15

 アウシュビッツ――その名前も、そこで何が行われたかも、少しくらいなら正人は知っている。しかし、青木が頁を繰って語る詳細な事実の恐ろしさは、彼を心底震えあがらせた。狂信的なユダヤ民族絶滅を目的とした収容所の中は、まさに地獄以上だったのだ。

 収容所へ送り込まれた人々は、旅の疲れをいやすためと言われ、裸でシャワー室へ入れられる。子供を先頭に、女、男の順。乳飲み子を抱いた母親もいた。一回に二千人がスシ詰めにされ、そこへシャワーどころか猛毒ガスが噴射される。囚人たちは倒れる余地すらなく、立ったまま苦悶し絶命してゆく。看守は、同じ囚人にこの様子を覗き窓から見せ、絵に描かせた。その絵が目の前の頁に載っている。死霊が揺れ蠢いているような、おぞましい絵……

 ガス室だけではない。銃殺、拷問、人体実験、あらゆる死のかたちが、そこにはあった。狂気の極みのような殺戮の末、死体の脂肪は石鹸に、頭髪は絨毯に加工された。剥肉地獄のごとく皮膚を剥がされ、壁飾りにされた美少女もいた。

 遺骸はコンベアに乗せられ、まだ息のある者まで、かまわず焼却炉へ放り込まれる。こうして、一日二万人あまりが煙となった――

 青木が繰った頁に、これから銃殺される家族の写真が現れる。老婆を中心に数人の家族が腕を組んでいる。まだ幼い少女は顔を上げられず、肩をすくめて母親の陰に隠れている。そうしたところで、助かるはずもないのに……

 地獄とどこが違う? 正人は心の底で呻いた。青木の言うとおりだ。これは地獄そのものではないか!

「アウシュビッツだけじゃない。地獄はどこにでもその正体を見せる。日本だって……江戸幕府のキリシタン弾圧、それに――」青木は憑かれたように饒舌になり、書架からさらに本を選び出そうとした。

「やめてくれ!」正人は叫んだ。「やめてくれ……もう、たくさんだ」顔面蒼白になっている。

 書架を埋める本の群から、苦しみもがいて死んでいった人々の呻きが聞こえてくるようだ。

 正人は口を抑えた。胸にわだかまっていた不快感が突き上げてきた。窓を開け、身をのり出して吐いた。

 どこかで猫が鳴いている。サカリのついたような耳障りな声で。やっと〈真実〉に気づいたかと、人間二人の会話を嗤っているように聞こえる。ここへ来た日にカラスを襲った、あの猫かもしれない。

 口を拭いながら、青木に向き直った。

「出ていくよ、今すぐ。あんたは変質者だ。この寺は狂ってる」

「あなたにはここに居てほしいんだ、鈴佳さん。手伝ってほしいことがある」

「うるさい!」

 怒りか恐怖か、正人は鳥肌立っている。

「この寺には、たった一つ、衆生を救済する手段がある。とにかくそれを見てほしい」

 青木は床の間の置物をどけ、どこかを押した。すると床の間の板が外れた。

「地下室にあるのです。来てください」

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