14

 正人は、冷水を浴びせられたように硬直した。振り向くと、戸口に青木が立っている。寝間着姿ではなく、きちんと法衣に着替えている。

「あの、寝つけなくて、ふらふらこんな所へ……すみません、泥棒みたいな真似をして」あわてて弁解した。

 青木は部屋の明かりを点けた。いつもの無表情。先ほどの動揺を残してはいない。

「あの……」

 何か言おうとしたが、青木は、無断で書院へ入ったことを咎めるつもりはなさそうだ。独り言のように語り始めた。

「スクラップ帳を作りながら、世の中には、よくもこれだけ悲惨なことが起こるものだと驚きました。ご覧のとおり、この部屋には世界中の惨劇が集められている。これらすべてが、この世界が地獄であるということの証明です」青木は昼の話の続きを始めた。

「世界には――」声がかすれた。正人は唾を飲み込んだ。「――楽しいことだって、たくさんありますよ」

「欲を充たすのは楽しい。しかし、それが罠だ。欲を充たせば、それは次の欲を生む。欲は充たされぬ苦痛の種となる。際限のない欲のために、際限のない苦しみが続く、たとえ欲のすべてを充たすことができたとしても、そこに待つのは退屈という名の苦痛でしかない。どうです、地獄のメカニズムとは、うまく出来ているではありませんか」

「では、生きているより死んだほうがいいと……」

「ええ。しかし、この世に未練や執着を残して死んでゆくと、それが因となり、再び生まれ変わってしまいます。死ぬと地獄へ行くというのは、この世へまた生まれて戻ることを言うのです。輪廻転生。ご存じでしょう。ここでの刑罰は終わることがない」

「刑罰?」

「ここは魂の流刑地なのです。我々はすべて罪人なのだ。何処かで何かの罪を犯し、この地へ流された。いや、〈存在する〉こと自体が罪なのかもしれない。そして、この流刑地で、傷つきやすく、あらゆる苦痛に敏感な肉体という拷問衣を着せられ、こうして日々責め苦を受けているのです」

 目の前で独善的に厭世論を語る男に、正人は少し恐怖を覚えた。こいつは狂人ではないのか?

「わかりましたよ。それじゃあ、我々はいったいどうすればいいのですか?」

「煩悩を断ち切り、執着を捨て去る。つまり、悟りを得るのです」

「悟り?」

 正人は拍子抜けして、あやうく笑いだすところだった。これでは、まるで新興宗教の勧誘ではないか。

「ここが地獄であることを認識し、再びこの世に生を受けることを拒絶するのです。この世に存在するものに対する執着や欲望は、すべて輪廻の罠と知り、それを断ち切る。エネルギー保存則の罠から解脱するのです。そうすれば、死して再びここへ還ることはない。極楽という名の無へ、涅槃の中へ消滅してゆくことができる。これこそ釈迦が到達した境地なのです」

 身勝手な説法を聞いているうちに、正人の内に怒りが湧いてきた。

「あなた自身、どう考えようと勝手だ。でも、苦しくとも、笑顔で逞しく生きている人たちがいる。そんな病的な考えは、健全な人たちの精神を汚すだけだ」

「健全? ただ無知なだけですよ、大衆は」

 青木は書架から本を抜き出してきた。それを机上に開いた。第二次世界大戦中、四百万人が虐殺された、ナチスのアウシュビッツ強制収容所に関する記録だった。

「わたしは、歴史上、これ以上の地獄はなかったと思っている。地獄絵と比べてごらんなさい。同じじゃないですか。いや、アウシュビッツに比べたら、地獄絵のほうがまだましだ……」

 青木の目から涙が流れていた。

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