第3話
音森たちに絡まれる前に、と私はそそくさと教室を抜け出し、学院の中に設置されている購買に来ていた。1時間の昼休みは、大切な休憩時間だ。甘いものを食べて気力を回復するに限る。もちろん、狙うは毎日欠かさず食べているチョコレートマフィンだ。
昼休み前に昼食を調達する生徒が多いせいで、既に品数は少なくなっていた。しかし、チョコレートマフィンだけは、私を待っていたかのように1袋だけ残っている。今日は朝からついていないと思っていたが、いいこともあるものだ。
チョコレートマフィンにすっと手を伸ばすと、同じように伸びてきた他の誰かの手とぶつかる。お互い、反射的に手を下ろした。
「ああ、悪い――」
そう言って相手を見上げると、事もあろうにそこにいたのは合崎だった。相変わらず無愛想に私を見下ろしている。
「奇遇だな、一条。ありがたく、そいつは俺が貰い受けよう」
「冗談じゃない。なぜ、お前もチョコマフィンなんだ」
「仕方ないだろ。一緒に育ってきたんだから、好みも似るさ」
合崎はチョコレートマフィンを手に取ると、にやりと笑う。
「残念だったな、一条。今日も俺に負けてばかりだ」
「話の途中で卑怯な奴だな」
「卑怯者で結構。帝国が求めるのは、いつだって勝者だからな」
そのやり取りの間に、合崎はさっさと会計を済ませ、チョコレートマフィンを片手に私の前へ戻ってきた。私より一つ年上のくせに、大人げない奴だ。
「――そして、支配者に求められるのは、慈悲深さだ」
そう言うなり、彼は袋の中からマフィンを一つだけ取り出して、残りを袋ごと私に押し付けた。
「……いいのか?」
前触れのない優しさに動揺しながら、彼を見上げた。彼は横目で私を一瞥してふっと笑う。
「これを機に、一条が俺に向けて発砲しなくなれば儲けものだからな」
そう言い残して、彼は去っていった。一言余計な奴だが、これも彼なりの今朝の件の謝罪なのかもしれないと思えば、悪くも思えなかった。とりあえず、しばらくは撃たないでおいてやろう。
「先輩!」
学院の最上階にある人気のないラウンジのベンチに座って、チョコレートマフィンを食していると、ガラス張りの壁の向こうから可愛らしい少女が現れた。セミロングの明るい茶色の髪を2つに結って、薄桃色の花をかたどった可憐な髪飾りをつけている。手には弁当箱の包みを持っていて、駆け寄るように私の隣に座った。
彼女は、私と同じ第6訓練班の班員の
私も合崎も天涯孤独の身だが、千翔には里親がいる。
近頃勢力を増す、帝国の敵対組織「影」による度重なるテロで、年々犠牲者が増えている。その中には当然、子どもの犠牲者も多数おり、子を失った寂しさを紛らわすように養子縁組を望む声が絶えないのだ。そのため、幸いにも孤児院にいる大抵の子どもは里親が見つかり、血は繋がっていないものの家族を手に入れることが出来るのだ。
私と合崎が例外だったというだけで、孤児院にいる頃には千翔にも里親の話が上がっていた。しかも、千翔の里親になる家が、水野財閥という帝国の主要な会社をいくつも運営する裕福な家だった。無事に話はまとまり、千翔は今、水野財閥の令嬢として教養を深める日々だ。本来なら里親は千翔をこの学院には入れたくなかっただろうが、私と合崎とともに学生生活を送りたいという千翔の強い希望を叶える形で、この学院への入学を許可したそうだ。里親はなかなか千翔に甘いようで、幸せそうな彼女の姿を見ていれば、里親に実の娘のように大切にされていることが分かる。
一方で、私と合崎は、昼は学院で、夜は中枢機関「白」にある部屋で厳重に管理されている。次期軍師を危険から守るためという名目らしいが、正直言ってうんざりしていた。
チョコレートマフィンを一口口に運びながら、ぼんやりと自分の境遇を嘆いた。私はどこかで、里親に愛されて生きる千翔を羨ましく思っているのかもしれない。
「班長は、どうされたのですか?」
千翔は花柄の包みを開くと、辺りを見回した。ここに合崎の姿はない。特に約束をしているわけではないが、第6班は大体ここで昼食を摂っていた。もっとも、合崎はしばしば姿を見せないこともあるのだが。どこで何をしているかは知らないが、合崎は私と違って嫌われてはいないのだろうし、教室で昼食を摂っても何も問題はないのだろう。
「さあな、どこかへ行ったぞ」
私としては、千翔に会えればそれでいいのだ。どうせ合崎とは放課後も一緒に過ごさなければならないのだから。
「班長はお忙しいのですね。でも結構です。先輩にお会いできましたので」
千翔は澄み切った茶色の目でこちらを見上げて笑ってみせる。こちらが劣等感を感じるほど、純真無垢な笑顔だ。何とか微笑みを返して、再びチョコレートマフィンを口に運ぶ。
私は、いつからか感情をうまく表現できなくなっていた。思い当たる節はあるのだが、今更どうすることもできない。感情を殺されたあの日々を思うたび、今も胸の奥が抉られるように痛む。
それに、軍人にとっては感情など邪魔なものでしかないのだ。心の動きに鈍くなればなるほど、残忍な作戦だって実行することが出来るだろう。元来、私には必要のないものだったのだ。
「やはり、先輩にはお優しい表情がお似合いですね」
私が無理やり貼り付けたような微笑みをみて、彼女はそんなことをいう。微笑みが似合うような、綺麗な生き方はしていないはずなのに。私の些細な表情の変化に喜んでくれる彼女がいるから、今日も私は微笑みを捨てられない。
「そういえば、今朝、班長と銃撃戦を展開されたそうですね!」
弁当箱を開けながら、嬉々として不穏な話題を切り出す彼女に、思わず私は視線を逸らした。
「いや、あれはな、ちょっとした不具合ってやつで……」
「どんな模範演習にも劣らない完璧な銃撃戦であったと伺いました」
どうやら変に情報が捻じ曲げられて出回っているらしい。いちいち訂正する気にもなれないので、聞き流すことにした。
「班長と先輩は、私たちの学年でも憧れの的ですよ」
私はチョコレートマフィンの最後の一口を飲み込んで、溜息をついた。どうせ、教師たちが私たちを変に祭り上げて、洗脳まがいのことを教えているのだろう。
「もちろん、例外なく私もお二人に憧れています」
「お前も、洗脳みたいなものだろう」
私たちが彼女を庇ったからといって、こんなにも恩義に感じてくれる必要はないのに。天神爛漫で、愛らしい笑顔の彼女から好かれるのは決して嫌ではなかったが、彼女に好かれるに値する人間ではないと自覚しているだけに、時折心苦しくなるのもまた、事実だった。
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