気をつけろよ」
彼の言葉からは苛立ちは感じられなかったが、相変わらず無愛想な言い方だ。私だって好きで遅れているわけではないのだが、遅刻していることは確かなのでここは素直に認めざるを得ない。
「悪いな。気を付けるよ」
そう言って、私は機銃を両手に取った。取られたのが機銃ではなく、ブーツでまだよかった。この機銃は入学以来ずっとお世話になっているもので、愛着があるのだ。慣れ親しんだ重さが、よく手に馴染む。
そのまま歩き出そうとした私は、ふと、合崎の視線を感じて顔を上げる。彼はいつになく、訝し気な表情で私をじっと見つめていた。
「……なんだ?」
「――珍しいこともあるものだな。一条が、素直に謝るなんて、気味が悪い。……それに、訓練用のブーツはどうした?」
彼は、昔から無駄に察しがよく、大抵の嘘は見破ってしまうから困る。考えてみれば、私が合崎に隠し事をするのは音森の件が初めてのことだった。見透かされぬように気を付けなければならない。
「……じゃあ、撤回するとしようか。相方を待つ忍耐力のないお前こそ、我慢というものを覚えてみたらどうだ?」
「……相変わらず、可愛くないな」
悪態をつきながらも、銃の準備に入った彼を見る限り、上手く誤魔化せたようだ。どうせ、合崎が嫌がらせのことを知ったら何かしらの行動を起こすに決まっている。面倒ごとにならないうちに、音森たちが私に飽きてくれることを願うしかないようだ。
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