第8話

 私はいつもよりも一回り大きい購買の袋を提げ、救護室へと足を踏み入れた。合崎のベッドを仕切るように囲んだカーテンの向こう側で、何やら華やかな話し声がする。


「でも、よかったです! 軽い怪我で済んで」

「私たち、本当に心配になってしまって……」


 カーテンの下から覗く何人分かの靴の中に、赤い靴が見えた。成程、あの噂は嘘ではなかったのか、と一人納得する。気配を悟られぬよう、薬品棚の影に身を潜め、様子を窺った。


「また、派手に目立ってしまったようだな」

 苦笑交じりの合崎の声は、満更でもないように聞こえた。普段は無愛想なくせに、案外楽しそうではないか。自然と、袋を握る手に力がこもる。こっちは合崎のためを思って、下らない嫌がらせに耐えているというのに。


「でも、ついてなかったですね。転落事故に巻き込まれてしまうなんて……」

 音森の声だ。私を押したであろう主犯が、よくもそこまで白々しく嘘をつけるものだ。


「そうですよ! もし、大きな怪我にでもなっていたりしたら……」

 完全に、私は悪者扱いのようだ。少々腹立たしいが、もう慣れている。いっそカーテンの向こうに姿を現してやろうかとも考えた。物陰から動けずに突っ立っている自分がひどく滑稽に思えたのだ。


「いや、俺が勝手に巻き込まれただけで、一条は何も悪くない。あのまま落ちていれば、負傷者は一条だけだっただろう。それに、あいつは目の前にいた生徒を避けようとしていた。咄嗟にその判断を下せるのは、流石としかいいようがないな」


 私の判断力。膨大な記憶の中から、最善策を打ち出せるのが次期軍師としての私の強みなのだと、柊は言っていた。まさか、合崎が私のその特性を認めてくれていたとは思わなかった。


「じゃあ、何で先輩は……」

 おずおずと、取り巻きの一人が尋ねた。音森も、私と同じように沈黙を決め込んでいる。

 

「……別に、君たちに言う義理はない。それより、午後の訓練はいいのか? そろそろ始まるだろう」


 一方的に打ち切られた会話を前に、音森たちに成す術はなく、掠れた声で「はい」とだけ返してした。そのまま、音森たちが合崎のベッドから離れるのを確認すると、薬品棚にぴたりと背中をつけて一層息を潜める。


「失礼しました」という声を最後に、救護室内は沈黙に包まれる。ドアが閉まり、白いカーテンだけがゆらゆらと揺れていた。


「それで、何をこそこそと隠れているんだ? 一条」


 笑みを含んだ声が、話しかけてくる。悔しいが、流石は学院の首席なだけある。音森たちはともかくとしても、合崎にまで気配を悟られぬようにするのは至難の業だ。


「邪魔をしたようだな」

 白いカーテンを掻き分けて、合崎のベッドの傍へ歩み寄る。怪我をしたところで、合崎は余裕に満ち溢れており、救護室にはそぐわない空気感だった。


「一条も顔を出せばよかっただろう。クラスメイトじゃないのか?」

「……まあ、そうだが、顔見知りという程度で話の腰を折るのもな」

 

 合崎はまさか、あの華やかな少女が私に嫌がらせをしているなどとは、夢にも思っていないのだろう。適当な言い訳をして、誤魔化す他になかった。


 もし、あの状況で私が現れていたら、音森はどんな顔で私を見ただろう。ある意味、見物かもしれないが、明日からの嫌がらせがエスカレートしそうなので、やはり避けておいて正解だった。


「いつから私に気づいていた?」

「当然、一条が入室してきた時からだ。まあ、彼女たちにはばれてなかったようだから、上出来なんじゃないのか?」


 では、私に聞かれていると分かったうえで、私の特性を認めるような話を持ち出したのか。私の反応でも想像して、内心笑っていたに違いない。とんだ策略家だ。軍師にはよく向いている。彼には、まだまだ敵わないことばかりだ。


 軽く息を整えて、意を決して彼の前に購買の袋を置く。少々乱雑な置き方になってしまったが、構わないだろう。


「――悪かったな、怪我させて。これは、せめてものお詫びだ」

 面と向かって謝ることなんて、この数年間なかった。どんな表情が相応しいのかも分からず、かといって合崎の目をまっすぐに見つめるような度胸もない私は、思わず顔を背けてしまった。


 そんな私を見て、珍しく合崎が笑う。ちらりと横目で確認すれば、含みのある笑みでも苦笑でもなく、限りなく「空兄様」の笑顔に近い表情だった。懐かしさと胸の痛みが混ざり合って、どくりと心臓が大きく脈打つ。


「謝罪よりは、憐の、ありがとう、が聞いてみたかったな」

 いつになく穏やかな声も、不意に名前を呼ぶのも、反則だ。彼はずるい。今更どういうつもりで私の名を呼ぶのかと、銃口を突き付けてでも問い詰めたくなるが、「空兄様」のようなその穏やかな表情を前にすると何も言えなくなってしまう。


「お前が怪我をしているのに、感謝をする訳が分からない」

 まさか、私が「守ってくれてありがとう」だなんて歯の浮くような台詞を吐くとでも思っているのだろうか。


 合崎はそんな私の言葉をふっと笑いながら、購買の袋からドリンクやチョコレートマフィンを取り出し、ベッドサイドのテーブルの上に並べた。そしてレモンティーを私に差し出す。


「昼食はまだなんだろう。早く受け取れ」

 まさか、一緒に昼食を摂る流れになるとは思わなかった。渋々、レモンティーのパックを受け取り、ストローを挿す。いつもは千翔がいるから平気だが、合崎と二人きりで食事をするのは何年ぶりだろうか。


 いただきます、と小さく呟いて飲んだレモンティーは、やけに甘く感じた。気まずいはずだと思っていたが、いざ二人きりになると実はそうでもないことに気づく。私たちにもう少し笑顔があれば、孤児院にいたころと変わらない時間になっただろう。


「うまいな」

「……そうだな」


 普段は食べ物の感想など一切口にしないはずの合崎がそんなことを言うからますます調子が狂う。油断すれば、懐かしさに飲み込まれ息が出来なくなりそうだ。


 私は今も、性懲りもなく、彼に「空兄様」の面影を求めているというのだろうか。そんなこと、認めたくはなかった。認めてしまったら、私はこの感情をどうやって押さえつければいいのかわからなくなる。


 「空兄様」はもういない。どれだけ追いかけても届かないところに行ってしまった。もう何回も自分に言い聞かせてきたことを、改めて胸に刻み、ストローを噛み潰して、この戸惑いをやり過ごすしかなかった。

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